春という名の季節
今回は寛の過去編です。主人公、他のユスティー隊員は登場しません、ご了承ください。
柳瀬寛。この男の人生は全て〝家族のため〟だけに存在し続けている。今も昔も変わらずに。
だがこの男がただ一度だけ、家族でもないたった一人の少女のために生き、もがいた時があった。それは寛が新たな家族を見つける少し前、今から約三年前のことである。
生まれた時から寛の傍にいたのは家族だけだった。
生まれた時から寛が愛という感情を抱いたのは家族だけだった。
生まれた時から寛が絶対的な信頼を持っていたのは家族だけだった。
生まれた時から寛が一緒にいるだけで笑顔になれたのは家族だけだった。
生まれた時から寛の生きる意味は家族だけだった。
漁師の父親と専業主婦の母親に我が儘で可愛い弟。そんなどこにでもいる普通の家庭に生まれた寛にとって、家族は己の全てだった。
朝、家族と挨拶を交わし、他愛もない会話をおかずに朝食を食べる。昼、家族を支えるために仕事に向かい、汗を流す。夜、労働を終えた自分へのご褒美のように家族におかえりと迎えられ、また他愛のない会話をおかずに夕食を食べる。
家族は自分の一日の出来事を興味深そうに聞いてくる。自分のとってはただ家族のために行っている手段に過ぎないことを、そんな己にとっては価値のないことを、家族は嬉しそうな顔で聞いてくれる。
そして深夜、愛する家族のおやすみという挨拶と寝顔と共に一日を終える。そんなありふれた日常こそが寛の人生の全てだった。言い方を変えればそんなありふれた日常のためにしか、生きられないのが柳瀬寛という男だった。
漁師の父親はいつ何時でも憎たらしい程の笑みを浮かべ、豪快に、強引に家族を支えていた。そんな父親が世界で一番の男だと、父親だと寛は思っていた。
専業主婦の母親はそんな父親を優しく、静かに、時に強く支えていた。そんな母親が世界で最も慈愛に満ちた女だと、母親だと寛は思っていた。
我が儘な弟はよく自分に懐いてくれ、家族の光のような存在だった。弟がいるだけでその場の空気が穏やかになる、そんな少年だった。寛は弟こそ、世界で最も笑顔が似合う子供だと思っていた。
そして寛は自分自身こそが、世界で一番の家族に囲まれた、世界一幸せな男だと思っていた。家族のためにしか生きられない。それこそが寛の幸せだったのだ。
ある冬の終わりのころ。その幸せは呆気なく消えてなくなってしまった。
仕事があった寛を除いた家族が旅行に出かけた日。家族は交通事故で呆気なく亡くなってしまった。それと同時に寛の生きる意味も呆気なく消え去ったのだ。
「もう、何で生きてんのか分かんねぇな」
寛はとある春の日、自嘲じみた笑みを浮かべてそう呟いた。何故死んだのが自分でなかったのかが、寛にとっては本当に疑問だったのだ。生きる意味なんて家族以外何もなかった自分などより、父親、母親、弟が生きるべきだったに決まっている。そんな家族が消え、生きる気力の無い自分などが生き残るなど、寛にとっては到底享受できるものではなかった。
もともと宗教などには全く興味のない男だったが、寛は家族が死んでからは神など絶対にいないと確信した。もしいるのならば、それは生かす人間とさっさと命を絶つべき人間の区別もつけられない無能だと思った。
家族が死んだという知らせを受けた日、一日中枯れるほど泣きつくすと、もうそれ以来寛は涙を流すことは無かった。そして寛は改めて再確認したのだ。自分は家族がいないと本当に生きていないのだと。最後に泣いたあの日以来、いくら家族を思っても涙が流れない自分の体が、それを証明した。
寛の暦はずっと、冬の終わりから春へと変わる気配はない。
「……死ぬか」
生きる意味もないのにだらだらと己の命を繋ぐなんて不毛だと考え始めた寛は、自然に自殺を試みようとした。寛にとってそれは本当に自然なことだった。家族の消えた自分の人生など何の価値もないのに、寿命を迎えるまで生き続けるなど無意味以外の何物でもなかったのだ。
寛は家族が亡くなってから、ずっと海にいた。朝から晩まで海にいたのだ。海は父親が愛した場所だったからだ。それ以外の場所には足が向かなかったのだ。どうせ死ぬなら海に飛び込んで死のうかとさえ考えていた。
