第五十二話 決戦 前編
この部屋に閉じ込められ、一晩をここで過ごした。
鍵が常時かけられた状態なので外に出ることはおろか、尿意を催して便所に行かせてほしいと懇願しても却下され、部屋の中に病院などで見る尿瓶のようなものを投げ込まれた。これにしろ、ということだ。死ぬ程恥ずかしかったが、尿意は我慢できないので仕方なしにそこにしたわたしの気持ちを誰かわかってほしいところだ。
そしてここに勤める貴族たちはマルグリッドのようにここで寝起きすることはなく、夕方になると皆、各々の家に帰るようだ。だからわたしが以前、貴族のフロアに無断で忍び込み、やりたい放題やった時もわからなかったのか。
そのため多めの瓶と尻がはまるくらいのバケツのような木製の入れ物、そして孤児院で出るものより質素な晩御飯がわたしがいる部屋に運び込まれた。これで一晩、何とかしろということだ。仮にも軟禁しているのだから、監視という意味でも一人くらいは残った方が良いと思うのだが。危機管理の低さに唖然としてしまった。急に倒れていたり、逃げ出したりしたらどうするのだろうか。不思議である。
しかし鍵がばっちりかかっているため抜け出すこともできず、精霊殿文字に関する資料も手元にないので手持ち無沙汰になったこともあり、わたしは明日に備えて早めに就寝した。本当ならば今日も抜け出して続きをしたのに……! 今日から儀式に関するところだったので良いところでお預けを食らってしまい、孤児院長に対して沸々と怒りが込み上げてきている。
そしてシヴァルディはヴィルヘルムに報告を終え、今朝、ヴィルヘルムと視覚共有のために戻ってきた。契約書を渡したことで今、ヴィルヘルムは夜通しで処理をしているようだ。
「出てきなさい」
早めに就寝したので今日は日の出頃から起きていたが、迎えが来たのはしばらく経ったくらいだ。寝台の上で座っていると突然扉が開き、アルヴェーンが入室してきた。
わたしは黙って立ち上がり、目線を合わせないように注意しながらアルヴェーンの側まで寄る。
「ふん、眠れたようだな。さすが平民だ。神経が図太い」
小馬鹿にするように笑い捨て、踵を返す。気分が悪い言葉を浴びせられ不快感甚だしいが、何か反応してその場で切り捨てられるのは御免だ。わたしは口元をきゅっと結んで怒りを抑えた。
何? この部屋でメソメソして眠れずげっそりしてたら満足だったわけ? 性格悪ぅい!!
『リアが泣いたり怖がってたりしたら満足だったわけ? このアルヴェーンって男、性格悪すぎ!』
『そうですね。権威を笠に着た小物の男ですわ』
わたしが思っていたことを隣でイディとシヴァルディが声に出して怒り散らしていた。イディに至ってはほぼわたしが思っていたことそのままである。
けれど二人がわたしの代わりに怒ってくれたので少し怒りが落ち着いた。わたしは結んでいた口を少し緩めるとアルヴェーンに続いて軟禁部屋から外へ出た。
その後は昨日とほぼ同じだった。昨日わたしの湯浴みの世話をした女性に引き渡され、素っ裸にされた後、ゴシゴシと乱雑に洗われた。そして時間をかけて丁寧に身支度を整えられた。もちろん女性の長ったらしい文句付きだ。聞き流したのでどんなことを言っていたのかもう忘れたが。
「入室を許可する」
昨日と同様に女性に連れられて孤児院長の部屋の前まで来て、ベルを鳴らすと部屋の中から孤児院長の低い声が返ってきた。女性はベルを懐に戻し、扉を開ける。
「連れて参りました」
「今から大切な話がある。娘をここに連れてきたら其方は退出しなさい」
今まで孤児院長の文句を言っていたとは思えないくらい女性は百八十度態度を変えていた。そしてわたしの背中をかなりの力で押しながら孤児院長の側まで連れて跪かせると、恭しく礼をしてそのまま退出していった。
頭を下げている状態で足下しか見えないが、三人。孤児院長、ブルターニュ夫妻だろう。
「顔を上げなさい」
ゆっくり顔を上げると、ニヤニヤと気持ちが悪い笑顔を浮かべている孤児院長と孤児院長に対して笑顔を向けているブルターニュ夫妻が椅子に座っていた。そして、孤児院長は机の上に用意していた書類二枚、まとめて取るとわたしの目の前にぶら下げた。
「さて、昨日言った通り全ての準備が整った。お前はこの二つの契約書に署名すれば、無事に親元に帰ることができる。孤児院での貧しい暮らしではなく、貴族として豊かに過ごすことができるぞ」
「おお、オフィーリア! 帰っておいで」
「私たちは貴女を歓迎するわ!」
意地の悪い笑みを浮かべながら書類を振る孤児院長と薄っぺらい笑顔と言葉で話しかけてくる両親と名乗る二人に、嫌悪感しか湧いてこず、気分が悪くなる。書類を改めて見つめるが、ブルターニュの家に正式に戻った瞬間に孤児院長に引き取られることは変わっていない。これでは人身売買と変わらないではないか。
「さあ、この二枚の契約書に署名をしなさい。そうすれば私が全て良いように処理すると約束しよう」
そう言って孤児院長はわたしの目の前に、ばさりと契約書を広げた。前から父親と名乗る男性がペンを握らせようと近づいてくる。
「……ああ、そうか。お前は孤児院暮らしだったから字が書けないのだったな。……ゴドフリート」
「はい」
ゴドフリートと呼ばれた男性は、わたしの手を持ちペンを握らせた。そして、わたしの意思とは関係なく手を動かそうとする。
……やめて! 署名なんてしない!
