過去編⑯
少女は物心ついた時から、同じ部屋でずっと過ごしていた。
その部屋を人が見れば、病室とも実験室とも、あるいはその両方に見えたことだろう。
事実、その部屋は病室であり、実験室でもあった。
少女という実験動物を取り扱う、実験室であり、少女という病人を看病するための病室でもあった。
実験動物として管理され、死なれると困るから看病される。
そんな扱いも、しかしそれ以外されたことのない少女にとって、それこそが普通であり全てであった。
毎日ただベッドに横になって過ごす日々。
実験され、治療される日々。
不幸中の幸いは、彼女を飼っているのが世界最高峰の頭脳の持ち主であり、適切な治療が施されていたことだろう。
また、その飼い主の実験目的が、少女が健やかに問題なく成長できるかどうかを見ていたため、知能の発達具合などを見るためにきちんとした教育が施されていたことか。
部屋にはテレビが備え付けられ、通信教育が受けられる環境が整っていた。
少女は部屋の中から一歩も出ない生活をしながらにして、年齢に見合った教育をきちんと受けていた。
しかし、だからといってこの歪な環境で、少女の精神が真っ当に育ったかどうかは別。
少女にはおよそ感情と呼べるものが欠けていた。
日々を何も感じることなく、ただただ無為に過ごす。
ただ生きているだけ。
そして、いつか死ぬためだけに少女は生きている。
それは生きながらにして死んでいるのと変わりなかった。
そして、少女が死ぬのは時間の問題だった。
少女の体は普通ではない。
少女は人為的に精子と卵子を加工され生み出された。
人間のそれに、他の生物の遺伝子を組み込み生み出されたキメラ。
それが少女の正体であり、神の摂理に反して生み出されたその体は、まるで罰であるかのように欠陥を抱えていた。
少女の体は組み込まれた動物、蜘蛛の特性を引き継ぎ、毒を生成する機能を獲得していた。
しかし、それは本来人間にはない機能であり、当然その体に毒に対する耐性などない。
その毒は生成している本人の体を蝕んでいた。
しかも、問題はそれだけではない。
本来人間には備わっているはずのない毒の生成は、少女の体から膨大なエネルギーを奪っていた。
それだけならいざ知らず、毒に侵された体はそれに抵抗するためにさらなるエネルギーを必要とした。
さらに、内臓は毒で弱り、消化吸収もまた弱っている。
そのため、健常な大人の数倍の量の食料を必要とした。
それだけ食べても、少女の体はやせ細っている。
食べても食べてもそれが栄養として少女の体に蓄えられることはなく、むしろ毒となって少女の体を蝕んでいく。
しかし、それでも食べなければ生きていることさえできない。
少女は生まれながらに破綻していた。
いつ死んでもおかしくない、それが少女の現実だった。
ベッドの上から動けない生活。
そこだけで完結された世界。
ただ生きて、死ぬまでただいるだけの存在。
少女の生みの親であるポティマスに、ささやかな研究成果を残すだけの、実験動物。
ポティマス以外に存在を知られることなく、失われる命。
その運命は、ポティマスの国際指名手配で覆ることとなった。
ポティマスにとって、指名手配を受けるのは全くの想定外の出来事だった。
しかし、いつかはそうなるのではないかという懸念はあった。
自身の行っている研究が、世間一般でどのように扱われるのか、ポティマスは自覚していたのだ。
自覚していてなお、止まることなど考えもしなかったのだが。
そして、止まることなく続けていた研究が、隠し通せる段階を過ぎていることも薄々は気づいていた。
ポティマスは自身が優秀であることを自覚していたが、絶対ではないこともまた自覚していた。
絶対であるのならば、とうの昔に目的を達成できている。
そうでない以上、ポティマスが優秀であろうとも、できないことはある。
それを自覚していたからこそ、全てが計画通りに進行することはないとわかっていた。
それゆえに、想定外ではあっても、指名手配されたことに焦りは感じていなかった。
ポティマスはまず、必要な研究資料を全てかき集めて姿をくらませた。
人の手に渡るとまずい資料は手元に残すか処分し、人の手に渡ってもいい資料はそのまま放置。
その中には実験動物として扱われた人々も含まれていた。
ポティマスは各地に隠し研究所を作っていて、そこで非道な人体実験を繰り返していたが、それらを施設ごと放棄した。
ポティマスの足取りを追って、警察機関が足を踏み入れることを見越して。
そして、少女は保護された。
ポティマスが姿をくらませてから数日間。
ほとんどベッドの上から動くことのできない少女は、当然のごとく飲み食いもできず、繋がれた栄養剤の点滴も尽きて生死の淵をさ迷っていた。
あと少しでも警察が踏み込むのが遅ければ、少女の命はなかった。
しかし、幸運にも少女の命は繋がり、病院へと緊急搬送された。
そこで改めて治療され、栄養を点滴され、何とか持ち直すことに成功する。
「目が覚めましたか?」
少女が目を開けると、そこには一人の女性の姿があった。
ポティマス以外、画面越しにしか見たことのない他人の姿。
そして、ポティマスは少女とまともにコミュニケーションをとろうとしたことはなかったため、ほとんど生まれて初めて対話を求められているという状況だった。
「初めまして。私はサリエルです。あなたのお名前は?」
「ぁ……りえる?」
「アリエル? 奇遇ですね。私とそっくりな名前です」
少女はただ告げられた女性の名前を呟いただけだった。
しかし、弱った口から出た言葉が、本来の発音からずれ、それが聞いた者に別の意味で捉えられてしまった。
全ては偶然の産物。
しかし、元より名前のなかった少女は、その時名前をえることになった。
ただ生きて、そのうち死ぬ運命にあった少女は、そうして女神に出会った。




