242 大森林での死闘㉜ ~大きな犠牲~
【念のためのご注意書き】
作中の蛍のように、極度に虫が嫌いな方はご注意ください。
この戦いでは、ムカデ、毒蜘蛛、サソリ、スズメバチ、軍隊アリ、イナゴ(ワタリバッタ)などが登場します。
蛍は走った。
自分を助けて穴に落ちた幼馴染がいるはずの場所へ。そこから聞こえた絶望の咆哮が響いた場所へ。自分が倒れたレウの回復をしていたことさえ忘れて、行かなければならない場所へと走った。
幼稚園のころ一緒に遊んだ砂場が、小学校の遠足で飯盒炊飯をした川原が、中学のときに遠泳をした海が、いつも気がつくと隣にいて見守っていてくれていた友の顔が走馬灯のように蘇る。
胸が締め付けられるように痛い。息苦しい。それでも走った。行かなければならなかった。止まるわけにはいかなかった。一縷の望み、最後の希望がそこにあるのなら。
目指す場所へ着くまでにも周囲の穴底には倒れた兵士たちが横たわっていた。見たくて見たわけではない。穴を避けるために見えてしまった、所々に大きな血痕を残している白の防護服。
ひどい……。いくつもの穴底の無残な姿を見るたびに涙がこぼれそうになる。それでも蛍は我慢して、涙をこぼさずにただ急いだ。わずかな時間も無駄にせず目標へと向かう。
そして蛍が目的地に着いたとき、先にくずおれていたキャサリンと同様にいつの間にか隣にいたレイラもへたりこんでいた。ふたりともこちらを見ずに項垂れたまま時を止めていた。
走りながら胸に手を当て、激しく乱れている息を整えると一瞬の瞬きののちに、蛍は視線を穴底に向けた。
そこには暗い穴底で真っ白な防護服を真っ赤に染め、それでも前を向こうと手を前に伸ばしている幼馴染の姿があった。その横には白と茶色にいろいろな色をまぶしたような汚れかたをしている大きな背中があった。両手で地面を叩いたような格好で蹲っている幼馴染だ。
完全に血の気が引き蛍は蒼白になる。
「うっっ……。いやっ……」
声にならない音が聞こえたような気がした。達也は頭部だけに白さを残し、ほかのすべてを赤で染め直されたような防護服を着て倒れていた。周囲の血だまりが壮絶さを物語っている。
『う、うそ。うそでしょ。いや。いや。いや。いや。いや。いや。だめ。だめ。だめ。だめ。だめ』
心の中で叫ぶ。もう声は出ない。無意識のうちに目に止まった縄を掴み、滑り落ちるように穴底へと向かう。そのまますがりつくように達也の体を起こし右腕で抱き抱えた。同時に蛍は回復の術を目いっぱいかけていく。
術をかけながら、達也の胸に耳を押しあてる。何も聞こえなかった。一切何も……。
『だれかうそだと言って。お願いだから……』
一度、祈りをささげるかのように天を仰ぎ、再び達也の胸に耳を押し当てる。心音が聞こえないのは場所が悪いんだ。違うここじゃない、こっちだ。いや、こっち。手に、髪に、体に達也の血が染みていくが、蛍は気にせずに耳を押し当てたまま頭を移動させて何度も何度も心音を聞いた。
しかし何も聞こえなかった。その間、回復の術をかけ続けていたが変化はなかった。達也は口を真一文字に結んだまま、静かに目を閉じて微動だにしなかった。あきらかに息はしていなかった。
「いやーーーーー!」
黒髪の美少女の叫びが森に響き、堰を切ったように大粒の涙があふれ出した。
「うぅ。うぅ。うぅーーーーー。うぅぅぅぅぅ」
達也を抱き抱えたままへたり込んで項垂れた蛍の頭のなかで、中央世界に来てからの達也との思い出が次々と投影されていく。
「おまえら、好き勝手いいやがって。ふざけるな!」
この世界にきてゴブリンに囲まれたときに前に出てかばってくれたことが。
「ほたる、露払いは任せろ。こっちだ。浜辺に出るぞ!」
キャット・タウンでアノマロカリスと戦ったときに道を作って矢を撃つ陣地を確保してくれたことが。
「ほたるっ! 危ないっ! ……痛っ!」
ゴブリンに操られていたレイラに攻撃されたときにかばってくれたことが。
「なあ、ほたる。ゴブリンどもに英雄様の恐ろしさを見せてやろうぜ!」
無理してもレイラを助けたいと我儘を言ったことに対して、優しく励ましてくれた言葉が。
「もし、もしもだ。俺たちがダメなときは、振り向かずに逃げてくれ」
ゲック・トリノ城攻めの直前に不利になったら逃げるようにと約束させられたときの真剣は表情が。
