第六節 翡翠の宝剣
サウレ・マーラ教団本部から〈沈黙の森〉を抜ければ帝都メネス。国王の居城は、その中央に鎮座する。
上空から見下ろす帝都は、眠るように静かだった。事実、健全な生活を送っている市民であれば、その大半が夢の世界にいる時間だ。
星空遊覧飛行を楽しむほどの余裕は、ナスターシアにはなかった。最初は突然羽が生えた同行者に混乱したが、今は目的地が近づいてきている緊張で胸がいっぱいになり、落ちないように目の前の胸にしがみつくので精一杯だった。
荘厳な白亜の城を目下に、クロウは迷うことなくある一点へと降りていく。
そこで、ナスターシアは急に不安になった。
「ねぇ、でもこんな夜中に突然伺っていいものなのかしら。やっぱり、ちゃんと正式な手順を踏んで……」
国王に会うにしても、お忍びで夜の私室に潜り込むなどは、あまり本意ではない。それでは、あまり『効果がない』のだ。
「問題ない。話なら通してある」
「え……?」
窓から忍び込んだクロウに連れられ、絨毯敷きの廊下を歩く。勝手知ったる様子で先へと進むクロウを、早足で追いかけた。
「どこへ行くの」
「決まっている。謁見の間だ。国王への拝謁だぞ。それがお前の望みだろう」
ナスターシアは驚いた。一体いつの間に、そこまで手配をしてくれたのか。
連れられた先は、この時間でも見張りの兵が左右に直立する巨大な両開きの扉だった。謁見の間。
クロウが、左側の衛兵に声をかける。
「クロウと〈翡翠の巫女〉が来た」
ぶっきらぼうな言葉に、しかし衛兵は一礼して扉を開けた。確かに話は通してあるらしい。
今思えば、先ほどの大鴉が伝書鳩代わりだったのかもしれない。
通された広間の奥に、数名の男が待機していた。
そのうちの何名かは、ナスターシアも知る顔だった。と言っても、実際に会ったことがあるわけではない。『見た』ことがあるだけだ。
右大臣ゼロス、騎士団長ランバート、魔道長官アスラン――もはや伝説に近い、戦乱の時代から王を支えてきた重臣たちだ。そして――
ずかずかと進んでいくクロウを見据える男達の中央に、一際異彩を放つ者がいた。
灰色の髪に、灰色の瞳。理性的な眼差しに落ち着いた物腰の、二十代後半の男。鋭利な刃物のような――それでいてしなやかな流水のような男性。
自然と胸が高鳴り、ナスターシアは背筋を伸ばした。
あふれ出そうな積年の思いを、この場では胸にしまい込む。ナスターシアにとっては命の恩人でも、激動の人生を歩んできた彼にとっては、きっと取るに足りない些細な出来事に過ぎない。それに、今は〈翡翠の巫女〉として王と相対している。
「久しぶりだな、旧友よ」
「よぅ、王様」
ゼインの呼び掛けに、軽く手を挙げて済ませるクロウ。
とても国王に対する態度とは思えない。王は玉座には座らず、夜着の上にローブを羽織った姿で腕を組んだ。
「こんな夜中に急な呼び出しをかけるとは、お前は私を誰だと思っているんだ?」
「だから、王様だろ?」
王がため息をつく。クロウが森の奥で隠者などやってる理由を垣間見た気がする。相手が小娘だろうが衛兵だろうが王様だろうが、同じ態度で接するこの男は、階級社会ではやっていけない。むしろ王様相手の時の方がより態度が悪いように見えるのは、彼らが悪友関係にあるからだろうか。
「相変わらずのようだな。まあ、顔が見られただけでもよしとしよう。して、用件は? かの〈翡翠の巫女〉が私に予言を授けるとのことだが、教皇を通してでは伝えられない言葉かね?」
ゼインの目がナスターシアを捉える。探るような視線に、否が応でも心臓が早鐘を打った。
非礼にならないだけの距離を保ち、ナスターシアは膝を折り、頭を低くする最敬礼をとった。
