落ちた先には
あなたは空を見たことがありますか?白く輝く太陽を。雲一つない青空を。黒い大きな闇にちりばめられたカラフルな宝石のような星々を。
乾いた風を。
灰色の雲に包まれた空。降ってくる雨は舗装されていないやわらかい地面をぬかるみへとかえていた。これはまずい。そう私は危機感を覚えた。
ただでさえ人があんまり踏み入らない山だからって半ば強引に、半ばやけになって入ったのがまずかったか……。
木陰に入ってさしていた傘を軽く振った。バサバサ開くのが面倒だから持ち手の近くに留め具をつけてもらったけど、なかなか便利だ。
注文を付けて半日もたたずに自分が見たこともない仕掛けを作れる凄腕を持つ“修理屋”。いつも陽気で幸せ満点です、っていう顔で仕事をするところが印象的な人だ。
コートについたフードを深くかぶり、走り出す。あまり長居して土砂崩れを起こされて困るし、人の手があまり入っていそうもないから心配するほどでもないかなぁなんてのんきなことも考えていたりもした。
――瞬間、あ、落ちた。と思った。
ぐるぐると回る視界で落ち着いた対応ができるはずもなく、とりあえずつかんだのは木の細い、細い根っこ。
そのうちつかみ取ったぬれた根からは滑り落ちた。が、なんてことはなかった。案外地面は近かった。
「…………」
ふと気が付く。何かがおかしい気がする。いや、山道から滑り落ちて運よく崖から突き出ていたそれなりに大きい岩に落ちたもののその先は断崖絶壁。その下は森。地面は見えない。三階建ての建物を5、6個積んでもまだまだ足りなさそうな高さに気が遠くなる。後ろは土。登れそうにもないという状況からしておかしいが、少し違う。
くいっ、と軽く左足を動かしてみる。うん、足首を捻挫したみたいだ。さて、これからどうしたものか。八方ふさがりとはまさにこの状況を言うのかな、と思った。
❄❄❄・・・
――やまぬなぁ
――やまぬなぁ……
――いつになったらやむのだろうなぁ
――さあ、知らぬ
葉の影へと身を隠し、こそこそと話し合う森の住人たち。どす黒いススをまとめたみたいな丸い塊たちは雨が止むのを待っていた。
五日目。そう、五日間この雨は止むことなく降り続けているのだ。しかも山の麓までおりれば青空が広がっていた。麓を一周してもその景色はかわらなかった。まるで、山だけ雨雲に覆われているように。
――あれ(・・)が来たからじゃあないか?
――そうだ、そうだ。ちがいない
――あれとは何だ?
そのとき、ざあっ、と強い風がふいた。いつのまにか水面に立っていた一匹の狼。黒くつややかな毛並みと金色の目。何よりその4メートルほどの体格と存在感はまわりの生物を静まり返らせた。狼はくるりときびすをかえし、森の奥の闇へと消えていった。
――ふう、あれだけの存在感があるのに現れるのが突然すぎだろうなぁ
――あぁ、変わらずお美しい姿だぁ
――で、あれとは何だ?
