第四十八話 孤児院長の思惑 前編
そして、来客用フロアの入り口が見えてくるとともに、一つの人影が見えた。
何だか見覚えがあるなと目を細めてしばらく見つめると、その影は食事会の時に料理の受け渡しを担当したアルヴェーンだということに気付く。ニコラとわたしは不敬にならないようさっと目線を下げ、足早に孤児院長の部下である彼の元へと駆けて行く。
「……遅かったではないか」
「も、申し訳ありません」
不機嫌そうな声に対して、ニコラはわたしの手を引き深い礼をする。そしてわたしから手を離し、代わりに両手を背中に添わせるように置いた。
「遅くなりましたが、言われた通り、リアを連れて参りました」
「そのようだな。お前はもう下がりなさい。……そこの娘、こちらへ来い」
待たされた苛立ちもあったかのか心底機嫌が悪そうな声で言い捨てる。すると背中にあったニコラの手が離れ、足音と布ずれが遠ざかっていく。ここからは完全に一人だ。
わたしはアルヴェーンの元へと一歩近づいた。近づいたわたしを小汚い子どもだと思ったのか、アルヴェーンは「ふん」と鼻を鳴らし侮蔑する。そしてすぐさま踵を返し、奥へと進んで行った。わたしはアルヴェーンとの距離感を見定めながらあとを付いていく。
「ここだ」
しばらく歩くと、アルヴェーンは突然立ち止まり、低い声が上から降ってきた。わたしも立ち止まり、様子を窺うとチリンチリンと到着を知らせるベルの音が聞こえてきた。中に入るために部屋の者を呼んでいるのだろう。すると、すぐに扉が開く音がすると若い女性の声が聞こえてきた。
「アルヴェーン様」
「連れてきた。あとは頼む」
「わかりました」
全く状況が理解できない会話が終わったかと思ったら、後ろからどん、と背中を押され、勢いよく前へと倒れかかってしまった。子どもに対する扱いではないなと憤慨しつつも、その怒りは内心に留めておく。
そして、背中を強く押したアルヴェーンはその場を去っていってしまった。連れてくるという役目を終えたからだろうか。
「早く来なさい。汚いわ」
呆然と立ち尽くしていると、次は女性特有の棘のある言葉が降ってくる。顔は見えないがきっと鋭い目つきで見下されているのだろう。わたしは何も言わず、歩いていく女性のあとを付いていく。
──しかし、到着した先は何故か孤児院長がいる部屋ではなかったのだ。
水捌けの良いタイルが敷き詰められ、ただ広い部屋の中心にぽつんと大きめの盥が一つ。中には湯が張ってあるのか白い蒸気が上がっている。わたしは顔を伏せながら他に誰か人がいないかと探るが、孤児院長どころか誰もいない。
「その小汚い服、早く脱ぎなさい」
「え?」
部屋に入って開口一番、追い剥ぎを連想させる言葉を浴びせられた。何故わざわざそんなことを、と主旨が理解できず誤って聞き返してしまった。それに対して気を悪くしたのか、苛立ち気味のため息を吐かれる。
「何度も言わせないで。何で貴女のような汚い平民の子どもを私が洗わねばならないのかわからないけれど、ディミトリエ様の命令だもの。仕方ないわ。だから早く脱いで、その盥に黙って入りなさい」
「はい……」
孤児院長への文句を垂れ流しながら、女性は捲し立てるように言い放った。見知らぬ人間に子どもの裸体とはいえ、それを晒すのは抵抗があるが、貴族の命令ならば黙って従うしかない。わたしは持ち服の中でも余所行きの服を捲り上げ、そのまま脱いだ。
「そんな汚い服、私に渡さないで。その箱に入れなさい」
脱いだ服を両手で抱えていると、とても嫌そうな声を吐き捨てられた。そしてどう見てもゴミ入れにしか見えない箱を指差した。服を捨ててしまったらわたしはこれからどう過ごしたら良いのか。外に出られないではないか。
「何黙っているの? 早く入れなさい」
わたしが何も言わずに立ち尽くしているのが気に食わなかったのか、機嫌が悪い声を出してもう一度催促してきた。わたしはこれ以上機嫌を損ねるのは危険だと判断して、仕方なしにゴミ入れらしき箱に服と下着を入れた。そして、湯気立つ盥の中に身を沈める。
お風呂、だ。あったかいな……。
大量の湯を使うのは贅沢であるし、時間も手間もかかるので、湯に浸かることなどなかった。今の状況的にこんなことを思うのもおかしなことだが、湯が体を温めてくれることで疲労感が抜けていくような感覚に幸福感が広がる。
ふーっと息を吐いていると、目の端に不機嫌そうな顔で見下ろす若い女性が映った。女性はわたしに近づき、しゃがみ込むと、柔らかい布でわたしの顔面を強く擦り出した。
「う〜〜〜〜……」
「五月蝿いわ。黙ってなさいと言ったでしょう?」
優しさのかけらもない行動から顔がひりひりし、思わず声を出してしまうが、女性は不機嫌さを隠さずぴしゃりと言い放つ。わたしは痛みから出る声を必死に堪えた。
