第五十五話 リアの願い
価値の高い、という言葉がずしりとプレッシャーとなって覆い被さってくる。孤児院長に飼い殺される未来を阻止してもらえたのは本当に有り難いけれど、そこまでわたしに期待されても正直言うと困る。そんな気持ちが顔に出てしまっていたのかわたしの顔を見たヴィルヘルムは、手を軽く振った。
「魔力量の高さ、新しい料理の開発、そして十五の壁を乗り越える方法の発見で其方の働きは十分だ。こちらの利になることが多すぎる」
「特に十五の壁を打ち破る方法は大切な子どもを失わずに済むのだ。この功績はかなりものなのだぞ」
古代文字のことは伏せているのか、シヴァルディが提案したことで話は進んでいるようだ。だが、それはわたしの功績ではなく、シヴァルディが教えてくれたことだ。「違う」と声を大にして言いたいところだが、出どころをアルベルトに教えるわけにはいかないのでわたしは居心地が悪くなり、下を向いた。
「だから其方を上位貴族の養子にするには十分な理由だ。気にせずとも良い」
「ヴィルヘルム様がくれたご縁だが、私たちに娘ができたのだ。これほど嬉しいことはないぞ」
そう言ってアルベルトは一瞬憂いのある表情に変わった気がしたが、すぐに顔を取り繕った。そんなアルベルトの様子をヴィルヘルムはじっと見つめ、口元をきゅっと結んだ。そして、アルベルトは表情を緩めて笑顔を作るが、その瞳の奥には何か悲しみのようなものが見えた気がした。
「妻クローディアを含めて歓迎させてもらう。……契約はもう承認されたので、オフィーリアは孤児院を出てプレオベールの家に行くことになる」
「すぐですか?」
わたしの言葉にヴィルヘルムたちは頷いた。孤児院長も別れの言葉はいらない、と言っていたくらいだ。死んだことにされ、リアとして生きていたことだけ残るのみになるのだろうか。せめてアモリやマルグリッドたちにはお別れを言いたい。
「……助けてもらってこんなことを言うのはおこがましいとは思うのですが、孤児院でともに過ごしたみんなに別れの言葉は言いたいです。このまま消えてさよならはやっぱり辛いです」
「必要ない、と切り捨てればそれまでだが……」
ヴィルヘルムは考え込むように腕を組むと、わたしと近くに控えているシヴァルディたちを交互に瞥見する。貴族にとって平民側の事情は関係ないのだ。孤児院長の騒動で嫌というほど理解しているつもりだが、やはり駄目だろうか。
「其方と少し、話をすり合わせる必要があるやもしれぬ。アルベルト、オフィーリアの今後の予定はほぼ打ち合わせ通りだ。マルグリッドの部屋に先に行っててはもらえないか。少し話してから連れて向かうので、マルグリッドに大体の予定を話しておいてくれ」
「わかりました」
アルベルトは主に対して一礼すると、踵を返し、扉の外へ出ていった。わざわざアルベルトを排したということは、わたしや精霊たちと込み入った話がしたいということだろう。何を話すつもりなのか全く予想できないわたしの首筋がひんやりと寒くなる。
「シヴァルディ、イディ。扉の外も静かになったので、粗方ディミトリエの仕えの者は捕らえ、連れていかれたので、不可解な会話になっていても気にする者はいない。言いたいことがあれば言いなさい」
ヴィルヘルムが心底面倒臭そうな顔に変わったので精霊たちの方を見ると、二人とも何か言いたげなジト目でヴィルヘルムを睨みつけていた。その顔はいつからしていたのか。
『イディには荷が重いと思うので私が……。どうかリアの願いを聞いてはいただけませんか? 半分以上はこちら側の事情で引き取るのですし、これから精霊殿文字の解読もしてもらうことになります』
『孤児院長の一件のせいでみんなに心配かけたままなのです。少しだけでもお願いします!』
二人が懇願する姿を目の当たりにして自然と笑みが溢れてしまう。いつの間にかこんなにも心強い味方ができていたなんて、と自分が恵まれていることを理解し、気持ちが和んだ。
精霊たちの嘆願に対し、ヴィルヘルムは指を額に当ててため息を吐くとともに、眉を寄せて目を閉じた。
「……どちらにせよ、講堂の解読が残っているのであろう? 先日貰った報告書によるとこれから儀式の内容に取り掛かるとか。ここを出て行くことになるが、孤児院は勤めない限り貴族が頻繁に来れる場所ではないのだ。そのため短期間だが猶予を与えようかと思う。すぐにはなってしまうが、事前にそれは考えていた」
「本当ですか!」
解読作業もさせてもらえ、しかも別れの言葉もきちんと交わすことができる。
ヴィルヘルムは貴族のわりにとても良い人なのではないかと思う。一見、整った顔立ちをしているわりに喜怒哀楽をそこまで示さないので何を考えているのかわかりにくいが、関わってみるとわたしの希望を考慮して動いている方が多い。
特に精霊殿文字の解読作業はあと少しだ。儀式のことを知れば、この孤児院で何のために王族を招いていたのか、目的を知ることができる。孤児院長のせいで解読作業が空いてしまったのだ。焦燥感に駆られたわたしはどこにこの情熱をぶつけたらいいのだろうか、一刻も早く講堂に行くべきではないか?
