272 バカンスとある騒動
煌めく太陽。白い砂浜。青い空、碧い海。そして、透き通るような艶めくプロポーションとピンクが弾け散る無垢な可愛さ。
腰にスカートのようなフリルのついた水着を着た瑠璃の可愛さは言うまでもないことだ。頬を少し紅潮させてはしゃぐ姿は砂浜に舞い降りた聖天使としか思えない。
聖天使の母、真理はまさに聖母様のように清楚で可憐で輝く白い肌は、光を纏った女神のようである。ただ、ポニーテールで長い黒髪をまとめ、純白のビキニ姿の真理の胸は俺が思っていたよりも少し大きく見えた。
はじめて真理の水着姿を見たときには「あれっ」と思ってじっと見つめてしまった。俺の視線に気が着いた真理は「うん?」と訝しんで首を傾げたが、俺はすぐに視線を外し「瑠璃は可愛いなぁ」と一緒にいた瑠璃とじゃれあってなんとかごまかした。
そういえば聞いたことがある。女性には胸を大きく見せるパッドという秘密兵器があることをと思いながらも。
そう。俺たち3人は今、眼前に広がるプライベートビーチのような入江の砂浜に来ていた。俺たちが遊ぶために作られたような白い砂浜と、右手には磯遊びができる場所があり、左手には釣りを楽しめる長い堤防がある。
青い空からの強い日差しをカラフルなパラソルが遮り、白いビーチチェアーに寝そべり冷えたトロピカルドリンクで口を湿らせ波の音を聞く。
心が休まる静かな波音と誰もいない海。いや、正確にはなぜかウエイターというか、海の家の店員というか、イルカの浮き輪やらゴムボートやら釣り道具やらと、俺たちに必要な物を用意してくれる働き者のネコたちがいる。
今いる浜辺の拠点はもちろん、少し離れた場所の宿泊施設である超豪華な天幕も俺たちが海に到着して、はしゃいでいる間に彼らが作り終えていた。そしてバーベキューやらなにやらの食事の用意も彼らがこなし真理もゆっくりと俺たちとの時間を過ごせていた。
まさに暑い夏の日のバカンスがここにはあった。
なぜ、こんなところに海があるのかとか、静かな入り江、輝く白い砂、澄み渡った碧い海が広がり、最高のバカンスが過ごせる環境がこんなところに整っている理由などわからない。無理やりに答えを求めるなら俺を中心に世界が回っているからとしかいえないだろう。
それでも俺たちは輪廻の塔第6層で真夏の海を満喫していたのだ。
バカンスのスケジュールは6泊7日。今日は最終日であり明日には家に戻るのだが、俺は心ゆくまで楽しみ、真理と瑠璃との家族団欒の時間を堪能し尽くしたのであった。
◆◇◆◇◆◇
思い起こせば、上の階層へ行ける大理石の階段ができた日。何かを堪えるような瑠璃の顔に胸を締め付けられた俺は、瑠璃からの遊びの誘いに対して言葉に詰まった。
どうしよう。俺はどうすればいいんだ。遊びに行く場所? 川か。草原か。湖か。瑠璃の笑顔に何と答えればいいのかと考え頭の中がごちゃごちゃになっていくのがわかった。瑠璃は笑顔のままじっと俺の答えを待っている。
別にセンチメンタルというわけではないのだが、こんな時は潮風に吹かれて、頭を真っ白にしたい。これは俺が考え過ぎて、悩み過ぎて、何をすれば、どう行動すればいいかわからなくなったときによく思うことであった。実際に波音を聞きに行くこともある。
『そうだ……』
海を見たい。ここにあるのかどうかなんて知らないけど、俺はそう思って切り出す言葉を考えた。
「海だよね。北の山を越えればあるよ」
「そ、そう。それそれ」
俺が言葉にする前に洗濯物を干し終えた真理が傍に来て声をかけてきた。真理に先に言われてしまった俺はただただ、追随した。少し狼狽えていたと言ってもいいかもしれない。
「あはは。もうすぐネコちゃんたちが準備してくるよ」
「はは」
「うみ? うみってなあに?」
相変わらずな真理の言葉に呆れたように俺が軽く笑うと、瑠璃が小首を傾げた。
「そうだねー。瑠璃は知らないよね。まあ、あたしも行ったことはないけどね!」
まるでテヘペロでもするかのように舌を出してウインクする真理。こんな真理もとても可愛い。