ずっと憧れた人。〈祈りの塔〉の中で、ずっと見ていた。
(私は……この人のために何か出来ればと、ずっと思っていた)
それがこんな形でしかないことが酷く情けなく、哀しかったが、ここまで来て逃げるわけにはいかない。
祈りの形に組んだ手に〈翡翠の宝剣〉を握り、ナスターシアは用意した『予言』を口にした。
「現教皇が、私の力を利用して、王を殺そうとしています」
唐突な言葉に、その場に居た全員がぎょっとした。王も、クロウも含め。
「王は今、建国以前の旧帝貴族の粛正を進めておいでですね」
水面下の政に関する指摘に右大臣ゼロスが眉を上げたが、王は無反応だった。
「当然これに対する反発は予想していらっしゃるでしょう」
「無論だ。改革に反発はつきものだ。だが、何事も進めねば始まらぬ」
「おっしゃるとおりです。しかし、この不満分子に教団がいらぬ風を吹き込むとしたら?」
「なに?」
「〈翡翠の巫女〉が、旧帝貴族門閥に対する現王の厳格に過ぎる粛正を予言し、一門の滅亡を示唆したとしたら、どうなるでしょう」
「クーデターを引き起こそうとでもいうのか? 馬鹿な……」
ゼロスが反駁した。
「そして、宮廷内の不穏な動きについて、〈翡翠の巫女〉が国王に予言を申し奉れば、どうなるでしょう。そしてそれらの全てが、何らかの意図をもった虚言であったとしたら」
「内乱? 共倒れでも狙ってるってのか」
隣にいたクロウが眉根を寄せる。
占星術では、半年後の気候を星の動きで読めても、人の心の裏――その謀略の先に引き起こされる未来までは予知出来ない。
なぜなら未来は幾筋の道を持つ。ナスターシアは、その道の先を幻視し、最も『マシ』な道を選ぶよう示唆するだけに過ぎない。しかし、選ぶだけでは変えられない未来もある。どのような道を選ぼうとも、同じ結果へと辿り着く濁流のような未来も、そこにはあるのだ。
(それが悲劇でしかないのなら、私は、その根本を絶つ)
それが己に出来る唯一の、最善の策。
「そして、権力争いによる中央の混乱に不安を煽られる民衆に、〈翡翠の巫女〉が教団の指し示す幸福な未来を予言すれば、どうなるでしょう」
その言葉に、その場に居る賢臣たちは全てを悟った。無論、賢王も。
教団は――王と有力貴族達を骨肉の権力争いにより屠り、その権威と太陽神サウレの御心を傘に着て、国と民を支配するつもりだ。
この十年間での教団の腐敗を、ナスターシアは誰よりも身に染みて知っている。
そして神の使徒であるはずの彼らの腐敗を早めたのが、己自身であることも。
ナスターシアは〈翡翠の宝剣〉を胸元で握りしめ、震える声を絞り出した。
「……私はこの力を、多くの人のために使ってきたつもりでした。……より平和な、幸福な未来のために」
それまで理性的に告げることの出来ていた『予言』とは打って変わり、感情に押し流されそうになる。喉元に込み上げる熱を抑え込み、ナスターシアは続けた。
「けれど、それは間違いだったのかもしれない。こんな力は――〈翡翠の巫女〉は、いらなかったのかもしれない」
それが、ナスターシアが出した結論だった。
〈翡翠の巫女〉が誕生してから十年。教団はあらゆる奇跡を起こしすぎた。〈翡翠の巫女〉の名は、言葉は、大きくなり過ぎたのだ。
人に過ぎたる力は、人の力で動かすべき国家すら簡単に揺さぶる。
「私がいる限り、教団は〈翡翠の巫女〉を利用し続けるでしょう。教団と共にある限り、私の言葉は教団の言葉とすり替わる。だから、私は〈塔〉を出奔し、王に会いに来たのです――王の手によって、この公の場で、偽りの予言で国を滅ぼそうとした魔女として、私を処刑して頂くために」