284 死闘後の中央世界① ~漆黒の珠と漆黒の塔~
「くそっ。ヤツめ、何重の結界を張ったのだ!」
「本当に忌々しい!」
ふたりの男が竜王国ドラゴン・パレスにある双塔、ワイバーン塔の下から空に浮かび時折火花を散らしている漆黒の珠を見上げていた。漆黒の珠は周囲に黒い煙を纏い一点を目指して進もうとしては跳ね返され、塔、つまりは本体へと進むのを阻まれている。
「それで、アルキダよ。アシゲラは発ったのか?」
「はっ。2時間前に! 今度こそ第七世界も終わりでしょう」
「うむ。それでスカイ・フォークは?」
「はっ。すでに100層までは完成しておりますが……、かなりの高さなので難航しております」
「うん? 今、なにか言ったか? なんこ……」
「いえ。なんでもありません。次を急がせます!」
自国の状況を確認していた男が、空を見上げていた顔を下ろして疑問を口にしたところで、確認されていた男は威儀を正し、正面を向いて声を大にして自分が言ったことをなかったことにした。
そう。ひとりは竜王国の実質上のトップ、アルニダス・クレオ、通称ワイバーン将軍であり、もうひとりは竜王国四将軍のナンバー2であるアルキダ・ポリス、通称ヒドラ将軍である。
また、彼らの会話のなかにあったアシゲラとは、竜王国四将軍のひとりでヒドラ将軍の妹であるアゲシラ・ポリス、通称エキドナ将軍だ。
彼女は数時間前に竜王国の宿敵ともいえる第七世界を討ち滅ぼすために、特殊部隊を率いて異世界転移という方法で敵地へと進軍したのであった。
時は、中央世界暦4872年9月30日。すでに大森林での死闘からはおよそ1年の年月が過ぎていた。
◆◇◆◇◆◇
中央世界暦4871年10月の大森林での死闘のあと、竜王国軍にも昆虫軍と人類と白狼軍の連合軍が戦った情報は入っていたが、動くことはなかった。
竜王国としては、昆虫軍と第七世界のやつらが共倒れしてくれるのがベストであったが、詳細な戦いの結果を掴んでからは、やはり早急に討つべきは第七世界だという方針が決まっていた。
しかも、戦いの情報が入るとほぼ同時期に、本拠地であるドラゴン・パレスの空に周囲に黒い煙を纏った漆黒の珠、竜王アンゴルモアの魂が現れていたのである。
一時は騒然となった王国内の人々は、ワイバーン将軍より長い間、民に隠されていた真実を知り、最初は戸惑う声もあったが、今では、皆が一日も早い竜王の復活を待ち望んでいる状態であった。
それでも漆黒の珠は、ワイバーン塔の上空ですでにおよそ1年近く足止めを食らい、上空に張られていた普段は見えない結界と日々戦っていた。
漆黒の珠が現れるまでは、竜王国内の人々はもちろんワイバーン将軍でさえも、上空に結界が張れていることは知らなかった。漆黒の珠、つまりは竜王の魂が元に戻ろうとしているのを邪魔する魔法陣のような模様が空に現れて、はじめて知ったのであった。
当然、結界が張られていることがわかってからは、それを解こう、打ち破ろうとする数々の、それも決死の対応策が行われてきたが、まるで歯が立たずに今日を迎えていた。
すでに、状況は漆黒の珠と魔法陣による強固な結界の戦いを、彼らには見守ることしかできないものとなっていたのである。
そして、上空に漆黒の珠が現れてからおよそ3か月後、天空より光の魔法陣が弾け飛び漆黒の珠が少しワイバーン塔に近づく姿が目撃され、民衆は歓喜し、その日一日は全員で空に祈りを捧げたなどということになっていた。
今では竜王国軍の一部が24時間の交代制で漆黒の珠を監視し、すでに祈りの日は3度、訪れていたのである。
◆◇◆◇◆◇
「将軍。まだ次の層を造るのですか?」
「まだだ。まだこんなものでは……」
立ったまま一枚の図面を広げていた男にひとりの兵士が声をかけるが、男は瞬きひとつしない真剣な眼差しで図面を凝視していて、独り言のような呟きだけが返ってきていた。
「しかし、すでに飛竜やドラゴン、ノームたちの疲労は限界を越えていて、兵士たちも……、ひっ」
「き、貴様ぁ! もう一度言ってみろ!」
