第六話 ヴィルヘルムの訪問 前編
そして午後。クローディアと早めの昼食を終え、着衣を整え来客室へと向かう。今日はヴィルヘルムが訪問してくることもあり、シックに感じる白と紺を基調とした衣服を身につけている。これを選んだのはもちろん、クローディアとデルハンナの二人だ。和気藹々としながら楽しそうに選んでいた。もちろんわたしはそれに対して異を唱えることなく、そんな二人を眺めながら着せ替え人形に徹していた。
「付け焼刃の状態ですが、作法についてはある程度こなせるでしょう。ヴィルヘルム様に失礼のないように努めなさい」
クローディアが来客室に繋がる扉を真っ直ぐに見据えながら言った。「はい」とわたしは神妙な顔で言うと、デルハンナがベルを取り出し鳴らした。すると中から「入りなさい」とアルベルトの声が聞こえ、デルハンナはベルを懐に仕舞うと扉を開けた。
「お待たせして申し訳ありませんわ、ヴィルヘルム様」
「いや、急に訪問したのだ。其方が謝る必要はない」
クローディアが左足を一歩引いて姿勢を低くし、軽く頭を下げる。これが貴族でのスタンダードな挨拶だそうだ。その場凌ぎの作法を学んだ時、頭を下げる角度や足の引き方、姿勢など細かく言われ指導された。クローディアの礼はわたしが指導されたものを全て正しく守っていて、洗練された動作でとても美しく、見惚れてしまう。
「オフィーリア。学んだことを生かして、ヴィルヘルム様とアルベルトに礼を見せてみなさい」
「はい」
クローディアに促されて、わたしも自身の左足を一歩引いて、軽く頭を下げた。午前中のほとんどの時間を礼の練習をしていたがあまり上達している気がしなかった。気を付けるところが多すぎて気が回らないのだ。傍から見たらきっと覚束ない動作なのだろうと思うが、何とか言われた通り礼を見せそこに直る。
「付け焼刃にしては良くできている方なのではないか?」
「恐れ入ります。ですが、オフィーリアは教育し甲斐がありますわ」
クローディアの言葉にヴィルヘルムは口の端をニッと吊り上げた。これは褒められているのだろうか。絶対に面白がられている気がするのだが。
そうして「座りなさい」というアルベルトの言葉にクローディアはにこやかに頷くと、わたしの背中に軽く手を添えて、ヴィルヘルムたちが座っている近くの空き椅子へと誘う。デルハンナが踏み台を用意して置いてくれたのでそれを使って椅子に座った。大人サイズなのでわたしが座るためには座面に手を付かないといけないのだ。デルハンナの準備の良さに脱帽である。
「……今回、オフィーリアの養親になってもらい助かった。ディミトリエの策により、私の対応が遅れ、其方たちに大きな迷惑をかけてしまった」
わたしとクローディアが着席したことを確認すると、ヴィルヘルムは申し訳なさそうな声色で話を切り出した。それに対してアルベルトは静かに首を横に振った。
「いいえ。話を貰った時に妻と話し合い、決めていたことだったので問題はありません」
「そうですわ。少し早まったくらいですもの、気になさらないでください」
二人の言葉にヴィルヘルムは「そうか」と小さく言うと、ふっと顔の力が抜けた気がした。その瞬間に決戦の日、ヴィルヘルムの「そういう甘え、頼れる存在がいるのは正直羨ましい」という言葉を思い出し、この人はずっと様々なことを独りで抱えてきたのではないかと感じた。そう考えると、わたしはヴィルヘルムという人物が領主であること以外何も知らないということに気付かされる。
「そう言ってもらえると助かる。……それで、オフィーリアがここへ来て何か不都合などはないだろうか。本来の養子縁組ならば、前の庇護者はある程度の援助をするのが筋なのだが、あまり力になれなかったのでな」
ヴィルヘルムの言葉にわたしは目を瞬かせた。今回の養子縁組は特例中の特例であると言っていたが、子どもを一人引き取るのだ。衣服や部屋の調度品、仕えの者など出費は多くなるのは間違いないはずだ。今着ている服もプレオベールの家が揃えてくれたもので、わたしからは一銭も出すことができていない。お金のことをそこまで考えていなかったことが急に恥ずかしくなってしまった。
「あの……、本当にありがとうございます」
「どうしたのだ? オフィーリア。いきなり礼など言って」
「いえ。わたしは受け取るばかりで何も返すものがなく、申し訳なくなって……」
わたしが眉を下げて言うと、アルベルトとクローディアは気にするなと言わんばかりに優雅に微笑んだ。
「子どもが気にすることではないのだ。これを決めたのは私たちだ。返すなどと考える必要はない」
「そうですよ。ヴィルヘルム様、子どもの前でそういう話をしてはいけませんよ。多感な時期なのですから」