孤児院長に呼ばれたのに何故か贅沢な湯を使って全身を清められている。全く繋がりが感じられず、わたしは首を捻った。
そしてかなりの時間をかけて垢という垢を落とすために全身を擦り上げられると、次は伸ばしっぱなしのわたしの長い銀髪も洗われた。
何でこんなに念入りにと疑問しか思い浮かばないが、聞くのも難しいのでわたしはなすがままに洗われる。
そして洗い終わると、盥から上げられ濡れた体を乾いたタオルで拭かれる。この世界に来てから初めての風呂だったので、全身がさっぱりとした爽快感があるが、内心はこれから起こるであろう出来事が予測できず困惑している。
されるがままにマルグリッドが着るような上等な服を着せられ、部屋を出され、別の部屋に通される。
「そこに座りなさい。髪を乾かすわ」
促され鏡台の前にある椅子に腰掛ける。濡れそぼった銀髪がわたしの顔に張り付いている様子が鏡に映る。
女性は鏡台に置かれていた持ち手のついた円柱状のものを手に取ると、わたしの髪に当てた。そして何かスイッチのようなボタンを押すと、ゴーッと温風が出てきてわたしの地肌を撫でた。ああ、これも精霊道具かと気付くまでそれほどかからなかった。
「貴女のような汚い平民の孤児を何故、ディミトリエ様は気になさるのか。理解できないわ。しかも貴族である私に平民の湯浴みの世話を命じるなんて……。屈辱以外の何ものではないわ」
温かい風を髪に当てながら女性は文句をわたしにぶつけてくる。そんな下々に言ったとしてもわたしではどうすることもできないのに、と思いつつその恨みつらみを黙って聞き流した。いや、自分より下に見ている人間だから当たることで発散しているのか。
「上の命令だから仕方ないとはいえ、客人のためにこんな汚い子どもを着飾るなんて訳がわからないわ。髪はぼさぼさで手入れもされてないのに、ああ汚いったらありゃしないわ。本当ならば触れるのも嫌だわ」
随分な言いようだが、実際小汚い子どもなのは事実である。毎日小奇麗にしている貴族に比べると、孤児院で暮らす平民は汚れ仕事を平然と行っているのでいくら毎日体を拭いていても汚いものは汚いのだ。
しかしこの女性の話からすると、孤児院長はわたしを小奇麗にして着飾り、誰か客人に会わせるようだ。そのためにわたしを呼びだし、風呂の準備までしていたというわけか。何のためにという目的は全く掴めないのが歯痒い。
鏡に映る心底嫌そうな女性の顔をちらちらと窺いながら女性から垂れ流される文句を聞き流していると、温風が出る精霊道具のおかげで髪はあっという間に乾いてしまった。そして、精霊道具を元あった場所に戻すと、小さな小瓶から液体を手に取り、髪に塗り付けていく。
「この私が世話をして貧相な状態でディミトリエ様の前に出すと、何を言われるか。腹が立って仕方ないけれど、きちんと仕事はさせてもらうわ。この香油もお前などに使うなんて勿体無いわ」
そう言いつつもふんだんに香油を髪に塗りたくる。平民を世話するなど貴族のプライド的に苛立ちしかないが、命令された仕事はきちんと遂行しなければ無能と見なされるということか。面倒くさい世界だなと思いつつ、わたしには関係ないので塗る様子を鏡越しにじっと真顔で見つめる。
わたしの湯浴みや着替えなどの準備でかなりの時間を要したが、日が昇り切る前に準備が終わった。わたしに文句をぶつけていた女性に連れられ、豪勢な装飾が施された扉の前までやってくる。
今のわたしは、どこかの良いところのお嬢様といった状態だ。着飾ることで自分が気にかけていることを客人にアピールしたいのだろう。この扉の先がかなり面倒だということを考えると胃が痛くなってくる。
『ごめん、リア。遅くなった。扉の先は、孤児院長とそこまで若くない男女一人ずついるよ』
胃を押さえていると、突然イディが現れて言った。わたしがいろいろされている間に移動できる範囲で情報を集めていたようだ。男女一人ずつ、と言っていたが夫婦だろうか。もしかすると違うのかもしれない。わたしは感謝の意を込めて軽く頷くと、イディは『これくらいしかできなくてごめん』と申し訳なさそうに頭を下げた。
『リア、私もお供しますわ。視覚共有でヴィルヘルムにも今からの様子は視えるようにしています』
そう言いながらシヴァルディも現れた。無事にヴィルヘルムに伝えることができたのだろう。心の支えができたことに少し安堵する。
女性はイディやシヴァルディがいることなど全く気付かず、人が来たということを示すベルを取り出して鳴らした。
「おお、入りなさい」
待ちわびていたような楽しげな孤児院長の声が聞こえるのを確認すると、女性は扉を開けた。




