第一話 そこに文字があるのなら
ドタンッ!
衝撃音とともに頭や腰に痛みを感じる。ズキン、ズキンと一定の間隔で脈打つような痛みが襲ってくる。わたしは片手で頭を押さえながら、ゆっくりと体を起こす。
起き上がって目に入ったのは階段。どこかの洋館にありそうなそれの真ん中には翠色の絨毯が敷かれ、足元まで伸びている。
「ん?」
視線が自分の足に向かうと違和感を覚える。紺のリクルートパンツスーツを着ていたはずだが、自分の足元を覆い隠す生成色のスカートがそこにあった。
恐る恐るそれに触れようとするとその手が思った以上に小さい。手を何度もグーパーし、感覚を確かめ自分の意思で動かせることがわかる。
「嘘でしょ……?」
顔に手を当てると顔も小さい。頬はぷにぷにと柔らかい。もしかして、わたしは子どもになっている?
確かめようと鏡や窓がないか辺りを見渡すが、絨毯がただ真っ直ぐ敷かれているだけで窓や鏡など見当たらない。立ち上がろうとすると体の節々が痛い。ここで初めて、わたしは階段から転がり落ちたことに気付いた。
「よい、しょ……」
痛みに顔をしかめながらも何とか立ち上がる。ここにいても仕方がない。誰か人に出会えたらここがどこなのか聞くことができるので、人を求めてゆっくり歩き出した。
確かわたしは今さっきまで大学院の研究室でかの有名な古代エジプトの文字、ヒエログリフの勉強をしていたはずだ。いつかは未解読文字の研究がしたいと夢見て資料と睨めっこしながら必死に課題のレポート作成をしていたのだ。けれど今は幼い子どもの姿になっている。これってあの有名な転生ってやつなの? ラノベの世界にしかないと思っていたけれど。
頭が混乱状態だが歩みを進める。しばらく歩くと右手に木製の扉が見えてきた。どうしようかと思い、わたしは廊下の先に視線を向ける。まだ奥に続いているように思うけれど人の気配は感じられない。もしかするとこの部屋の中にいるのかもしれない。そう思い、わたしは扉の方にフラフラと向かう。
扉の取っ手に手をかけゆっくりと押した。ギギギギ、と嫌な音を立てながら扉は開いていくが、わたしの力が弱いのか扉が重いのか少しずつしか開かない。自分の体重を扉に乗せるとやっと開け切ることができた。
「誰も、いない……」
中はがらんとして広く、人ひとりいない。目の前には先ほど見た翠色の絨毯が敷かれ、その先には鮮やかなステンドグラスと講壇が一つ。そしてその手前には背もたれがついている長椅子が縦にずらりと並んでいた。十字架はないが教会を彷彿とさせた。
わたしは吸い込まれるように奥に進んでいく。
「ん……?」
奥の方がよく見えてくると壁に何か彫られていることに気付く。パッと見た時は模様かと思ったがどうやら違うようだ。
近づいてみると、それは文字のようだった。
「読めない……?」
わたしがよく知り使っているひらがな、カタカナ、漢字ではない。見覚えもない。首を捻り、目を瞬かせて壁をじっと見つめる。
すると急にぶわっとわたしのものでない記憶が一気に流れ込んできた。一瞬で数年分の記憶が入り込んできたあまりの不快感に、頭を押さえ座り込む。
しかしその不快感は少しすると消えてしまったので、わたしはすぐに顔を上げた。
すると目の前に並んでいた読めなかった文字がぐにゃりと歪んだと思ったら、それが読めるようになっていた。これはこの世界で使われている文字に似ている。
読めるようにはなったけれど読めるところは下方部分だけで上に書いてある別の種類の文字らしきものは見たことがなかったし、読めなかった。じっと見つめていると何かと似ているような気がする。
「あ」
これ、ロゼッタストーンとおんなじだ。
ロゼッタストーンはヒエログリフである神聖文字、民衆文字、ギリシャ文字の三種類の文字が同一の文章で刻まれた石柱のことである。このロゼッタストーンのおかげでシャンポリオンやトマス・ヤングによって未解読文字だった神聖文字が解読されたのだ。
パズルのピースがピタリとハマるようにすっきりする。おそらくこの壁文字は公文書の類。上と下とで同じ文章が書かれている。そう確信したら解読したくなってきた。わたしは嬉々として立ち上がると、ドタバタと廊下の方が騒がしく感じた。そして開きっぱなしの扉から人が見えた。
「あ、いた! リアがいた!」
大声を上げてドタドタと足音を立てながら黒髪の女の子が駆け寄ってきた。
「いなくなってるんだもん。心配した!」
「……アモリ?」
心配する表情を見せる目の前の少女は孤児院で一緒に暮らしているアモリであること、自分の名前がオフィーリアだということを流れ込んできた記憶から知る。