プレオベールの家の皆はとても優しい。孤児院の皆とはまた違った温かさに心がぬくもってくるのを感じた。
そして、クローディアはしっかりとヴィルヘルムを窘め、ヴィルヘルムはわたしをちらりと見て「すまない」と呟いた。クローディア、強し。
「それで、オフィーリア自身は困ったことなどはないか?」
するとアルベルトがわたしに向けて話を振ってきた。ヴィルヘルムをじっと見ていたわたしはその言葉にハッとしてしまう。いけない、ボーッとしてしまっていた。わたしは慌てて顔を取り繕い、笑顔を浮かべた。
「皆さんが良くしてくださるので、何も困ったことなどありません。ご配慮いただきありがとうございます」
「……そうか。何かあればすぐに言うのだぞ」
わたしの言葉に安堵したのかアルベルトは表情を緩めた。そして話の流れが一度、止まったのを見計らってクローディアが切り出してきた。
「……それで、今日訪問したのはこのためだけではないのでしょう? 突然なのですから、私やオフィーリアに聞かせたい話があったのだと思っていたのですが」
「さすがだな」
今回の訪問の目的を知っているかのような言い草でクローディアは目をきらりと光らせた。ヴィルヘルムは肩を竦めると一つ息を吐いた。そうして両手を組み、真剣な眼差しを見せながら小声で話し出した。
「第一夫人がこちらを嗅ぎまわっているようなのだ」
「第一夫人……アリーシア様が?」
ヴィルヘルムの言葉にクローディアは目を見開いた。そこまで驚くことなのだろうかとわたしは目をぱちぱちとさせる。
確か、第一夫人はヴィルヘルムと折り合いが悪いはずだ。皆が話している雰囲気から察しているので詳しくは良くわからない。
しかし今回、わたしも同席しての話なのできちんと説明するつもりなのだろう。ヴィルヘルムはわたしを真っ直ぐに見据えると口を開いた。
「第一夫人は現ギルメット領主の姉に当たる人物だ。ギルメット領はこのジャルダン領を配下にするつもりで、第一夫人を前領主の妻に置いているのは明白だ」
他にも領地があるとは思っていたが、ギルメット領という言葉を初めて聞いた。話を聞く限り穏やかなものではなさそうだ。しかし何故、そのような領地の平和を乱すような人物を発言力が高めの第一夫人に据えているのか疑問が湧く。
「では何故、前領主様はその縁談を断らなかったのでしょうか。これは恋愛などない前提で話をしていますが」
「……領地にも発言力の違いがあるのだ。王族の配偶者、王都に文官を多く輩出するフォンブリュー領とトゥルニエ領。王国の戦力を保持し、武官を多く輩出するギルメット領。この三つの領地は発言力が高いため、押し付けられたら要求を呑むしかないのだ」
また別の領地の名前が出てきたが、またあとで整理をするしかない。ヴィルヘルムの言葉から、発言力が高いギルメット領からごり押しをして迫られた結果だということがわかる。上から言われたら吞むしかないという図は貴族と平民の関係とそっくりだ。気分が悪い。
「それで第一夫人は密にギルメット領主と連絡を取り合っているようだ。内容まではわからぬが、こちらの内部情報など良からぬことだとは思う。……それで今回の件で、ディミトリエを排したことが第一夫人にとって大きな痛手となったはずだが、こちらの弱みも知られてしまった」
ヴィルヘルムの瞳にわたしはすぅ、と背筋が寒くなった。アルベルトもクローディアもわたしを不安そうな表情で見つめている。弱み、それが意味するものは、おそらくわたしだ。
「部外者から見ると、其方はブルターニュの家からプレオベールの家に養子に行ったという認識だ。こちら側も孤児院にいたという事実を公表しているわけではない。しかし真実はディミトリエが目を掛け、引き取ろうとした其方を横から掻っ攫ったということだけだ。だから第一夫人にもこの真実は伝わっている。それほど其方がこちらにとって重要であることが伝わってしまった」
わたしはごくりと息を呑んだ。土壇場でわたしがアルベルトと養子縁組の契約を結んだ裏ではこのようなことが起こっていたとは微塵も思わなかった。前孤児院長の包囲網を打破するためにはそうするしか方法がなかったが、前孤児院長側から見たらそこまでして手元に置きたい駒だということは明白だ。
気付かないうちに権力争いに巻き込まれていることに寒気を感じつつ、わたしは膝の上に置いていた手を握り込んだ。
「そのため、駒を取り上げるという意味で動いてくるやもしれない。嗅ぎまわっているのは其方の情報だ。今日はそれを伝えたかったのだ」
「……ということはしばらくは大人しくしておいた方が良いですね」
クローディアの言葉にヴィルヘルムはゆっくり頷いた。




