257 魂の選択肢
ラウラ似のお姉さんメイドがここが輪廻の塔だといった直後、俺が上ってきた階段があった場所とは少し離れた所に突然、新しい大理石の上り階段が現れた。
「あっ……」
それを見た瞬間、お姉さんは息を吐き出すように驚いた声を発し、そして悲しげな表情でくずおれた。女座りをしているようであったが、メイド服のスカートが大きく広がっているのでよくはわからない。
さらにさめざめと泣きだしている。声は出ていないが『しくしく』と言っているようであった。
えーーーーー。なにこれ? あまりの状況の急変に俺は茫然と立ち尽くした。頭の中が真っ白になったと言っていい。何も考えられない。
静かにゆっくりと時が刻まれていく。
くずおれて悲しそうに泣くお姉さんと俺以外は誰もいない世界。空は青く、陽光も微かに感じる風も最大限の優しさをまとっていた。周囲には胡蝶蘭が咲き乱れ、時おりよい香りを運んできている。
「お、お姉さん、泣かないで」
どう言葉を掛けていいのかわからなかったが、俺は一度深呼吸をしてから絞り出すように声を発した。しかし、お姉さんは俺の言葉を受け流し、泣き続けた。彼女の後ろ姿は、まるでそこに悲哀の二文字を背負っているようであった。
どうしてこんなに悲しそうに泣いているのだろう?
輪廻の塔の意味を考えていたことと、上り階段が現れたこと、急変したお姉さんに正直パニックになっていた俺はようやくそこに辿りついた。思考が戻ってきたといってもいいかもしれない。
無機質な大理石の上り階段は、俺が進むのを待っているかのように陽光に照らされて輝いている。
とりあえず輪廻の塔の件はいったん横に置こう。俺はそう決断した。このままでは話もできないし、かといってコスプレサンタのときのように、「じゃあ、また」とか言ってこのまま前へ進むのも何か違うような気がする。この場面で、泣き続けるお姉さんを放置して先に進めるほど、俺は薄情ではないはずだ。
まあ、彼女は俺の姉だと言い張っているが、そんな記憶はかけらもないし、さっき会ったばかりの赤の他人だ。ラウラ似の他人で俺とは縁も所縁もない人のはずだ。口元に艶ぼくろがあるお姉さんがメイド服を着て、ふたりだけで胡蝶蘭が咲き乱れる花畑にいるというだけなのだ。そう考えれば放置して進むという道を選んでも間違いではないのかもしれない。
それでも、さっき抱き締められたぬくもりは確かに俺のなかに残っていた。さらに彼女が言った輪廻の塔という言葉の本当の意味もわからない。これから聞こうと思っていた矢先だった。だから、このまま放置して進むというわけにはいかない。それが俺の結論であった。
ひとつだけ付け加えておくなら、決してお姉さんメイドのご奉仕に興味があるとか、さっきの豊かな胸の感覚が忘れられないとかではない。そんなことは断じてないのだ。よしっ。
ようやくそこまで整理した俺は、お姉さんメイドの横に座り背中に手をあてて慰めるように顔を覗き込んだ。
「たーくん!」
俺と視線があったお姉さんは、泣き叫び顔をくしゃくしゃにしながら思いっきり抱きついてきた。そして、そのまま俺たちは胡蝶蘭の花畑に倒れ込んだ。
お姉さんは「ありがとう」と何度か言っていたが、俺は背中をやさしく撫でてあげる。上に乗られた格好なのでそれしかすることがないというか、そうするのがいいと思ったからである。
しばらくそのまま抱き締められていたが、やがてお姉さんは起き上り、出会ったころのやさしさを伴った笑みを見せた。あっ。元に戻った。俺はそう思った。
「さっ。たーくん。いらっしゃい」
ようやく解放されて半身を起こした俺に、正座したお姉さんメイドが笑顔で太ももをポンポンと叩く。
なんだろこれ? とは一瞬思ったのだが、次の瞬間、俺の手を取る彼女に導かれるように柔らかいももに頭が乗った。いわゆる膝枕である。
「うふふふふ。お姉さんが耳かきしてあげるね」
なるほど。そういうことか……。いやいや。なぜ、ここで、このタイミングで膝枕で耳かきをしてもらうのかまではわかっていないのだが、俺は抵抗することはなく身を任せることにした。これがご奉仕のひとつなのか。
気持ちがいい。なんだろう、この感覚。
そういえば、元の世界で聞いたことがある。お金を払って女の子に膝枕で耳かきをしてもらうとかいうサービス。そうか。つまり、これは男のロマンのひとつなのだな。もちろん俺自身は、お金を払ってまでしてもらいたいとは思わないがな。本当だぞ。
そんなことより、俺は話を戻さなければと思って、口を開く。
「輪廻の塔ってどんな意味なの?」
「そうそう」
おっ。お姉さんも思い出したように話に乗ってくれそうだ。やったぞ。そう思ったのだが、次の言葉を聞いて俺は唖然とする。
