270 根源的な自由
大賢者となった俺はひとりで客間のテーブルに座り、風呂から戻る真理の帰りを待っていた。
穏やかで澄み切った大賢者の心で、今日こそは真理と重要な話をしなければと決意していた俺を襲ったのは、幻の青龍院クリスだった。
なんのことやらという感じかもしれない。なぜ、幻なのかという疑問もあると思う。
それは…………。俺がまだ元の世界で高校生をしていたときに、次のようなことがあったから紡がれた言葉であった。
その頃の俺は、学校から戻ったら大好きなアニメの公式サイトをチェックすることが日課となっていた。そして、その日も学校から帰りパソコンをつけ、いつものようにサイトにアクセスして、それを見つけた。
『青龍院クリス デレネコ女豹バージョンフィギュア【限定生産】』だ。俺は電流に打たれた。いや、正確には討ち取られた。
『な、な、なんて素晴らエロい。買わなければ、絶対に!!』
湧き上がる血潮とともに抗えない使命感に支配された俺は、それからの日々は予約開始日を待ち望み、当日は速攻で観賞用、保存用、布教用として3ポチした。ようやく訪れた達成感と安堵の心。自然と口元が緩み続け、幸せを噛みしめた。そして、それまでは息をしていなかったかのように、大きなため息を吐き出していた。
しかし、そんな俺を突然、悲劇が襲い、とてつもない大きな衝撃を受けて、最終的には俺の行動は喜劇となった。
なんでも、生徒会長として、長刀部部長として、地獄の閻魔と戦うヒロインである本来の青龍院クリスの凛々しさ、勇ましさから離れすぎているからとかで原作者からクレームが入ったということだった。
結果として発売中止となった『青龍院クリス デレネコ女豹バージョンフィギュア【限定生産】』は、陽の目を見ることなくお蔵入りとなってしまったのである。
やり場と行き場を同時に失った俺の情熱は、戦友たちが傷を舐め合う薄い本の展示即売会へと向かった。
多くの同士がいたことを証明するかのように、クリスのデレネコ女豹バージョンは薄い本の即売会を席巻し、俺も数十冊は買い漁ることになったという…………。
おっと、いかんいかん。そんなことは、ここではどうでもいいことだったな。
とにかく真理は対紅達也戦における禁断の最終兵器と呼べる格好で、大賢者である俺を攻めてきたのである。俺が回想に耽っていた間に、真理はベッド上に移動して、デレネコ女豹クリスを実演している。
まさに俺を瞬殺した女豹ポーズだ。上下とも黒の下着にガーターベルト、まるで黒髪から本当に生えているかのようなネコ耳。間違いなく俺の理性をふっ飛ばそうとしている。
しかし、それでも、大賢者である俺は動じなかった。だから大賢者なのだ。偉いのだ。
………………いや本当のことを言うとそれは嘘です。隠しても隠しても滲みでてくる欲望で、俺はかなり前のめりになりかけていた。やはり真理は最強であり、最高の敵だ。
『ふぅー』
心のなかでひとつ深呼吸をしてから、なんとか持ちこたえて真理に声をかけていく。
「真理」
「にゃっ? にゃっにゃっにゃっ」
真理はベッド上で可愛く小首を傾げたあと、招き猫よろしく拳を振って鳴きながら俺を呼ぶ。こんちくしょう。いつもの賢者ならここで負けていたぜ。そう思った俺の頭の中には円周率が流れていく。
『3.141592653……』
うん。大丈夫だ。さすが大賢者。よしっ、まだ戦える。
「真理さん」
「にゃーーーーーー。ごろごろごろ。にゃあにゃあ。ごろにゃん?」
円周率で理性を保った俺が再び真理を呼ぶが、真理のデレネコ状態は解除されず、ごろごろとベッドの上で転がったり、ネコのように大きく伸びをしたりしながら、合間に視線をこちらへ向けて招き猫をしてくる。ネコ耳を本物のように可愛く動かすなんて反則だぞ。飛びつきたくなるじゃないか。
くっ、………………まだだ。まだまだ、まだ負けられない。大賢者の名に賭けて負けるわけにはいかない。負けられない戦いがここにはあるんだ。
「ま、真理さーん。こっちこっち」
浮きかけた腰を椅子の背を掴むようにして押さえ、真理を呼ぶ。
「にゃおーーん」
真理はこれでもかという可愛い顔で、そう鳴いた。そのあと真理は俺を見つめ、俺も真理を見つめるしばらくの沈黙があった。