――えー、それはなぁ……
――“雨憑き”だよ
❄❄❄・・・
「あ~、もう服泥だらけだ……」
雨は降り続ける。左足は痛いし、動きようがない。このまま岩が雨でやわらかくなった土から出てそれもろとも下に落ちるか、滑って森へと真っ逆さまに落ちるか。
「どうしたものか……」
そう呟いた時だ。ぴりっと肌で感じる緊張感。さっきまでうるさいくらいの動物や虫の声が一気に静まり返り、雨の音すら遠く聞こえる。
ふと気が付いた時には隣に黒い大きな狼が静かに座っていた。
ただ遠くを見つめている金色の美しい目に引き付けられる。綺麗な黒い毛並みはきっと光に当たったらもっと綺麗な姿になるだろうと思う。突然狼は私を見た。それまでずっと遠くを見ていた目で。
『うるさい』
「………………え?」
『さっきから“影”たちがうるさい』
ぴくぴくと耳を動かす。どうやら相当遠くの音まで聞こえるらしい。
「あなたがいらしてから皆静まり返ってしまいましたけど、どれくらい遠くの音が拾えるのでしょうか?」
『……川』
狼はちょっと考えてから鼻先で眼下に広がる森の遠くのほうを示した。
川、目視できないくらい遠い場所にある。
「えぇぇぇ!??すごい!!」
『うるさい……』
「?何でしょう?」
狼は困ったように首を傾げた。
『お前、人間だろう。なぜこんなところにいる?それに何故おれの姿を見て驚かない?』
「あなた、“見えざるモノ”か、まあ蔑称ですみませんが“獣人”の一種でしょう?私の勘ではありますが、あなたは獣人のほうだと思いますね。しかも、他種を従えらせられる力と不思議なものを見る目をお持ちのようだし、稀なタイプでしょうか」
“見えざるモノ”とは、さっき狼が言っていた“影”や妖精、悪魔、幻獣とかの総称。見えないけど生活に密接に関係しているから“見えざるモノ”と呼ばれる。基本的にお祭りや、子供たちへの脅しつけ、実際にそれらしいことだったり目撃者が多かったりすることもあって“見えざるモノ”たちの認知度は高い。
狼はいたずらっぽく目を細めた。
「ばれたか」と狼はつぶやくと、突然狼の足元にあった影が飛び出し、狼を包み込んだ。一秒もしないうちに現れたのは、人間。黒い無地の着物。金色の目はやっぱりそのままで、真っ黒な短髪と人の良さそうな笑みを浮かべる男。
「正解だけど、不正解。まあ、ここにいられると困るから、今から君をこの山からつまみ出すね」
狼男はにっこりと微笑む。
「へぇー、それはありがたい」
言うが早いか先ほどと同じように影に呑まれたかと(今度は自分もね)思うとあっという間に村の入口が見えるあたり、ちょうど山の出口にいた。
「うわっ!すごい!」
季節は冬。薄い雪に包まれた地面はとてもきれいだった。雨があたってだんだん溶けてきているけれど。
「――あっと、ちょい待ち!」
再び山へと戻ろうと影に包まれかけた狼男の和服のえりをつかんで陰から引きずり出す。
「えぇ!!?」
ドサリと音を立ててしりもちをつく狼男。
「あなた、名前は?」
「……」
少し狼男に近づいて彼の顔を覗き込む。しばらく黙っていたが、どうやら呆れた、とでもいうような溜息をついて彼はしぶしぶと口を開いた。
「無いよ」
「え?だって……あなたが、もし“見えざるモノ”の一種ならなにかしらの名前があるはずでしょう?」
彼はだから面倒だったのに、と呟くと腰についた雪を適当にはらった。
「今、話せることはないけど。……でも、決まった呼び名がないのは事実」
彼は探るような目つきで私の目を見てくる。
「それに、名前なんて必要ないでしょ」
「私が、私と旅をしませんか?と言ったら?」
あっけらかんと答えるときょとんとした顔をして固まる。予想もしていなかった発言に驚いたらしかった。
(そういえば、前に“修理屋”が旅商人から聞いた慣用句だと言っていたものがあったな。)
「え……嫌」
「……そうですか。残念。」
ちょっと肩をすぼませて、一つ忘れていたことがあったと思った。
「あ、では“獣を着る民”にちなんでヴォルフと呼ばせていただきます。あの村には二日か三日くらい泊まる予定ですので、もし気が向いたら来てくださいね」
にこりと微笑んでから村へと向かおうと彼に背を向けると、今度は私がえりをつかまれることになった。
「自分は名乗らずに立ち去るの?」
してやったといたずらっぽく笑うのはさっきの仕返しをできたおかげか。私は地面にしりもちついた状態になった。
「ああ、すみません」
ゆったりと立ち上がって腰辺りを適当にはらう。さすが防水加工がされたコート。全然水がしみていなかった。
「――私は“雨憑き”この身に呪いを受けた、人間です」
驚いたみたいで、ヴォルフは目を大きく見開いていた。
そうだ、もう一つ思い出した。“修理屋”が言っていた慣用句。『顔に豆鉄砲くらった鳩』みたいな顔だった。




