第五十一話 名ばかりの提案
「其方には、ディミトリエとの契約の前に私と契約を結んでもらう」
『え!?』
イディが驚いて声を上げる。シヴァルディは事前にヴィルヘルムから聞いていたのか表情は変えていない。わたしはその続きを求めるように読む。
「私の庇護がある限りは基本的に身柄を縛れるが、あの契約書のように庇護から外れる契約を先にされてしまっては手出しができぬ。引き取るための抜け道は使えるが、他の介入であっさり崩れることもあるためディミトリエはこのように口を挟めぬ方法を取っているのだろう。最悪、今の状態で其方が拒んでも無理矢理署名させることもできるしな」
マルグリッドの言っていた抜け道は最終手段として取ったということか。孤児院長のやり方に今、納得することができた。
「……そのため以前言っていた上位貴族の養子になる話をここで進める。ディミトリエ側でない上位貴族に私が既に話をつけ、其方を養女として受け入れられるようにしている。中位より上の立場の人間ならば、ディミトリエは口出しできないからな。シヴァルディに持たせた契約書に署名し血判を押したら、正式なものとして処理しておく……、と書いてありますが、シヴァルディはその契約書を預かっていますか?」
『ええ、これですわ』
そう言ってシヴァルディは手のひらを上に向けると、一枚の長方形で形が整った皮と小さなナイフが現れる。よく見ると文字の羅列が見えたので、羊皮紙だとすぐに理解した。わたしは羊皮紙を受け取ると、書かれている内容を確認する。
一つ、平民としてのリアはオフィーリアであることを認め、貴族籍に戻ること。
一つ、今後はリアであったことを捨て、オフィーリアと名乗ること。
一つ、オフィーリアは上位貴族プレオベール家の養子になること。
上位貴族プレオベール家? どこ?
リアからオフィーリアに戻ること、上位貴族の娘になることは理解できたが、その引き取られ先が全く面識のないところで困惑する。わたしはその答えを求めて、メモ帳に書かれているであろう続きを黙読する。
──プレオベールは私の文官で腹心だ。その当主夫婦の養子として其方を迎える準備をしている。貴族としての務めは果たしてもらうことにはなるが、生活の保障はする。ディミトリエほどの悪待遇はないと言って良い。
その後は、選ぶのは其方だ、という言葉で締められ、手紙は終わっていた。
引き取られ先はヴィルヘルムの手の内か。そして文章の書き振りから孤児院長の良いようにはされないけれど、わたしはこの孤児院から出て行かなければならなさそうだ。わたしはメモ帳から目を離し、再び契約書の署名欄に目を落とす。空白の欄をじっと見つめていると、このようなことになるとは思わなかったという戸惑いが湧いてくる。
わたしは心安らかに解読をしたかっただけだったんだけどな……。しがない平民として成人するまではここで、成人後はできればひっそりと城で。
しかし今や、貴族の仲間入りをしなければならない現実が目の前に突きつけられている。ここで署名しなければ孤児院長側に、署名すればヴィルヘルム側に。どちらを選んでも飛び込む世界は今とは常識も大きく異なっているのは変わらない。
未来を想像し、その悩ましさに頭が痛くなり、わたしはわからないようにそっとため息をつくが、それで状況が変わるわけではない。
『リア……?』
わたしが固い表情をしていたのか、それを心配してイディが顔を覗き込んできた。
けれど今の状態で最善の方を取るしかない……! 領主様に未解読文字が書かれているかもしれない昔の文献を貰えるように精霊殿文字の解読を盾に交渉しよう……! 待遇改善、大事!