「えっと、どこから話していいのか、難しいんだけど。フレイムさんが……」
昆虫軍との戦いの前、昆虫と戦えない自分を元気づけるために戸惑いながらもフレイムの幻術のことを話してくれたことが。
「うぉぉぉぉぉ。邪魔だぁーーー!」
昆虫軍との戦いで襲ってくる虫たちから傍を離れずに箱に入っていた自分を守ってくれたことが。
「いいから逃げるぞ!」
昆虫軍との戦いで矢を撃ったあと、爆風に襲われる前に手を引いてくれたことが。
「たつや。たつや。たつやーーーーーーーーぁ!」
次々と映し出されたシーンのなかで確かに達也を、大切な存在を感じた蛍は、絞り出すように、腕のなかで真っ赤に染まりながらも静かに眠る幼馴染の名を天に向かって叫んだのであった。
◆◇◆◇◆◇
「おお、英雄紅達也よ。死んでしまうとは情けない……」
無限に広がる暗闇から音波のように届けられたイメージに突き動かされて、俺の脳が覚醒する。
「うーーーーん。ここは? 俺は死んだのか………。やつらに体を切り刻まれて死んだのか……。そうだほたる、ほたるは無事か。俺は戻らなければならないんだ! まだやることが残っているんだ!」
「お主の使命は世界を紡ぐこと。今ここで果てるわけにはいかぬのに、何をしているのじゃ?」
「誰だ? なんだこれは? これは………………、もしかして、あれか?」
ゲーム中の教会とかで聞いたことがある『ピピピピピピピ、ピッ』という音がBGMとなって、誰か、何かのセリフが朦朧とする感覚に叩きつけられる。
無理やり起こされ微睡んだ頭のなかでは、子どもの頃に蛍と一緒にやったテレビゲームのシーンが走馬灯のように駆け巡り、ますます俺の精神を撹拌する。
「そなたは、どうやら意識が混濁しているようだのぉ」
意識を集中し、はじめて目をカッと見開いたような気持ちのなかで、この得体の知れない声が木霊する。
「お前さんが気にしているほたるとやらは、今はまだ生を全うしておるようじゃのぉ。それにしても、お主ときたらこんな無様な格好をさらしおって…………。ビビリの上にヘナチョコじゃったのぉ」
「よかった。ほたるは無事か。って、今はってなんだ……。って、誰がビリチョコだ!」
「ビリチョコ?」
深いため息が漏れ、じと目で見られている視線を感じ、少し恥ずかしくなったが、それを反省してる場合ではなかった。
「やれやれ。とんだボロ雑巾じゃのぉ。こんなところにいてもお主にできることは何もない。永遠に引き籠もるのはお主にはお似合いかもしれんがの。ふぉっふぉっふぉっふぉっ」
「ふ、ふざけんな。なんだよ。お前は誰なんだよ」
ちくしょう。偉そうに上から目線でめちゃくちゃいいやがって。こいつグーで殴ってやりたい。
「ふぉっふぉっふぉっふぉっ。儂が誰でもよかろうて。お主の意識はもってあと20秒というところじゃな」
「えっ。これは復活とか転生とかの流れじゃ…………」
そう言いかける俺の声を遮り、得体の知れない声が畳掛けてくる。
「甘いのぉ。甘い、甘すぎる。砂糖まみれのチョコレートより甘いわ。ほっほっほっ。お主は時間が遡れないことを知っておるじゃろ。生から死は不可逆、変えられない真理だ。たとえ英雄であってもな。死と魂のエントロピーは増大し続け、やがては無に至るのだ。それが誰も抗うことなどできない唯一無二の真理なのじゃよ。おお、そろそろじゃな……」
「いや。何を言っているのかわからないが……。あんたは神様とかじゃない……」
俺の疑問は華麗にスルーされ、むかつく闇の声が、一瞬だが気合いを入れたように感じた。
「それでは残念な英雄よ。抗えぬ運命のカオスとなれっーい!」
「えっ。……う、う、うわぁっーーーーーーーーーーーーーーーーー。ほ……た……る……っ」
腹の底から湧き上がった深い絶望、喪失感を伴う恐怖、大切な人の笑顔が入り混じった最後の声が一瞬だけだが脳に記憶を残し、俺の意識はあえなく無限の暗闇へと響かれていく。そして紅達也と彼の意識が存在していたそこは混沌となり、無となった。
『たつやーーーーーーーーぁ』
人生の最期に、蛍の声が聞こえてきたような気がしたが、それもやはり絶望と喪失だけがはびこる漆黒の世界に飲み込まれていった……。
紅達也は死んだ。それは紛れもない事実であり、決して戻れない定めであった。
「ふんっ」
吐き捨てたような声を最後に闇からの声は途絶え、周囲は永遠の闇に包まれていった。