その海は目を見張るほど美しいという訳でもなく、見るのを拒むほど濁っている訳でもない、ごくごく普通の海だったが、柔らかな波の動きがとても心地いい海だった。
そんな何もない日が続いたある春の日、海が眼前に広がる砂場で、寛がただただ海を見つめていると見知らぬ少女の声がした。
「海がお好きなのですか?」
その問いに寛は答えなかった。それ以前に声の主を目に留めることもしなかった。家族以外に興味がなかった寛は、家族が生きている時も他人とはほとんど関わらなかったのだ。必要最低限しか会話も交わさなかった。
それが今、家族も失った寛にとってそれはただの雑音でしかなかったのだ。これから死ぬのだから興味もなかった。ただただ父の愛した海を眺めていた。
声の主は寛の態度を咎めることは無かった。ただ、寛と同じように海を見つめ続けていた。寛は声の主の気配が消えないことに気づいてはいたが、それさえもどうでもよく、ただ無視していた。
それからどれくらいの時間がたったのか、寛には知る術がない。寛が動きを見せたのは尿意を催した時だった。すぐ近くの家に向かい、さっさと済ませようとした寛は、立ち上がると同時に隣にいる少女にようやく目をやった。
「……」
「……こんにちは」
無言を貫く寛に対し、少女は軽い挨拶をした。寛はその少女の気配が消えていないことに気づいてはいたが、まさかずっと隣にいたとは考えてもみなかったのだ。考えればすぐに分かるはずなのに・・。寛は自分が本当に生きることをやめたただの肉の塊だと思い知らされ、肩を落としたくなった。
そんなことを考えながらフリーズしていた寛の顔を、少女は興味深そうにのぞき込んだ。目の前の少女は十代後半くらいで、可愛らしい大きな瞳にボブヘアーが良く似合っていた。真っ白なワンピースを着ていて当に女の子らしい少女だった。
「何故まだここにいる?」
寛が久しぶりに他人に対して発した言葉だった。寛は自分が声を上げたことに自分自身で動揺した。普段なら無視して家に向かうところだったからだ。目の前にいる少女が今まで出会った他の人間と何が違うというのだろう?自分が家族以外の人間に少なくとも興味と類似した感情を持つなど寛の人生ではありえないことだったのだ。
「……何故って、あなたが私の質問に全然答えてくれないからじゃないですか」
「……」
その程度のことで長時間ここに留まり続けていたのかと、寛は自分の目と耳を疑った。
〝海がお好きなのですか?〟
そんな、好きかそうでないかの答えしかない、ありふれた質問の返事を、寛の答えを少女はずっと待っていたのだ。少女は寛の顔を長々と見つめながら柔らかな笑みを浮かべた。本当に柔らかいという表現が似合う女だと寛はその瞬間思った。その表情も、揺れる繊細な髪も、ワンピースのはためきも、全てが柔らかく包み込むような、不思議な雰囲気を纏った少女だったのだ。
「……海は父親が好きだった。俺が好きだったわけではない」
「そうなのですか。良かった、やっと帰れます」
「……さっさと帰れ。俺も帰る」
待ち望んでいた寛の答えに少女は満足そうな笑みを浮かべた。寛は良く笑う女だな、と少女の顔を見つめた後、尿意を催していたことを思い出し、家に戻ることにした。
少女が寛に背を向け、帰路につき始めると寛も少女に背を向け自宅へと足を運んだ。その時寛の頭の中はちょっとしたパニック状態だった。今までの人生、家族のことしか考えてこなかった頭に、突然赤の他人の姿を押し入れたのだ。混乱して当然だった。
ずっと隣にいて、数言話しただけの、それだけの少女。それだけの少女に何を思うことがあるのだろう?寛は自分で自分が分からなかった。ただ、ただあの柔らかな笑顔をずっと眺めていたいなどと、そんな秘めた思いを抱えていることに寛は気づいていなかった。
「こんにちは」
「……」
翌日、また寛が海を眺めていると、昨日の少女がそう声をかけた。昨日の今日でまた再開できたことに、寛は少々動揺し、少女を見据えた。少女は相変わらず寛に柔らかな笑みを向けていた。
「何の用だ?」
「また、あなたに聞きたいことがあって来ました。昨日はなかなか答えてくれなくて、一つしか質問できませんでしたから」
寛はため息をつくと、そのまま視線を海の方へ移した。質問したいのなら好きにすればいい、と寛は目で訴え、それに気づいた少女は更に笑みを深くして寛の隣に座った。
