軍団長の厄日
第一軍団長アーグナー視点
「エルフの動きはほぼ沈静化しております。儂との接触はいまだ続いておりますが、それも少なくなりつつあります。勘づかれたわけではなさそうですが、ここ最近の不穏な情勢を鑑みて、魔族領からの全面的な撤退も視野に入れた行動なのではないかと愚考いたします」
儂の報告に、目の前に座る魔王様は静かに頷く。
そして、茶の入ったカップをゆっくりと口元に運ぶ。
まずは香りを楽しみ、そして飲む。
表情は変わらないが、どうやら満足してもらえたようだ。
そのことに内心胸をなでおろす。
このお方は口にする物には並々ならぬこだわりがあるようで、下手なものを出すと後に何があるか分かったものではない。
未だにこの方が何者なのか、それはわからない。
本物の魔王がいる以上、この方は自称魔王でしかありえないのだが、その力量は本物をはるかに上回っていると言わざるを得ない。
儂は独自に諜報部隊を使い、このお方の素性を調べようと試みた。
が、結局その答えにはたどり着けなかった。
どうやら本物の魔王と知り合いであるらしいということまではわかり、今は魔王城の近くの屋敷に滞在しているらしい。
その屋敷もバルト殿の所有するもの。
新たな魔王の側近として働いているバルト殿の屋敷に宿泊しているという時点で、本物の魔王との繋がりはあるものとみて間違いなかろう。
しかし、それならば何故に儂と出会った時に、魔王を自称し、偽物の魔王の使者であるかのように振る舞ったのか?
わからん。
どうにも本物の魔王と敵対しているわけではなさそうだし、隠れて儂と接触することがどんなメリットを生み出すのか。
考えられるのは、エルフについてか。
本物の魔王にはエルフ関連で悟られたくない何かがあるのか?
仮にそれがあったとして、それはなんだ?
果たしてそれは、この方の弱みになるようなものか?
それが問題だ。
否。
たとえそれが弱みであろうと、儂が動くことはできぬな。
力の差がありすぎる。
こちらがいくら策を弄しようと、この方は力づくでねじ伏せられる。
そして、それを実行するのに躊躇はしないであろう。
儂のことなど道具程度にしか見ていない、それが態度で十分にわかってしまう。
「妙な気は起こさないでね?」
そう言われたのはいつだったか。
儂が心から忠誠を誓っているわけではないことを理解しての言葉。
そして、その言葉の後には、「面倒だから」という呟きが続いた。
儂が何かをしても、面倒、その程度にしか捉えられない。
魔族の重鎮として死力を尽くしてきた儂が、その程度の扱い。
怒りを通り越して逆に笑いそうになるわ。
この儂がただの道具扱いか。
事ここに至って、思い知らされる。
儂にはどうすることもできんと。
今まで積み上げてきたものが、一瞬で崩壊していく。
それを止めることが、儂にはできない。
この方はおそらく、世界に激動をもたらそうとしておる。
本物の魔王がかつてないほどの大戦を起こそうと画策しておるようだが、それすら霞む何かを起こそうとしておる。
それがなんであるのか、儂には皆目見当もつかんがな。
儂は今まで、摩耗した魔族を守るため、戦争を回避することに尽力してきた。
先代魔王様が雲隠れした際、チャンスだと思った。
勇者不在にして魔王不在。
このような好機、もはや訪れることはないと。
魔族は当時、戦争ができるような状態ではなかった。
それは人族にも言えることだっただろうが。
もしあの時、魔王も勇者も健在で、両者がぶつかっていたら、魔族と人族は共倒れになっていたかもしれん。
儂はボロボロになった魔族の立て直しのために奔走した。
それこそ、いけ好かないエルフの力すらも借りて。
奴らの大半は信用がならないが、中には本気で世界の平和を願っている者たちもいた。
利用しない手はなかった。
なりふり構っていられるような状況でもなかった。
そうして、ようやくある程度回復してきたところへ、新魔王が現れた。
かの魔王の目的は、魔族と人族を相争わせること。
そのための準備を着々と進めておる。
並の魔王であれば儂が秘密裏に打ち倒し、そのような暴挙を止めることもできたであろうが、新たに魔王となったものは最古の神獣とまで呼ばれる怪物。
勝てる道理はない。
そして、それすら超えるであろう、お方。
この方も本物の魔王が起こそうとしている戦争に関しては肯定的な様子。
儂にはどうあっても戦争の発生を回避する手立てはない。
なんのことはない。
儂は、戦う前から敗北しておったのだ。
儂の今までの努力はいったいなんであったのか?
戦争が起きれば、儂が積み重ねてきたものは音を立てて崩れ去る。
また魔族は追いつめられることになるだろう。
あるいは、儂の戦いは戦争が終わった後にこそあるのかもしれんな。
そうだな。
儂の命がある限りは、魔族の命運を絶やすわけにはいくまい。
容器の割れる音が響いた。
魔王様に視線を向けると、手にしていたカップを握りつぶしていた。
その目を開きながら。
「いかがなされましたか?」
何か粗相でもしてしまったか?
そう思い、内心の焦りを押し殺して問いかける。
魔王様の目の中の瞳が、忙しなく動き回る。
その中の一つが儂のことを見る。
それだけで、心臓を握りつぶされるかのような圧力を感じる。
「急用ができた」
魔王様は短くそれだけ言って、転移する。
その瞬間、抑えていた汗が滝のように流れ出す。
何が起きた?
あの方があれほど慌てるような事態が起きたのか?
すぐに部下を呼び、周囲の警戒を強めさせる。
それとともに、情報収集をさせる。
しかし、周囲に異常はなく、魔王様を慌てさせるような緊急を要するような情報も、結局得られなかった。




