第五話 テオの実
『そんなに唸っても仕方がないと思うけど』
イディが呆れた声で水汲み中のわたしを諭す。
あれから三日。体力は戻ってきたが依然として仕事は終わらない。というより、仕事量が増えているような気がするが気のせいだろうか。
『リアが休んでいる間、他のみんなはヒーヒー言いながらやってくれたんだからちょっとくらい我慢しなさいよ』
そう言われると何も言えない。自分の欲求を満たすには何とか時間を見つけなければならない。しかし時間は作れない。世は世知辛い。
『あと、食事の下準備に子ども部屋の掃除、シーツの洗濯と菜園の手入れか。これ、寝る時間も削るくらいしないと終わらないわね』
寝る時間も削る?
イディの言葉を反芻してわたしは水汲みしていた手をぱっと止めた。
「そうか! 寝る時間があるじゃない!」
就寝時間をずらして作業すれば日中の仕事には支障がない。なんで思いつかなかったんだろう!
前世でも課題を仕上げるために朝日を拝んだことは何度もあることを思い出し、わたしはにんまりとしてしまう。
『え、本当に寝る時間削るの? 正気?』
「だってそうしないと講堂行けないじゃない」
『……リアの熱意には負ける』
イディは溜息をついて引き下がり、ふわりと姿を消した。精霊は姿を消したり、見せたりできるのだそう。力を温存したい時は基本的に姿を消しておくとイディ自身とても楽なのだと。とても便利なことだ。
一気に機嫌が良くなったわたしは井戸から水を汲み、鼻歌を歌いながら中へと運んでいく。心なしか汲んだ水が軽いように感じる。
決戦は夜だ。夜に向けて今は仕事を片付けてしまおうと思い、汲んだ水を水瓶に入れようと調理場に入る。昼食が終わったばかりなので後片付け組は食器類を洗いに外へ出かけているため調理場にはほとんどの人はいない。わたしは入り口近くにある水瓶に汲んだ水を入れた。
この感じじゃ、あと四、五回くらい往復か。
水の溜まり具合を見て残りの運ぶ回数を計算する。思ったより回数が多いことにげんなりしていると、同室のロジェが近づいてきた。
「あ、あの……、リア姉ちゃん? だ、大丈夫?」
もじもじとしながらわたしを心配するように話しかけてきた。
ロジェは小学校低学年くらいの年齢の女の子だ。わたしやアモリと違って精霊力は持っていない。だから私たちの世話をしているマルグリッドとは別の先生がいるので日中はあまり関わる事がないので珍しい。
「し、しんどくて休んでたのに、たくさん仕事して、て、手伝おうか?」
黄緑色の瞳を潤ませてわたしが持っている空の桶に手を伸ばした。
こんな小さい天使に心配かけて気を遣われるなんて、申し訳なさすぎる!
大きな桶をわたしより小さな子どもが抱えている姿に負い目を感じて、わたしはゆっくり首を横に振った。
「調子を崩したのはわたしが悪いし、休んでいる間ロジェ達がわたしの分も仕事をやってくれてたしこれくらい大丈夫! ありがとう、ロジェ」
わたしは笑みを浮かべながら言うと、手を伸ばしてロジェから桶をもらった。わたしの言葉を聞いてロジェはぱぁ、と顔が明るくなった。そして何か思いついたかのように白いワンピースのポケットをゴソゴソと探るとわたしの目の前に手を出した。
手の中にはさくらんぼを彷彿させるような丸い赤い実が三つころんと転がっていた。
「こ、これ、あげるね! テ、テオの実! 苦くてお腹いっぱいにならないからみんなは好きじゃないみたいだけど、つ、疲れてる時にとても効くの。た、食べて!」
ずい、と差し出される手の中のテオの実が揺れた。わたしを気遣う表情から出してくれたものなのだろう。わたしはにこりと笑うとテオの実を一つ摘んだ。思ったより実は硬い。
「このまま食べても大丈夫なの?」
「う、ううん! 中の実を食べるから、こ、こうやって割るの」
ロジェはそう言うと手のひらにあったテオの実を一つポケットに戻すと、もう一つの実を落花生の殻を割るように持って力を入れた。
パキッという気持ちがいい音とともに中から茶色の実が出てくる。ロジェはその出てきた実を指で摘むと可愛らしい笑顔を向けてきた。
わたしもロジェがしたように殻を割ると同じような茶色の実が出てきたので指で摘んでまじまじと見た。殻がなくなったのでさらに小さくなったその実は節分豆くらいの大きさだ。確かに節分豆を数粒食べたくらいでは満腹までいかないので子どもたちに不人気なのはわかる。
しかも苦いって言ってたけど、どれくらい苦いんだろう……。
未知のものを食すのはとても緊張するが意を決してテオの実を口の中に放り込んだ。そしてガリッと奥歯で砕く。
「う!」
口の中でドロッとした苦味が広がる。口内の水分が持っていかれてしまい、口の中はドロドロでさらに濃い苦味を感じる。
わたしは水瓶に入っている水を慌てて手で掬って飲んだ。
「リ、リア姉ちゃん! か、噛んだらとっても苦い、よ? 口の中でちょっと舐めてたら、と、溶けるんだ」
「そういうことは、早く言ってほしかった……」
口に滴った水を拭いながらわたしは言うと、ロジェは小さく「ごめんなさい」と呟いた。眉を下げ悲しげな表情にわたしが悪いことをした気分になってしまう。
水を飲んだがまだ口の中は苦い。しかし鼻を突き抜けていった香ばしい香りに食べたことあるような既視感を覚える。
「あ! 『チョコ』だ!」
前世で好んで食べていた高カカオチョコレートだと思い出す。前世の方がまだ甘みや香ばしさがあったが、ドロッとした舌触りや鼻を突き抜ける香りはそのものだった。
こんなところでチョコレートの原料と出会えるとはラッキーだ。チョコレートにはカフェインが含まれているので眠気覚ましにピッタリだ。これは文字解読のお供に使える!
