265 輪廻の塔、第6層の番人
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
ポピュラーな諺であるが、今の俺の心境を言い表わすには丁度良い言葉であった。
笑顔で俺を騙し、しかも意地悪までされたレウンであったが、彼女が思いもよらなかったスピードでクリアできたことと、今、目の前で本当の幼女のようにおろおろとしている様子を見て、レウンに対する怒りが次第に薄れていくのがわかった。
もともと俺は、これまでの人生のなかで人に対する怒りを持ち続ける経験が少なかったのも影響しているのかもしれない。過去のことをあれこれと考え続けることは苦手なほうだと思う。
レウンに嵌められた3年半くらいの苦行も今となっては良い思い出と、ポジティブに考えるほうが性に合っていた。
まあ、そうだよな。第七世界では皆が覚えているという術の基本を成功させたんだし、実際に魔法みたいな技を試してはいないが、それもきっとなんとかなるのだろう。
苦労して、苦労して、何もない両手の空間に陽炎のような揺らぎが現れたときの感覚と感動は、たしかに俺のなかに残っている。結果から見れば短期間で習得できたので、レウンにはむしろ感謝するのが筋かもしれない。
それにしても、レウのことを知らないなんて、こいつは本当に第七世界を担当している番人なのか? レウは下の世界では有名人というか、スーパースターだろうに。
そうも思ったが、時間の概念がない輪廻の塔で永遠の時を生きている者と下の世界で時間に縛られて生きている者が交わることはほとんどないのかもしれないと思い直し、そこは突っ込むのを止めておいた。
おそらくレウン自身が下の世界に行かない限り接点はないはずだし、こいつは少なくともレウが生きた時代のなかでは下の世界には行っていないのだろう。
「あーーー。もうなんなんや、お前は。はよ行け! うちの前に二度とその顔を見せるんやないわ」
あっ。逆ギレしてる。まあ、いいか。これ以上、ここにいる理由もないよな。『いろいろなことを教えてくれたことは感謝しているよ』と心のなかだけで俺は呟く。
「はいはい。そうします。ではさようなら」
小さく肩を竦めてから、俺はレウンと最後の挨拶を交わす。レウンは肩を小刻みに揺らして、「ふんっ」といってそっぽを向いた。もう、こいつと会うこともないだろう。
こうして、スク水姿のレウンに背を向けた俺は、大理石の階段へと向かったのであった。
◆◇◆◇◆◇
これまでと同じ大理石の階段を上る途中、俺は考える。
この次の階層は……、というか、七つの世界であと残っている世界は第五世界と第六世界か。
シクラメンの花はなんとなくわかるが、フィソステギアなんていう花は見たことも聞いたこともない。だから、上まで行ったときに現れる花畑が見たこともない花なら第五世界となるわけか。
あと、七星に似た者が番人として出てくるのなら、残っているのは蛍だけだが。いや、残りの一枠は、もしかして俺自身の偽物が出てくるとかか?
それはそれで興味がないわけでもないが、逆にとんでもないやつだったりしたら、少なからず俺はダメージを受けるだろうな。
仮に俺自身の偽物がいるとすれば、次の階層で出会う可能性のある組み合わせは第五世界で蛍か俺かと第六世界で俺か蛍かの4通りか。
また何かとんでもない状況になる可能性のほうが遥かに高いが、そんなことは今、考えても仕方がないことだ。この輪廻の塔の恐ろしさは、もう充分にわかっているつもりである。
それでも、おそらく残りのふたつを経験すれば、また何かが見えてくるのだろう。いや、残りふたつというのも勝手に俺が思っているだけで、違うのかもしれない。輪廻の輪のなかを永遠に彷徨う道とかがあっても不思議ではないからな。
そういえば、レウンが言っていた幸介もどきの襲撃が筋力と持久力を上げるためだというのは本当なのだろうか?
腕や足の筋肉を触ってみても、強化されたような感じはしないのだが……。
うーん。でももし、レウンの言ったことが事実だとしたら、幸介もどきのところでは筋力と持久力を底上げして、レウンのところでは術を覚えたことになる。それは、つまり、成長しながらこの塔を巡っているってことなのだろうか?