男の呟きに対して全体の現況を踏まえた意見を述べようとした兵士に、激怒した怒声と血走った瞳がぶつけられる。
「も、申し訳ありません!」
ビクッとして怯えた兵士は即座に威儀を正して言葉を飲み込み、腰を90度以上に曲げているのではと思えるほどの姿勢で謝罪の言葉を吐き出した。
「ふんっ。まだそんな言葉を口にできる貴様らは……」
『幸せ者なんだぞ』と続けようと思っていた男は、そこで一息吐いてから大きく頭を振った。
兵士は続く言葉は「どれほど弛んでいるんだ」とでも言われると思っていたようで、頭を下げながら、どうしてあのクールな将軍がこんな風になってしまったのかと考えつつも、早く怒りが収まるのを祈った。
「よしっ、次の骨組みに入るぞ。竜鉄鋼を持ってこい!」
男は目の前で頭を下げている兵士を一瞥してから、右手を振って大声で指示を出しはじめ、兵士はお辞儀の状態で固まった姿勢のまま、心のなかだけで安堵のため息を吐いたのであった。
そう。この、兵士に将軍と呼ばれ、さながらブラック企業の上司のような言動で事に当たっていた男は、現在スカイ・フォークの建設の指揮を執っている竜王国四将軍のひとり、アレウス・タルコス、通称ラドン将軍である。
ドラゴン・パレスの北にある一年前までは廃墟といえる状態だったスカイ・フォークはすでに別物となっていた。1階の床面積は正方形に東京ドームを9つ並べるほどの広さもあり、現在の高さはすでに2000メートルにまで届いていた。
空を突き刺すかのように聳え立つ漆黒の塔は、照り返す陽光によっては虹色に輝いているようにさえ見える壮麗な外観を誇っている。
すでに直線距離で100キロ近く離れているドラゴン・パレスからも高い所に登れば、その姿を確認でき、さながらそれは天へ向かって漆黒の巨大な槍を突き刺していて、今にも空から血が滴り落ちてくるようにさえ見えていた。
この漆黒の塔、スカイ・フォークは、上空に行くに従って床面積は狭くなっているのだが、2000メートルに達してなお東京ドームなら6個分ほどの広さを保っていた。
これを実現したのがラドン将軍が口にしていた特殊な建材、竜鉄鋼とDーCONだ。
これらの建材は竜王国が誇る研究施設である竜人研究棟で発明されたもので、特徴はとにかく硬くて、しかも軽くて耐久性にも優れていた。
2000メートルという高さを実現したこの画期的なふたつの建材は、どちらもドラゴンや恐竜の鱗、骨、歯などが素材として使われ、ノームによる魔術も施されているという優れもので、すでに中央世界では最高レベルと言っていい技術で出来上がった建材であった。
「まだだ、最低でもあと50、いや100層は造らねば……」
ラドン将軍は飛竜隊やドラゴン隊が上空へと竜鉄鋼を運んでくる姿を一瞥し、未だに遥か彼方にある青い空を見上げながらそう呟いた。
そして彼はひとつ大きく身震いした。
将軍の頭のなかではおよそ10カ月くらい前、4872年の初頭にあった、竜王アンゴルモアとの謁見時のことが蘇ったのであった。
◆◇◆◇◆◇
「これほどのものとは……」
ワイバーン将軍を先頭にヒドラ将軍とエキドナ将軍が並んで進む後ろに従い、ワイバーン塔の最上階を目指していたラドン将軍は、誰ともなしに呟いていた。
皆が無言で進むなかで思わず音を発してしまったことに気がつき、『しまった!』と思ったラドン将軍であったが、前にいる将軍たちが振り返ることはなかった。
ホッと胸を撫で下ろしたラドン将軍だったが、はじめて立ち入ったワイバーン塔の最上階への道は本当に驚きの連続であった。
5階へ続く階段の前にいた屈強の兵士たちは、一般の竜人兵とは体格も装備もまるで別物で、自分でも戦えば一蹴されると思ったし、それから何度かハンドサインでヒドラ将軍から立ち止まるようにと命令が出て、次々と罠や結界を解除されていったことも『またか』と呆れるほどだった。しかも、それはすでに数えられないほどの多さだったのである。