「あははは。そうだなー。いつも行く川や湖よりももっともっと大きくてさ、水が塩辛くて、こう波とかあって、白い砂浜が広がって。うん。すごく楽しい所だよ」
自分のボキャブラリーの貧困さというか、説明の下手さ加減に少し嫌気を指しながらも俺はできるだけ楽しそうに瑠璃に笑顔を向けた。まあ、状況的にかなり混乱していたから上手く説明できなかったのは仕方がないだろう。
「なんか楽しそうだね」
「そうだぞ。きっと瑠璃も気に入るよ」
「そっか。みんなで楽しいところに行くんだよね。パパもママも一緒だよね。やったー」
飛び跳ねるかのように抱きついてきて上目使いで確認を求めながらも、俺が優しく頷くと瑠璃は無邪気に喜ぶ。そんな瑠璃を見て、きっとこれでいいんだよな、間違っていないよなと自分に言い聞かせながら、俺は内心でホッと一息吐いたのであった。
ちなみに北の山というのは、玄関が南向きになっている家の裏手の方角にあるかなり高い山であり、馬車で移動したのだが途中で1泊することになるほど越えるのに時間がかかる山であった。それと、この世界では方角などあまり意味はないとも思うのだが、太陽の動きから考えれば高い山があるのは家の裏手で北であった。
◆◇◆◇◆◇
道中2泊、現地で4泊のはじめてのバカンスの間は忘れられたのだが、旅から帰れば家の側には大理石の階段が白く輝いていた。外に出たり、家の窓からも見えるので、毎日嫌でも思い出してしまう状況だが、どう行動するかの考えがまとまることはなかった。
それからも、大理石の階段は俺が上るのを待っているかのように存在し続けた。しかし、しばらくは真理たちとのそれまでと同じような日々を捨てて上の階段へ向かうとか、真理たちと下の世界へ行くことのどちらかを決める気にはなれなかった。
輪廻の塔第6層で瑠璃たちと出会った時と同じように、川を流れる浮草のように過ごしていたのである。まあ、これはふたりと一緒に輪廻の塔で暮らし続けるという選択肢を選んでいたともいえるのだが、詰まるところ現状維持のままであったわけだ。
そんなある朝のことだった。いつものようにチャイムが鳴り、瑠璃と真理が玄関に向った。俺はまだ眠かったのでベッドで少し横になり天井を眺めていた。断片的にだが、中央世界でのことや輪廻の塔でのことや、今後のことなどが頭に浮かんでは消えていく。
「きゃーーーーーーーーーーー」
「ダメーーーー。パパぁーーーーーー」
朝の静寂をぶち壊す経験したことのない突然の悲鳴に俺は飛び起きた。玄関の方からの声であり、真理と瑠璃の声であり、ふたりに何かあったとしか思えない状況だ。もちろんこんなことはこれまでの生活のなかで一度もなかった。
何があった。何があったんだ。
『真理! 瑠璃!』
ふたりの顔を思い描きながら、とにかく急いで玄関に向かう。まさに脱兎のごとくだ。そして向かった玄関先で見たものは、腰が砕けたようにくずおれて怯えている真理とその前に両手を広げて立ちはだかっている瑠璃の姿であった。
そして、ふたりの前には両手を高く挙げて、今にもふたりを襲いそうな2体の竜人がいた。
『なんだ、あいつらは? なぜここにいる?』
そうは思ったが、考えるよりも先に体が動いて俺は玄関先の地面を蹴り宙を舞っていた。
「くらえ!」
気合いを入れて上空から今にも瑠璃たちを襲いそうな竜人めがけてドロップキックを見舞う。
「ドカッ!」
「はっ!」
1体目がきりもみ状になって吹っ飛ぶ。そして次の瞬間、驚いたようにこちらを向いたもう1体に対して回し蹴りを放った。
「ドスッ。ズザザザザーーー」
もう1体も吹っ飛び、滑るように地面を移動していく。俺は息を整え、態勢を立て直して2体が飛んでいった方へ視線を送ったあとに真理たちの様子を確認するために振り返る。
「パパぁ」
涙を流しながら抱きついてきた瑠璃を優しく受け止め、青ざめていた真理に視線を送ると、怯えた表情のまま固まっていたが怪我をしているようには見えなかった。
俺はふたりの無事を確かめたあとに、そういえばと思い出す。2体の竜人に蹴りを入れたときに聞こえた妙な叫び声を。