いや、でも、それだと他の場所ではなにが……。いや、待て待て。もし、この塔で俺が能力を上げることが七星が「変遷」で伸びた能力と関係しているなら、幸介が筋力でレウが知力を必要とする術だとすると、キャサリンが脚力、レイラは跳躍力だよな。
あとラウラは、えっと魅力じゃなくて、なんだっけ? あ、そうそう。視力と観察力とかレウが言っていたな。
それらも上がっているとかなのか……。うーん。わからん。もともと視力は良い方だし、脚力や跳躍力は試していない。
よしっ、考えるのはここまでだ。自分の魂の行き場所を求めて、とにかく前に進もう。そこで何が待っていたとしても、俺にはそれしか選択肢はないのだ。
ただ、願わくば今ここにいる魂の方が中央世界に留まっている魂と結合し、もう一度蛍たちに会いたいが……。
そんなことを考えながら、階段を上り終えた俺を待っていたのは、またもや予想の斜め上を行く展開であった。
◆◇◆◇◆◇
「パパ。お帰りぃ」
「えっ」
階段を上りきったと同時に、何かおかしなことを叫びながら黒い物体が腰のあたりに突撃してきた。抱きついてきたというのが正しいのかもしれないが、突然だったのとあまりの勢いに押されて俺は後ろに倒れそうになってしまう。
まずい。今、倒れたら階段を転げ落ちる!
咄嗟にそう思ったが態勢を立て直せずに俺は尻餅をついた。しかし、俺の尻が地面に着く直前に階段は消えていて、結局のところ俺は花畑らしき場所に腰を降ろし、ほっと一息ついた。
「あはははは。パパ倒れた」
一息ついた俺の目の前には、屈託なく笑う幼少時の蛍がいた。いや、違う蛍じゃない。前髪をパッツンしたときの可愛らしいおかっぱ頭、サラサラで艶のある黒髪、くりくりとした瞳や桜色の唇など、覚えている限りは当時の蛍だったが、右目の目尻に泣きボクロがあった。だからすぐに違うと確信できた。
でも、これは小学校低学年のときの蛍の格好だな。彼女が着ている胸や袖にリボンのついた淡いピンクの上着も水色のスカートも記憶がある。
今度は蛍に似ている者といっても、こんな小さな子どもになって番人が登場したのか? こんな愛らしい番人がいてもいいものなのか?
そんなことを考えていたら、彼女は花畑に腰を落としていた俺の首に思いっ切り飛び込んできて、ぎゅっと抱き締めてくる。子ども特有の癒やされるような良い香りがして、俺の視線は彼女の黒髪にくぎ付けとなり、包み込むように優しく手を背中へ回す。
ただ、彼女は俺を一度ぎゅっと抱き締めたあとは、子どもだからか落ち着きがなく頭を盛んに動かし、危ないからよく見て避けていた俺と視線が合うと「ふっふーん」と笑った。
『なんだこの可愛い子は』と思わず口元が緩み、見蕩れ続けてしまうほどの笑顔がそこにはあった。
「あははは。達也。お帰り」
「あっ。ママだ」
幼女のような少女にママと呼ばれた人物がいつのまにか傍に来ていた。視線を送ると、高校生のというか、死ぬ前まで一緒に戦っていた蛍がそこにいた。
長い黒髪も、俺に向ける笑顔も、優しさを纏っているような雰囲気も、美の女神のような美しさも、すべてが蛍であった。しかし、可愛い少女と同じように目元に泣きボクロがあったため、俺は瞬時に蛍に似た何者かであることを理解した。
ママと呼ばれた美少女は白のブラウス、水色のロングスカートで、笑顔の猫たちの3人家族が描かれた淡いイエローのエプロンを着けている。そして、優しく微笑んで、尻餅をついたままだった俺に白魚のような手を差し伸べていた。
目元に泣きボクロがあったので、本物ではないとすぐに理解できたのだが、彼女にお帰りと言われて俺は一瞬ドキッとしていた。そして、思わず「ただいま」と言いそうになっていた。
それは本物の蛍が、中央世界に戻れた俺にかけた言葉のように思えてしまったからであった。