それでもまだ5階を抜けて最上階への階段までは辿りついていない。そこへ続く通路は一本道なのだが、まるで迷路を進んでいるようでもあった。
前を行く将軍たちもハンドサインは送ってくるが、一言も喋らず黙々と進んでいるのもラドン将軍に取っては緊張感を増幅させる以外のなにものでもなかった。
「止まれ!」
4人の将軍がいるのにシーンと静まり返った空間に久々に声が響いた。3階でワイバーン将軍が「行くぞ!」という声を掛けてから、すでに1時間近くが経過していた。
「これが最後の結界だ。いいな!」
「はっ」
ワイバーン将軍の問い掛けに答えたのはラドン将軍だけだった。前にいるヒドラ将軍とエキドナ将軍は頷いているようではあったが声は漏れてこなかった。
このときに、また、いいようのない緊張感がラドン将軍を襲った。
『ヒドラ将軍たちが声を出さない? なぜ? なにかとんでもないことが起こるのだろうか。身構える必要があるのだろうか。念を押したワイバーン将軍の顔も見たこともないほどの緊張が見て取れるが……』
頭のなかだけでラドン将軍はそう考えたが、次の瞬間、それらの思考は消え去り、反射的に両手で口元を押さえていた。
「ぐはっ!」
思わず声が漏れていた。
ラドン将軍は『無数の槍に串刺しにされた』と思っていた。しかし、口元を押さえた手や自分の体を見る限り、一滴の血はおろか傷ひとつなく視覚からは体の異常は認められなかった。ただ、体中が震えていた。すでに立っているのもままならないほどに足はガクガクブルブルと震えていて、体から感じる意識には「鋭利な槍で体中を刺された」「痛い」以外のものは残っていなかった。
そして、ついに耐えられずにしゃがみ込もうとした時に、両側から手が伸びてきてラドン将軍は支えられた。
「……」
「……」
ヒドラ将軍とエキドナ将軍は無言だった。ふたりの顔には滝のような汗が流れ、掴まれた両腕も手汗で濡れているようだった。エキドナ将軍の手からポトリと水滴が落ちる。
すでにワイバーン将軍は前を目指して進み、遅れないように3人が続いていく。
ラドン将軍は全身を突き刺す痛みで気を失うのではないかと感じた。これだけの痛みでは絶対に気を失うはずだとさえ思った。しかし、気を失うことはなかった。
ふたりに支えられながらもラドン将軍は前へと進んでいた。階段を上っていた。気を失うほどの激痛に襲われ続けて震えながら前に進み、やがてそれは恐怖となった。
『痛い。ありえない。痛い。ありえない。痛い。ありえない。怖い。痛い。ありえない。ありえない。怖い。ありえない。痛い。ありえない。ありえない。痛い。ありえない。ありえない。ありえない。怖い。ありえない。ありえない。痛い。ありえない。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い……』
頭のなかで同じような言葉だけが繰り返されていた。それでも意識が遠のくことも逃れることもできなかった。以前にワイバーン将軍から鉄拳制裁されたことが頭を過ったが、あんなものは、まるで子どもだましの御遊戯だったのかとさえ思えた。
こうして、完全に恐怖に支配されたラドン将軍だったが、なにかに全身を絞られているかのように体中から汗を流しながらも、どうにかこうにか最上階へと到着した。
そして、ラドン将軍は、竜王アンゴルモアの巨体と一瞬だが薄く開けれらた紅蓮の瞳を目の当たりにした。彼が覚えていたのはそれだけだった。本来なら新年の祝辞をワイバーン将軍が述べているはずだったが、よくわからなかった。
射すくめられた肉体が、他の将軍とともに傅いていたはずだが、それが自分自身だとは思えなかった。恐怖に支配された心は、継続的に襲う身を切り裂かれるような痛みのなかでは無力だった。
あとから振り返るとあれは別人だったのではないかさえ思えた。ただ、この竜王様への謁見は、痛みと恐怖に支配されていたが、それは神との邂逅に近いものだと本能だけが教えてくれていた。
『神に逆らうことなど愚かで、無謀で、無駄なことだ』という言葉とともに……。