気持ちを入れ替えるためにわたしは両手で頬をぱちんと叩く。わたしを見ていたイディとシヴァルディが驚いた様子を見せたが、わたしは二人に向けて笑顔を見せた。
「大丈夫! ちょっと神経質になってただけ! ちゃんと覚悟、するよ」
そう言ってわたしは自分の精霊力を引き出して愛用のペンを取り出した。精霊道具である鉛筆でも良いかと思ったが、契約書なので、やはりペンの方が良いと思ったのだ。そのまま書くと黄金色の光る文字になるので、ペンに精霊力を篭めながら黒のインクを想像し、空虚に試し書きをする。すると、わたしの想像通りに汁気たっぷりのインクが滲んだので、わたしはすぐに手で振って試し書きを消した。その都度ごとに効果を変更できるから、精霊道具でないこのペンは便利だ。ただし燃費は良くないのだが。
そして、わたしは契約書を机の上に置き、皺ができないように紙を一撫でし、意を決してペンを構えた。
『リアがオフィーリアと呼ばれても、貴族になっても、ワタシはずっとリアの味方だから……!』
『自身の精霊力を使い、私を呼び出してくれたのは貴女です。私はずっと、リアとともにあります』
そう言ってイディとシヴァルディは真剣な顔つきでわたしの左手に自身の手を重ねた。
わたしは一度目を閉じ、腹を括って契約書にサインをする。そしてシヴァルディが持っていた小さなナイフで恐る恐るながら指を傷つけ、血判をくっと押した。
『これで貴女はオフィーリアに戻り、ブルターニュではなく、プレオベールの娘となりました。この契約書はすぐにヴィルヘルムの元へと届けて参ります』
シヴァルディは優雅な礼を一つすると、署名された契約書を手に取ると消した。血判を押すために傷つけた指の傷がちくちくと痛むのと同じように、胸も何故か痛い。契約書一つでわたしを取り巻く環境が変わってしまった、と呆然としてしまう。
『オフィーリア、と呼んだ方がよろしいですか? ……私は今まで通り、リアと呼びたいのですが……』
虚空を見つめていたわたしにシヴァルディが言いにくそうに尋ねてきた。わたしは正式にオフィーリアに戻ったのでこの世界のルールからしたら、正しい名前で呼ぶ方が良いのだが、わたしはシヴァルディの言葉に同意した。
「はい。むしろリアって呼んでください。この世界には『愛称』という概念がないので、本来は間違ってるかもしれませんが、前の世界では親愛を込めて特別な名前で呼ぶ習慣っていうのがあったんです。……シヴァルディもイディもわたしの特別な存在だから、そう呼んでほしいです」
『リアもワタシにとって特別な存在だよ!』
『アイショウ……。とても素敵な文化ですね。……では、これからもリアと呼ばせていただきますね』
貴族としてオフィーリアという名でこれからを歩んでいくことになるが、平民として過ごしたリアとしての自分をなかったことにしたくなかったのだ。ヴィルヘルムやマルグリッドを初めとする貴族たちは、これからわたしをリアとは呼ばないだろう。そして孤児院で共に過ごしたアモリたち仲間も、わたしと同等の関係で笑い合うことはない。だから、せめて精霊たちにはリアを覚えておいてほしかったのだ。
喜んでいる二人を見て、わたしはありがたい気持ちになって小さく「ありがとう」と呟いた。
『……さて、ヴィルヘルムに何か伝えたいことはありますか? あるならその手帳に書いておいてもらえますか?』
「そう、ですね……」
結局、契約に関することしか書かれておらず、わたしが解読したことについては言及されていなかった。自由の身ならば講堂に忍び込んで解読作業を続けたいところだが、今の状態では部屋を出ることさえ難しい。手紙に書くことが正直ないのだ。
「待遇改善について談判しておこうか」
プレオベールの養子縁組の話しかしないので、これからわたしがどう過ごすのか全く想像ができない。手紙には貴族としての務めを果たしてもらう、としか書いていないのだ。
ヴィルヘルムの都合で移ることになるのだから、わたしの利になるように改善してもらわなければならない。特に、精霊殿文字とかプローヴァ文字とか未解読文字とか未解読文字とか。文献をもらって解読作業できる時間と環境は最低限整えてもらいたいところだ。
書くことは決まったのでわたしは付属している鉛筆を手に取り、少し精霊力を流した。そしてページを捲り、今後の生活のことと文字の文献に関すること、わたしの自由時間についての訴えを順番に簡潔に書いておいた。最後には「きちんと話し合いをさせてくださいね」と念押ししておく。
『書けましたか?』
「はい。あとは読めないように隠しておきますね」
わたしが鉛筆を置いたのを見てシヴァルディが尋ねてきたので、わたしは頷いた。そうしてメモ帳を閉じて、ドバッと精霊力を叩き込んでおいた。一応文字が消えているか確認するが、跡形もなくしっかりと消えているのでわたしは安心して手帳を閉じた。
「では手帳と契約書、領主様に渡してください。よろしくお願いします」
わたしはメモ帳に鉛筆を挟むと、そのままシヴァルディに手渡し、お辞儀をした。
『わかりました。必ず渡して、早く処理をしてもらいます』
シヴァルディは真面目な顔をして頷くと、メモ帳たちを受け取って消した。
『……では明日、全てを終わらせましょう』
大精霊らしい厳かな声で言い放つと、緑色の光の粒を弾けさせたかと思ったらシヴァルディの姿は消えていた。キラキラと光る粒子があとに残り、そして馴染むように消えていった。
わたしは小さく息を吐くと、とりあえず机の上に行儀悪く突っ伏した。
……全ては明日。悪いことは終わるけれど、良いことも終わってしまう。
言い表し難い虚無感に襲われ、わたしはその状態のまま目を閉じた。