俺はもうだめかもと思いながらも理性と欲望の狭間を往復していた。すると真理は一瞬だけ何かを悟ったような顔でベッドの上に視線を移し、すぐに俺に向けて満面の笑みを浮かべた。
「そっか、そっか。そっか、そっか」
そう言いながら真理は笑顔のままベッドから降りたのであった。
なんとか勝てたようだったが、その時の俺を襲ったのは、あれっ、これってもしかして地雷を踏んだのかもしれないという感覚だった。
夫が妻の誘いを断ったことから、夫婦間がギクシャクしていき最終的には離婚へと進むというベタな展開はなにかのドラマで見たことがあるという思いが頭をよぎったからである。
いや、でもそういうときはたいてい夫は浮気とかしていたよな。もちろん俺は浮気なんてしていないし、それにそういうシチュエーションでは、たしか断るときに「仕事で疲れているんだ」とか「今日は眠いんだよ」とか言うんだったよな……。
それとは違う。断じて違うのだが、真理が寂しそうにベッドを見た横顔は気になる。いや、しかし、俺は今、大賢者だ。そうだ、大賢者様なのだ。心のなかだけで叫んで俺は大賢者ならではの言葉を吐き出す。
「真理はとても魅力的なので、いつまでも真理と愛し合っていたいと思っているけど、もっともっと真理のことを知りたいし、俺のことも知ってもらって精神的にも深く繋がりたいんだよね。だから今日は少し話をしようよ」
「うふふふ。あたしは達也のこと全部知ってるよ。達也は小さいころさぁ……」
とてつもない恥ずかしさも大賢者の静かな心で抑え込んで、なんとか絞り出した言葉に対して、真理は納得したような、していないような判断のつかない言葉を返してきた。
俺が小さいころ公園で遊んだ話や、小学校の運動会のクラス対抗リレーで活躍したことなどを次々と口にしていたのだが、俺にはもう聞こえてこなかった。
たしかに真理の言動からすれば、俺のことはすべてお見通しというか何を考えているかさえわかってしまうエスパー的な能力があるとは思うけど……。
ただ、ここでクリスの格好をした真理に俺のことを全部知っているとか言われると、なんか嬉しいやら恥ずかしいやらの気持ちが心のなかで大渋滞を起こし、冷静沈着な大賢者の領域を破壊する熱風が吹き荒れたような感じがしたのである。
「あはは。それもそっか。じゃあ一方的で悪いんだけど、俺は真理のことをもっと知りたいんだよね」
延々と続く真理の紅達也物語を笑顔で遮る。大賢者なのに頬が赤くなっているよな、俺……。やっぱり真理には勝てないなと思いながらも、素直な気持ちをぶつけてみた。
「ふっふっふーん」
素直な気持ちが通じたのかどうかはわからないが、真理は紅達也物語を止めて可愛らしく笑い、俺の次の言葉を待った。
そして、しばらくの間。優しくもあり、もどかしくもある沈黙がふたりの間に流れたのであった。
◆◇◆◇◆◇
大賢者となり、ようやく真理と話ができるチャンスがきたのだが、何をどう切り出せばいいのかが、正直わからなかった。
真理が何をどこまで知っていて、どこまで話してくれるのかの見当もつかなかったが、輪廻の塔のことや下の世界のこと、中央世界のことなど聞きたいことはたくさんあった。
ただ、そうしたことを話すことで、今までの関係にヒビが入るのではないかとか、最悪の結末を迎えてしまうのかもしれないなどと考えると、口が重くなっていた。
しかし、大賢者である俺の頭はフル回転し、はじめに聞くことというか、聞いた結果がどうなっても割と安全なものというか、大きな影響はないことを選び出してそれを口にした。
「そういえば、真理。いつもくるネコたちは、なんで俺たちの世話を焼いてくれているんだ?」
「あはははは。達也らしい質問だね。そうね。でも、ネコちゃんたちもあたしたちと一緒に生きているんだよ」
「えっ。それが答えなの?」
「うん。そうだよ。同じ場所で過ごせるのは嬉しいことだよね」
「えっと…………」
まずは手始めにネコたちのことを聞いたのだが、意外な言葉が帰ってきて意味がわからなかった。ネコたちは俺たちの世話を焼くことが嬉しいのか? うーん。まあ、天使のような真理と瑠璃の可愛さなら、そういうやつがいても理解はできるが……。でも、そうなのか?