また、ここは孤児院。プロヴァンス王国のジャルダン領にある孤児院の中の一つだ。わたしは数年前にこの孤児院に引き取られた平民の孤児らしい。目の前にいるアモリも同様に孤児。わたしより少し前に引き取られた一応先輩になる。
「階段から落ちたと思ったらぴくりとも動かないから死んだかと思った! 先生を呼びに行って帰ってきたらいないんだもん! 驚いたんだから!」
「ご、ごめんなさい……」
そう言われて遊びながら階段を下りようとしたら足を滑らせて転んでいったことをオフィーリアの記憶で思い出す。心配をかけてしまったので思わず謝ってしまったけれど、転んだのは前のオフィーリアで自分ではないので少し違和感を感じた。
「気を失ってたみたいだから念のため先生に診てもらおう。こっちにきて!」
「あ……!」
ぐいっと勢いよく手を引っ張られて転びそうになる。わたしはそこの文字を解読したいのだ。邪魔しないでほしい。わたしはムッとして手を振り解いた。そしてもう一度壁文字を見ようと振り返る。
「リア!!」
「この文字が読みたいの! 邪魔しないで!」
怒っているアモリの言葉に反論してまず下に書かれた文章を読もうとすると、アモリはわたしの真横にやってきた。わたしが壁に彫られた文章を読んでいるとアモリは首を傾げた。
「何これ? これって文字なの?」
「え?」
こんなのが読めるの? と言いたげに顔を向けてくる。普通読めるでしょ、と言おうと口を開きかけたが、わたしは固まる。
あれ……? わたし、文字なんて習ったっけ?
前の記憶の中で文字を学んだことがないことに気付き、不思議に思う。でもなぜかこの目の前の文字が読める、ただし一部だけ。
もしかしてこれが転生した時に得られるスキルというやつなのだろうか。なんと中途半端な! それならすべてが読めるようにしてほしかった。
けど、解読できる喜びがこの世界でも味わえる……?
前の世界では古代文字を解読するための基礎を学んでいた。だからこの世界でも勉強していた文字は違えど解読できるのは素晴らしい。そう考えを改めると嬉しくなって、なぜ読めるのかを考えるのはぽいっと放っておくことにした。そして、隣では不思議そうな顔をしているアモリを無視して文章の続きを読もうとすると、コツコツと近づく足音が迫ってくる。
「何をしているのです、リア!」
凍えるような声にびくりと体を震わせて振り返るとそこには艶やかな金髪を結い上げた美しい女性が立っていた。口角を上にあげた微笑んでいる表情だが、目は笑っていない。これは確実に怒っている。隣のアモリが「先生!」と言ってにんまりと笑い、女性の隣に駆けて行った。
彼女はマルグリッド先生。育手と言って、ある特別な孤児の面倒を見る先生だ。私やアモリの面倒を見てくれている。
わたしはマルグリッドの冷え冷えした笑顔に応えるように笑うと、マルグリッドはきつく目を釣り上げた。
「階段から転げ落ちたというのに何をしているのです!? しかも使われていない講堂に入って……! 早く食堂に行きますよ!」
「そうだよ! 行くよ!」
マルグリッドにひょいと抱き上げられて動きを封じられてしまった。目の前に未知の文字があるのに何もできないことに苛立つ。しかし二人はスタスタと歩き、文字から遠ざかってゆく。
「わたしの文字〜〜!」
「何言っているのです、リア。そこに文字なんてありませんよ」
マルグリッドはぴしゃりと言い切る。そして歩みを止めることなく進んでいく。あるんだよ、そこに! 知られていない文字が!
あああ〜〜……! わたしの文字が〜!!
虚空に手を伸ばすがさらに遠ざかっていく文字に絶望感を感じ、わたしはがっくりと項垂れた。
「まだ魔力供給もしてないのに全く……! アモリもですよ。供給前に遊びに行ってはいけないと言っていたのに」
マルグリッドは早歩きをしながら、そうぶつぶつと不満を言う。隣を歩くアモリはしょんぼりとしている。わたしはこれ以上怒られたくないので黙っておく。
マルグリッドが言った魔力供給とは育手が行う仕事の一つだ。この世界は魔力という前世では空想の一種だったものが普通に存在する。しかしRPGのような魔法は使われておらず、生活を豊かにするための魔道具に使うくらいだ。また魔力を持つ者は自身を成長させるために生まれた頃からある程度成長するまで定期的に魔力を貰わなければ生きていけない。わたしの場合はマルグリッドから毎朝もらっている。
「さっさと戻ってリアの手当てをしましょう。その後は魔力供給です」
講堂を出て行く。彫られた文字はもう見えない。わたしは必ずやあの文字を解読してやると心に誓った。
主人公の物語がはじまりました。文字大好きっ子です。
どうぞよろしくお願いします。