「ロジェ! このテオの実、全部貰ってもいい?」
わたしはロジェの両手をがっしりと掴むと顔を近づけて頼んだ。何粒かあれば眠くなっても食べて凌ぐことができる。
悲しげな顔だったロジェはわたしの爛々と輝く瞳から喜んでもらえたと判断したのか、嬉しそうな表現を見せてポケットからテオの実を五つ取り出した。
「き、気に入ってもらえて、う、嬉しい……。最近あんまり取れなくなってるから、こ、これだけしかないけど、ぜ、全部あげるね」
「こんなに? ロジェ、ありがとう!」
ロジェから五つ全ての実を手渡されると両手で握りしめた。わたしの嬉しそうな表情を見つめてふわりと微笑んだ。
「リア姉ちゃんが、よ、喜んでくれると、私嬉しい。姉ちゃん、た、たくさんお仕事してくれるから、む、無理はしないでね」
「もちろんだよ! ロジェ、本当にありがとう!」
「うん……!」
栗色の癖っ毛を揺らしてロジェは頷いた。わたしは手を振って調理場を出る。水汲みの続きをしなければいけない。ロジェはわたしに手を振りかえすとそのまま調理場の奥へと消えていった。おそらく次の仕事にかかるのだろう。
「いいものもらったなあ」
時間と労力があれば甘みを加えて加工してチョコレートに近づけたいところだが難しいのでそれは仕方がない。夜の文字解読が楽しみすぎてさらに足取りが軽くなった。
『オフィーリア、何貰ったの?』
貰ったテオの実をポケットの中にしまおうとしたら右上から声がかかる。目線だけそちらに向けるとクセのある黒髪を垂らしてイディがテオの実を凝視していた。
「テオの実。ロジェから貰ったの」
『へえー。食べてみたい』
そう言ってイディは興味津々にテオの実の周りを蝿のように飛び歩く。
「精霊って食べ物を食べるの? そんな姿見たことないけど」
わたしが見てた限りでは食べ物や飲み物を食す姿は見たことがない。
『オフィーリアの精霊力さえあれば食べなくてもいい。でも気になるから食べてみたーい』
「わたしの精霊力を食べてたんかい」
知らなかったことにツッコミを入れつつわたしは桶を一度地面に置き、テオの実を一つ手に取って殻をパキッと割った。好奇心旺盛なのは良いことだが知らなくていい味もあるのだよ、とニヤつく口元を隠しながら実をイディに差し出した。
さあこの苦味に悶え苦しむが良い!!
わたしの意地汚い考えを他所にイディは嬉しそうに両手でテオの実を掴むとカリッと噛んだ。噛んだが最後、耐えがたい苦味が口の中に広がるのを想像すると、笑ってしまった。しかし。
『うっわあー! とっても美味しいじゃないこれ! ほろ苦くて香ばしくて!』
「はあ!?」
思ったのと違う反応にわたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。イディは『ほろ苦い』と言ったがほろ苦いなんてものではない。あの時の苦味はカカオチョコレート九十パーセント以上を食べた時より苦くてもったりとした味わいだったのでそのような感想が出るのはおかしい。
『ねえ、もう一個ちょうだい?』
「それ、食べ終わってから言ってくれる? それでもあげないけど」
テオの実をぺろぺろと舐めながらブンブンとイディは飛んでいる。わたしは冷たい目でイディを見ながら残りのテオの実四つをポケットに入れた。あとは夜の眠気覚し用だ。
イディは苦味が好み、と。
どうでもいい情報を得たがこれから共にする精霊なので覚えておいてもいいかもしれない、と前向きに考え、わたしは置いていた桶を持ち上げた。さっさと片付けないと後々面倒なのでわたしは小走り気味に井戸に向かった。
嬉しいことに準備は整ったから早く講堂に行きたいなあ。
夜になるのが待ち遠しくなってわたしは鼻歌を歌いながら桶を揺らした。
寝る時間を削っても文字に会いたいオフィーリア。
コーヒーや栄養ドリンクがあれば私は徹夜頑張れる派です。でも歳とともに難しくなってる気がします…。
次回、ついに再会できます。