振り払おうと力を入れるが、所詮子供の力なのでたかが知れている。力負けし、あっという間に契約書の署名欄にペン先をつけてしまった。
「力を、入れるな……! お前と私は家族に戻れるんだぞ……!」
『リア!!』
苛立ったような凄みのある声でゴドフリートは無理やりわたしの手を動かそうとする。それに対してイディがゴドフリートの手を持ち、止めようとするが精霊の微弱な力では何の役にも立たない。
何故そこまで必死になって署名させたがるのか。静かに目の色を変え、契約書を食い入るように見つめるゴドフリートをわたしはひそかに睨みつけた。子どもを想うならば子どもの意思や感情を聞き、話をしてくれるはずだと思うのだが、この夫婦にはそれが全く見られず、その気配すらない。わたしを道具としか見ていないような気がする。
「抵抗するな、リア! ゴドフリート、そのまま署名してしまえ。机の上のナイフも使い、血判も押させよ」
「はい!」
なかなか署名しようとしないわたしに痺れを切らしたのか、孤児院長はゴドフリートに強行するように命令する。嬉しそうな声を上げ、ゴドフリートは返事をするとさらに力を入れて、わたしの名前を書こうとする。ぷるぷると震え、なかなか進まないが、しかし着実に終わりのカウントダウンは始まっている。ブルターニュ夫人も椅子から立ち上がり、机の上に置かれているナイフを持ち、すぐにわたしの指を傷つけられるようにゴドフリートの近くに立った。
ダメ……! 絶対、ダメ!!
わたしの持つ最後の力を振り絞ろうと、ぎゅっとわたしは目を瞑った。
「……ディミトリエ。其方は何をしているのだ?」
孤児院長、ブルターニュ夫妻、誰の声でもない若い男性の声が部屋に響く。すると無理矢理署名させようとしていたゴドフリートの力が急に抜け、わたしの手があっという間に自由になった。
「りょ、領主様……」
孤児院長が青い顔をして呟くので、やっとかと思い彼が見つめる方向に振り返る。
そこにはジャルダン領主ヴィルヘルム、そして彼の後ろに数人が立って、孤児院長を睨みつけていた。
「もう一度聞こう。其方は何をしているのだ?」
「そ、それは……」
ヴィルヘルムが乗り込んでくるとは孤児院長は全く予想していなかったのだろう。予想外の出来事に孤児院長は目を泳がせて、言い訳を考えている。ヴィルヘルムはそんな孤児院長を一瞥し、青磁色の瞳を鋭く光らせると、つかつかとわたしの目の前にある契約書を奪い取った。言い訳を考え巡らせていたためか、孤児院長は取られないように手を伸ばすが、その手は反応しきれずスカッと空を切った。
「ふむ……、この内容は……」
シヴァルディを通じて全て見えていたので、契約書の内容は事前に知っているだろう。顎に手を当てて考えるふりをすると、ヴィルヘルムは目を細めて孤児院長を睨みつけた。
「この娘を其方が引き取ると読めるのだが、合っているか?」
ヴィルヘルムの声からは感情が感じられず、淡々とした口調だ。しかし、ちらりとわたしを見たその目が「やれ」と言っている。……そういうことか。
「そ、そんな! 孤児院長は、わたしを家族の元に返すって言ってくれました!」
「貴様……!!」
取り乱した子どものように大声を上げて、わたしはヴィルヘルムに迫る。自分がわたしに対して都合の悪いことを伏せ、言っていたことなのに、孤児院長はわたしの発言を聞いて睨みつけてきた。するとヴィルヘルムは口端を吊り上げ、思惑通りに事が進むことを喜ぶような顔付きになった。