◆◇◆◇◆◇
「ふぅ」
最後に解いた結界を張り直してワイバーン将軍は小さなため息を吐き出した。
「将軍、ありがとうございます。ありがとうございます。本当にありがとうございます。この御恩は一生忘れません! ありがとうございます。ありがとうございます」
結界が戻ったとほぼ同時にふたりの将軍たちがしゃがむ形で両腕を掴まれて床に突っ伏していたラドン将軍は、そう叫んで顔を上げ、涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながらワイバーン将軍に縋りついた。
「うん? なんのことだ?」
大役を終えて一息ついていたワイバーン将軍は、縋りついてくるラドン将軍を一瞥してから軽く首を傾げる。
「無知で浅はかな私めに、あのとき、あのとき、制裁を加えていただかなければ……、私は、私は……」
ワイバーン将軍に縋りついていた両手を離し、両拳で床を叩くようにしながら話したラドン将軍は、言葉が続かなくなってブルブルと震え出す。
「ああ。今日の竜王様はあの忌々しい結界と戦っておったからな。しかし普段の竜王様は愚かな邪神たちとは違って慈悲深く、悔い改めた者には許しを与え、新たな道を示してくれる優しさを持つ御方だ。だから貴様は忠義に励め。うむ。正し、二度目はないぞ。そのことは肝に銘じておくのだな」
「は、は、はい。ありがとう、ありがとう、ありがとうございます…………」
泣き崩れてしゃがんだまま両手を合わせて、祈るような格好のまま感謝の言葉を呟き続けたラドン将軍は、そのあとヒドラ、エキドナの両将軍に付き添われてワイバーン塔の3階まで戻ったのであった。
ちなみに、ワイバーン将軍が口にした愚かな邪紳とは、もちろん人類にとっての神様のことである。
◆◇◆◇◆◇
「おい。お前。息苦しくはないか?」
身震いしたあとに竜王との謁見時のことを振り返っていたラドン将軍は、唐突に頭に蘇ったエキドナ将軍とワイバーン将軍の会話を思い出して兵士に問いかけた。
「いえ。そのようなことはありません」
「誰か他の者から、聞いたことはあるか?」
「いえ。そういった報告はありません」
「そうか。あれは何かの間違いだったのか……」
「なんのことでしょうか?」
「いや、いい。では101層へ向けての骨組みを造るぞ!」
「はっ」
このとき、ラドン将軍がふたりの将軍の会話から確かめたかったことは、「高い所では空気が薄くなって息苦しくなる」ということであった。しかし、漆黒の塔スカイ・フォークの現在の最上階である第100層、およそ2000メートルの高所にいるラドン将軍も、そこで働く兵たちにもそのようなことはなかったため、将軍は気のせいだったかと結論づけたのであった。
これは、ラドン将軍はあくまでも中央世界の平均的な生物であって、第一世界から転移してきた将軍たちとは違っていたために起きた差異であった。
つまり、もし、このことをレウが聞けていたなら「やっぱりそうやったか。うちの思った通りや」と膝を打った話だったが、ここにはこの話を人類やレウに伝える者はいなかったのである。
◆◇◆◇◆◇
「あ…………」
スカイ・フォークから遠く離れた小高い山にひとつの影があり、一文字だけ口にしたあとには沈黙が訪れ、そよ風の音だけが影の鼓膜に届いていた。
『あれはなんだ?』
少ししてから最初に口にしたくてもできなかった文字が心のなかだけで呟かれる。
『あれは……、どれほどの高さ? まるで天を突き刺す漆黒の槍のよう……』
少し落ち着きを取り戻してきた影は、目にした物への思考を進めていく。
『竜王国はなにをしているんだ? なんであんなものを造っている……』
影はそこまで思考を進めてから、そんなことを自分が考えても無駄だと思い、早く戻って報告しなければと本来の使命を思い出した。
そう。この遠くからスカイ・フォークを眺めていた影こそが、知覧・ゲノム・レウの密命を受けて、単身で竜王国領を偵察にきていた密偵ローサであった。