「たーくん覚えている? たーくんは小さいころやんちゃさんで、近所の家の柿を取ろうとして塀から落ちちゃったのよね。お姉さんびっくりしすぎて心臓が止まるかと思ったわ。うふふふふ」
そうそう、そんなことあったな。あのときは救急車とか来て大騒ぎになって大変だったんだ。って……。えっ、なんで知っているんだ。あのとき傍にお姉さんいなかったはずだぞ。
戸惑う俺を無視してお姉さんは耳かきを続け、ふーと息を吹きかけてきた。ああ、ちょっとくすぐったいけど本当に気持ちがいい。
お姉さんは俺を促し頭の向きを変えさせる。目の前にはお姉さんのお腹が見え、ローズの香りが鼻腔をくすぐる。おっと、気をしっかりもたねばな。
それにしてもやっぱり手ごわいな、ここの人たちは……。でも、負けるか。
「ねえ、お姉さん」
「なーに、たーくん」
「さっき言っていた輪廻の塔のことなんだけど……」
「あっ。そうね」
おっ。今度こそいけるか。
「詳しく教えてくれませんか?」
「たーくんって黒髪ロングの子が好きなのよね。きれいな黒髪で有名な青龍院クリスちゃんのフィギュアをいっぱい持っていたわね。うふふふ」
「ぶはっ」
な、な、な、なにを言ってるんだ、このお姉さんは……。なんでそんなことを知っている。蛍だって、幸介だって知らないことだぞ。いやいや、それだけじゃない。妹の由紀だってきっと知らないはずだ……。
「あぁん。だめよ。たーくん。オイタしちゃ」
「あっ」
おっと。あまりのことに手がお姉さんの太ももを掴んでいた。まずい、まずい。お姉さんは怒ってはないようで、頭をやさしく撫でている。うーーー、くそっ。なんというか、話が進まないというか、手を変え品を変え上手く交わされているというか……。それに、これ以上進めてもいいのか……。少し怖くなってきた。
お姉さんは耳かきが終わっても、やさしく微笑みながら頭を撫でて、俺が幼いころ、運動会であれをやったとか、学芸会でこれをやったのが可愛かったなどという話をしていた。全部記憶のあることだったけど、もう、それはそういうものだと思うしかなかった。
それでもお姉さんの隙を見ては、また蒸し返すように「輪廻の塔のことを教えてください」などと聞くと、お姉さんの口から言葉が飛び出てきたのだが、それを聞いた俺は「ぐはっ」「うげっ」「わぎゃ」としか言葉を返せず、話は続かなかった。
なにしろ「クリスちゃんの薄い本を展示会場へ行って必死に買い漁ってたのもお姉さん知っているわよ。もちろん隠し場所も」とか「最近は猫耳メイドさんが好みなのかしら。お姉さんも猫耳にしようかな。なんてね」とかとか言い、果ては「たーくん。まだ高校生なんだからエロゲはほどほどにしてね。ベッドの下とか誰でも見つけるわよ」と言われる始末だったのだから。これは空前絶後、絶対零度の羞恥プレイだ! 俺はそう叫びたかった。
そして最後にこそこそとつぶやくようにエロゲのタイトルまで言いあてられて、完全に心が折れた。恥ずか死んだ。輪廻の塔のことなんか二度と聞くかと、まったく関係のない輪廻の塔に八つ当たりするくらいしか俺にはできなかった。
どういうわけか、お姉さんにいろいろな恥ずかしい秘密を暴露されている間に「知覧に分らぬ事なし」と言って胸を張ったレウを思い出したのだが、俺の頭を撫でながら暴露を続けるお姉さんの声が被さり、そこから何を考えようとしていたのかさえもどうでもよくなってしまっていた。
こうして、これ以上はないほど脱力したというか魂の抜け殻のようになった俺だったが、お姉さんはひとしきり俺の幼いころの思い出話をし終えると、恥ずかしくてお姉さんのお腹に顔をうずめていた俺を起こして再び優しく抱き締めた。
「たーくん。ありがとうね。もう行かないとね。お姉さんは大丈夫よ。たーくん成分を一杯補給したから。うふふふふふ」
精神的に大ダメージを受けていた俺は、耳元で声はしていたのだが目は虚ろで意識は遠くへ行っていて、しばらくの間お姉さんに体を預けていた。そんな俺をお姉さんはやさしく導いた。
「さっ。たーくん。こっちの階段よ。前の階段はきっと竜人に捕まっちゃうか、暗闇を彷徨い続けることになるからね。お姉さん、前にたーくんを探しに下の世界に行ってあやうく捕まりそうになったから」
遠い目をしたボロボロの状態で、お姉さんに手を引かれるままによろよろと前へと進んだ俺の耳にも、前の階段とか竜人とか暗闇とかの言葉がたしかに聞こえてきていたのだが、そのときは驚くことはもちろん、何の反応も俺はできなかった。
ただ、最初に階段が現れたときの選択肢は正解を選んだようだということだけはなんとなく理解できた。そのあと、あれっ、暗闇を彷徨ったほうが、まだましだったかもと思いながらも……。