やつらは俺の蹴りを受けたときに「ウゲッ」とか「グギャ」などとは言わず、「ウニャ」とか「ブニャ」とか言っていた。
竜人が攻撃されたときの声など知らないが、なにかがおかしい。そんな声を出すのか? と少し離れたところで呻いている2体に視線を戻した。
すると……。
さなぎから孵る成虫のようにというか、蛇の脱皮のように竜人のなかから見たことがあるモフモフが出てきていた。
俺は目を細める。
あれは……。ナナニャンとハチニャーか……、ってことは竜人ではなくて、ただの被り物? そういえば、竜人なんて見たこともないけど、さっきのやつは人というよりは特撮ヒーロー物なんかに出てくる怪獣のようだったけど……。
そんなことを考えているとナナニャンたちがヨタヨタとよろめきながらゆっくりと近づいてくる。
「ひどいにゃ」
「本当にひどいにゃ」
「やっぱりナナニャンとハチニャーか」
やはり竜人のような格好の着ぐるみだと思われる物から出てきたのはナナニャンとハチニャーだった。ふたりは責めるような瞳で俺をじっと見てくる。
「ってか、お前らなにしてんの? それはなんのまね?」
「今日はニャンニャロウインにゃ」
「そうにゃ。そうにゃ。5年に1度のニャンニャロウインのお祭りなのにゃ」
「ニャンニャロウイン? なんだそれ?」
「ニャンニャロウインはニャンニャロウインにゃ。仮装して『鰹節くれないといたずらするにゃー』と家々をまわって鰹節をもらうお祭りにゃ」
「そうにゃ。そうにゃ。だから来たのにひどいにゃん」
「あはははは。そんなのがあるのか」
声を出して笑ってしまったが、いや、もう笑うしかないだろう。これは獣人たちというか猫族たちのハロウインということか? そんでもって、お菓子じゃなくて鰹節なのね。
「はは。でもなんでよりにもよって竜人の仮装なんかしたんだ?」
「それは姫様が望んだからにゃ」
「そうなの?」
「あっ」
ナナニャンたちに竜人の仮装を選んだ理由を聞くと意外な言葉が返ってきて、真理の方を向く。すると、さっきまで青ざめていた真理はすっかり血色がよくなりというか、頬を赤く染めて驚いた声を上げた口を半開きのままにしてタラリと流れた汗を光らせていた。
「ふーん。そうなんだ。悪かったな。お祭りだって知らなかったんだよ」
「なら仕方ないにゃ」
「知らなかったんなら英雄様の行動は当然なのにゃ」
冷や汗を流していた真理の様子からナナニャンたちの行動のおおよその見当をつけた俺は、とりあえず彼らに思い切り蹴りを入れたことを詫びた。謝った俺に対して彼らは、拍子抜けするほどあっさりと許してくれて笑顔を見せた。俺のことも真理のことも責めるようなことはしない彼らは本当に頭が下がる気のいいやつらであった。
ちなみに、ナナニャンたちは俺のことを英雄様と呼び、真理のことは姫様と呼ぶ。そして瑠璃だけは「瑠璃ちゃん」と名前で呼ぶ。なぜかはわからないが、はじめからそうなっていた。
そして、今回のことについてあとで真理から聞いた話では、真理が彼らからニャンニャロウインのことを聞いたのはかなり前、俺がまだここに来ていないときで、そのときは「竜人とかも面白いかもしれないね」とか言ったそうだ。
それとナナニャンたちは5年に1度とは言ったが、それは下の世界、つまりは第五世界でのことで、時間はもちろん暦などない輪廻の塔では、いつがその日なのかは真理はわからなかったそうだ。たしかにそんな前のことで、暦がなければいつかなんてわからないよなと俺は納得した。
そのあとナナニャンたちに「あの時がどうして5年目なんだ?」と確認したら、「夜の数を数えていて、1500回を越えたので5年にゃ」と自信満々に答えていた。1年が300日なのか? とは思ったが、彼らが胸を張って答えていたのでそういうものなんだろうとそれ以上の詮索はしなかった。
こうしてニャンニャロウイン事件ともいえる騒動は幕を閉じたのだが、この騒動がきっかけとなり、この数日後に階段を上る決意を固めることになるとは、このときの俺は思ってもいなかったのである。