しばらくさざ波の音と、遠くから聞こえる車のエンジン音しかない沈黙空間が続いた。寛はいつになったら質問してくるのだとヤキモキしていたが、そんなことを考えている自分が信じられないでいた。一方少女はというと、まず最初に何を聞こうかと悩んでいた。
「……お父さんのこと、お好きなんですか?」
「……あぁ。家族は愛していた。家族以外どうでも良かった」
寛の言葉が全て過去形であることに少女は気づいていたが、何も問いたださなかった。そしてそのまま次は何を聞こうかとまた思案し、沈黙空間を作った。
「ずっと海を眺めるのですか?その命が尽きるまで」
「……もうそろそろ死のうかと思っていた、この海で」
「……そうですか」
寛は少女が大した反応を見せなかったことに酷く違和感を覚えた。今日で会うのは二度目だが、寛はこの少女はきっと呆れるほどのお人好しで善人で、人を疑うなんてことは知らずに育ったのだろうと思っていたのだ。もしそういう人物であるなら、寛の発言を黙って見過ごすなんてことはしないはず、それが違和感の正体だった。必死で止め、優しい言葉をかけ説得し、自分に生きる喜びを見つけさせようとするのではないか?と寛は疑問を抱えた。
「何も言わないんだな」
「?」
「死ぬって割と本気なんだが、お前は止めないんだな」
寛は抱いていた疑問を直接少女にぶつけた。少女は急に話しかけられたことに目を見開いたが、すぐに破顔し、海の方を遠くまで見つめた。
「私はあなたが、覚悟もなく何かを決断する人には見えません。あなたが良く考え、生きるより死ぬ方がいいと考えたのならば、それを否定はしません。納得はできませんが。あなたの人生ですもの、決める権利はあなたにある」
寛は内心たった二十年弱しか生きていない女の言葉とは到底思えなかった。こんな強い言葉を恥ずかしげもなく堂々と言ってのける少女の小さな背中が、寛には自分の父親のように大きく見えた。
「あ、でも海で死ぬっていうのは少し反対です。大好きなお父さんが愛していたもので死ぬなんて、お父さんは嫌がるんじゃないんですか?それでもいいんですか?」
「……そう、だな。確かに考えなしだった」
寛は家族が亡くなってから自分のことしか考えていないことを思い知らされたのだ。寛は愛した父の好きだった海で死にたいと思っていたが、それは父にとってはとんでもない苦痛であることに気づいていなかったのだ。父だって、己のことを愛してくれていたのだから。
寛は自分が本気で嫌になった。家族が死んでからの自分は思考力も散漫し、本当に生きてなどいなかった。愛してやまなかった家族のことでさえ、この有様だったのだから。
意外にも素直に自分の非を認め俯いた寛の頭を、少女は柔らかい笑みと共に優しく撫でた。寛は突然頭に迫ってきた少女に手に体をビクつかせたが、少女があまりにも幸せそうな顔をしているものだから、されるがままにした。
「……俺は家族以外、どうでもいい人間で、家族のためにしか生きられなかったんだ」
「……」
少女は頭から手を離すと、寛がぽつぽつと話し始めたのを静かに聞いていた。寛の発する言葉一つ一つをじっくりゆっくり聞いていった。寛は少女が何か言葉を紡ぐまで自分が話し続けることにした。二人は互いを見ることなく、ただ一人の男が愛した海を見つめていた。
「それなのに、俺一人を置いて家族は消えた。もう生きる意味が無くなったんだ。今俺は生きていない。家族がいないこの世界で俺は生きていけないんだ」
「……意味がなければ生きられませんか?」
「……あぁ」
少女の問いに寛は簡潔に答えた。少女は人が生きるのに意味や権利など必要ないと思っていた。ただ寿命が尽きるまで生きるだけ。呼吸を続けるだけ、ただそれだけと。だが寛の価値観ではそうではなかった。寛にとっては生きるために意味が必要だったのだ。
少女は寛の価値観を否定しようとはしない。気持ちは理解できるから、それ以前に人の価値観はそれぞれで全く同じものなんて存在しない。それを誰よりも理解していたから。
「じゃあ、意味を作れば良いのではないですか?」
「……は?」
寛には少女の言っている意味が理解できなかった。寛は思わず海から少女へと視線を動かした。すると少女も寛を見据えており、柔らかな笑みを浮かべていた。
「家族のためにしか生きられないのなら、家族を作ればいいのでは?あなたがあなたの幸せを作るんです」