「アルベルトからマルグリッドに今後の予定は話してもらっている。数日間で作業を終えろとは言わんが、プレオベールの家でも作業できるように手配はしておくように。……シヴァルディ、これでいいか?」
『さすがはジャルダンの子ですわ!』
渋々といった表情を全面に出しながらヴィルヘルムはシヴァルディに確認をとると、シヴァルディは手を叩いて喜んでいる。ヴィルヘルムの顔がさらに険しくなったのは気のせいだろうか。
「そして、報告書で願い出ていた歴史を学ぶことについてだが、プレオベールの家でどちらにせよ家庭教師を付けて勉強することになるがそれで良いか?」
「もう十分すぎます!」
情報の断絶が起こった原因となる大きな事件があるはずだと睨んだので、この世界の知らぬ歴史を学び、探りたかったのだ。また文字解読において文化や歴史を知ることはより正確な結果を出すためには大切なことだ。
家庭教師が付くということなら有り難いことだ。わたしは嬉しくなって声を弾ませた。
「あと其方が報告書に書いた考察だが、大変興味深かったのでシヴァルディの話と其方の話とで擦り合わせながら考えたい。孤児院では難しいので、プレオベールの家に移動した後にはなるがな」
「わかりました。それまでは儀式についての解読を進めます」
孤児院で過ごせるのは数日間なので、その間にやることは多いのだ。まだ儀式のこと以外に、シヴァルディの残りの記述があるのだ。そう考えると解読自体あまり進んでいない。解読を終えられたら一番良いが、やはり難しいので孤児院を出てからも作業できるように資料として残す方が良いのかもしれない。
まあ何日残れるか決まってから考えよ……。
「これ以上マルグリッドを待たせるわけにはいかない。彼女は其方の心配をして、私に全面協力をしたのだからな」
「先生が?」
考え込んでいたわたしにヴィルヘルムはマルグリッドの部屋に行くように話を切り替えた。けれどその後の言葉に引っかかってわたしはヴィルヘルムに聞き返した。
わたしの問い返しにヴィルヘルムは肯定も否定もせず、とにかく部屋を出るように促し歩き始めたのでわたしはその後を追いかけるようについて行く。
「マルグリッドは自分の損得関係なく、其方を大切に思っているようだ。私がディミトリエを追い詰めるために協力を仰いだ時、こちら側に条件も提示せず無条件で受け入れたのだ。貴族としてはあり得ぬことだが、……まあ嫌いではない」
「先生……」
ヴィルヘルムは早足で歩きながらもわたしの問いへの答えを説明する。やっぱり優しいじゃない。
自分の立場もあるのに危険を顧みず、ヴィルヘルムはわたしのために動いてくれたのだ。これほど嬉しいことはない。本当に知らず知らずのうちにわたしは良縁に恵まれていたのだな、とじんわりと心が温かくなる。
けれど、あの頃にはもう戻れない事実がすぐに降りかかってきて、胸がちくんと痛んだ。
「そういう甘え、頼れる存在がいるのは正直羨ましいと思う。だから、リアとして心残りのないように最期を過ごしなさい」
「あ……」
わたしより前を歩いているのでヴィルヘルムの顔は見えない。わたしにこの言葉を言いながら何を考えていたのだろうか。
この言葉からヴィルヘルムは何も言わなくなった。そしてわたしたちは無言のままマルグリッドの部屋へと向かう。
そしてその後、マルグリッドを含めて形だけの話し合いが行われた。わたしは今日を含めてたった二日間しかない最期の時を孤児院で過ごすという決定事項を伝え、その間、マルグリッドたちはわたしがリアでいた頃と同じ接し方で接することが決まった。わたしがマルグリッドたちに命令した形になっているのが、あまり気が乗らないが仕方がない。そしてすぐに解散となった。
あと二日。
わたしはリアとして最期の時を過ごすことになる。
次で一章、最終話です。