そんなことを考え、頭を悩ませてまた黙ってしまった俺を置いていき、真理は言葉を繋いでいく。
「達也。生きとし生ける者たちが時という概念に囚われているのは死があるからだよ。死は生まれたときに付属するようについてくるよね」
「いや、それはそうだけどさ……」
真理は少し横を向き、悩む俺を流し目で一瞥して続ける。視線があったときに俺は美しいと思ってしまい口を噤んだ。それは本当に本や漫画などの扉絵になりそうな、心が蕩ける美しさだった。
「それでさ。この誕生から死までの期限があるからこそ、知能を持った人は時を生みだしたんじゃないのかな。それは正しいことだったのかもしれない。でも逆に人はそれに縛られてしまったんだよね。一定の期間のなかで精一杯、生を謳歌することこそが生きる価値だと、生きた証を残すためにここにいるのだとかね」
伏せ目がちに視線を下げて小さくため息を吐いた真理は、再び桜色の唇を優しく動かしていく。
「人がさ、時にこだわってしまうのは、死があるからこそなんだよね。精一杯生きるとか生きた証を残すってのは、死があるからこその発想だよね」
「まあ。それはそうだな」
死があるからこそ限られた時間のなかで精一杯に生きたり、生きた証を残すという真理の言うことは、理解はできたので、俺は軽く声を出した。それでも、言っていることはわかるのだが、表面的だった。その真理を、真実を奥深くまで、魂まで感じて理解したとは言い難かった。
少し言葉を止めた真理は一瞬笑みを見せてからまた口元を動かした。
「でもさ、ここには死も、ましてや老いもない。あるのは継続する生だけなんだよね。そうね。人から見れば、見方を変えれば永遠のなかに取り残されているようなものになるのかな。そういう時の概念さえも必要のない世界、それが輪廻の塔なんだ。つまりさ、あたしたちもネコちゃんたちも、根源的には自由で期間がある生という枠組みからは外れて、それでも生存しているんだよ」
「あれま」
「あははははは。なにその反応。達也ったらおもしろーい。あはははははは」
「いや、まあ……、驚いたというか、その通りなのかもしれないなと思ったらつい出てしまったという……。はははは」
レウンのところでも、輪廻の塔には時間の概念はなく24億年かかっても下の世界では一瞬だとかは聞いてはいたが、それは聞いていただけで、まるで実感はなかった。言葉だけをおおまかに捉えていたにすぎなかった。それで終わっていた。
一瞬の時のなかにある永遠、人はそう考えるが、根底から間違っているわけか。一瞬や永遠が時から生まれた発想だとして取り除き、続いていく生だけが絶対とでも言えばいいのか。これは今までの生き方を否定するような決まり事であり、心から理解するのは難しいが、真理の説明を聞いてなんとなくわかった気がした。
それにしても真理は献身的であったり、魅力的であったり、家庭的であったから、あまり気にしていなかったのだが、蛍のように賢いというか知的でもあるんだな。
「あれま」という俺の反応が笑壺に入ったのか、嬉しそうに笑い続ける真理を見ながら、俺は蛍が中央世界の時間の謎を解いたシーンを思い出したのであった。