「……突拍子もないことを言うな、お前」
ようやく少女の発言の意味を理解した寛は、少女を見据えたままそう呟いた。寛の頭にはそんな考えなど微塵もなく、当に虚を突かれたのだ。
「そんなことはありません。好きな人ができ、恋が愛に変わり、生涯を共にすることを誓い、子供を作り家族になる。ごく普通のありふれたことです。まぁ、家族の形は様々なので、それが全てとは言いませんが。例え血が繋がっていなくても、家族にはなれます。互いを愛し、慈しみ、守りたいという気持ちさえあれば」
「そう、だな……」
完全に論破?されてしまった寛は、考えたこともなかった案を自分なりに思考してみた。寛は死んだ家族以外に何の興味もなく生きていた。例え結婚せずとも家族はできるという話は理解できた。だが寛は赤の他人を大事にできるような感情など持ち合わせていないと思っていた、ずっと。
そんなことができていれば、今自分は生きた屍にはなっていない。
「俺は他人に対して好意的な感情を持ったことが無い。だから家族を作るというのは無理だ」
「それは怠慢ではありませんか?」
「怠、慢?」
寛が少女に自分の心境を正直に告げると、寛にとって予想外の返答をされた。同時に意味を理解することができなかった。寛はこの少女の言動が毎度毎度己の理解の範囲外であることに目を丸くした。そんな寛を見た少女はぷくっと頬を膨らませた。
「今までがそうだったからといって、どうして未来のことが分かるんですか?これから何が起きるかなんて誰にも分かりません。それに、他人に興味を持ったことが無いって言いましたけど、私はどうなんですか?」
「……お、まえ?」
「そうです!興味がないならどうしてこんな風に会話しているのですか?」
その時寛の頭の中で何かがカチッと綺麗にハマった音がした。これまでの全てが合致する音がした。寛は漸く気付いたのだ。自分はこの少女に少なからず好意という名の興味を抱いていたのだ。
寛は彼女の纏う柔らかな空気と、笑顔と、その口から紡がれる言葉に、好感を持っていたのだ。本人を目の前にして、本人によって自覚させられた。
寛は赤の他人でしかないこの少女のことが割と好きなのだと、自覚したのである。
「そうか……俺はどうやらお前に興味があるらしい。お前の言う通りだな。未来は分からない。少し頑張ってみるかな」
寛はそう自分に言い聞かせるように呟いた。寛は初めて他人に興味を抱いたのだ。ならばこれからはもっと興味を持てる人間が現れるかもしれない。にも拘らず自分はそういう人物を探そうともしないで、尊い命を絶とうとした。少女が口にした〝怠惰〟の意味を漸く理解したのだ。
「そうですよ。頑張ってください。応援してますから」
少女がうっすらと頬を染め柔らかく破顔したのを見ると、寛の瞳からは何故だか涙が溢れた。もう枯れてしまったはずの涙が、いくら家族に思いを馳せても零れなかった涙が、ただの少女の笑みによって取り戻されたのだ。
少女は涙を流しながら自分を見つめる寛をただ黙って見つめ返していた。ほんの少しだけ眉を下げ、困ったように。少女は寛が泣き止むまでずっとずっと、見守っていた。
まるで、泣くことを知った生まれたばかりの赤ん坊に愛情を向けるように。まるで、ぐずる赤ん坊をあやす母親のように。
「そういえば、名乗ってなかったな。俺は……柳瀬寛だ」
しばらくして泣き終えた寛は、唐突にそう話し始めた。この少女に自分の名前を知ってほしいと思ったのだ。そして、この少女の名前を知りたかったのだ。
「柳瀬寛さんですか。いい名前ですね」
「お前の名前は?」
少女が名乗らないと分かると、寛は自分から少女に尋ねた。少女は少し海に視線を移し、考え込むとその口を開いた。
「春と言います」
「春?」
「はい。寒く辛い冬が終わりを告げるとやってくる、暖かな季節の名前です」
この瞬間、寛は思った。家族が死んでからの自分の人生はきっとずっと冬だったのだと。寒くて、凍えそうで、辛く苦しい、そんな生きた心地のしない季節。目の前で柔らかな笑顔を晒すこの少女はいわば、自分の人生に突如に現れた、暖かく柔らかな、春なのだと。
読んでくださってありがとうございます!
少々春のセリフをつけ足しました。内容は変わっていないのでご安心ください。