第四節 見えない未来
ナスターシアが眠っていたのは、ほんの一、二時間だったらしい。
まだ明るい空を見上げ、太陽の傾き加減からそう判断する。
歩けるようになったナスターシアは、治療を終えてさっさと寝台に戻ってしまったクロウを残して部屋を出た。
クロウの家は、屋敷というよりも宮殿といった方が正しかった。広大な敷地に、回廊でいくつもの建物が繋がっている。何も同じ部屋で寝なくても、部屋なら幾らでもあった気がしてならない。しかし人気は全くなく、クロウ以外に人が住んでいる様子はなかった。
(こんな大きな家で、一人で住んでどうするのかしら)
寂しくないのだろうか。
ナスターシアは決して広いとはいえない〈塔〉の一部屋で人生の大半を過ごしてきたが、とても寂しかった。
寂しいから未来を見て、今を知った。そうやって、気が付けば『彼』を見ていた。一方的にだが彼を知ることで、寂しさを埋めていた。彼のために、何かをしたいと思った。
半日を宮の探索に費やし、日が暮れるのを待ったナスターシアは中庭に出た。
月明かりと星天井。虫の鈴音すら聞こえる静謐な空間。
ナスターシアは目をつぶり、精神を集中させた。『視る』には最適な環境だ。
未来を視る時、ナスターシアはいつも川の上流にいる。正確には、そこで視点が固定されていて、振り返ることは出来ない。
ナスターシアは〈現在〉よりも上流――〈過去〉を視ることは出来ない。
そのことを疑問に感じることはなかった。そういうものだと理解して、ナスターシアはいつものように精神を時の上流へと向けた。
(……え……?)
未来が、見えなかった。
(どういうこと?)
正確には、目の前に時の流れは見える。それはいつもと変わらない光景だった。だが――
(『今』から繋がる道が見つからない――?)
クロウと出会い、彼の住む宮殿にいる。この現在の選択肢から派生する未来が存在しないのだ。
まるで、今この空間だけが、時の流れからすっぽり抜け落ちてしまったように。
(何故)
ナスターシアは、クロウとの出会いを予測出来なかった。
あれだけ何度も未来を見定め、道を選んだにも関わらずだ。
その時点で、クロウと出会う未来は、ナスターシアが視る未来には存在しなかったのだ。
(未来が……見えない……)
ナスターシアは呆然とした。目の前に、夜の中庭の光景が戻ってくる。
たった一つの希望の光であり、ナスターシアにとって唯一『出来ること』だった未来可視の力が、失われている。
(どうしよう……!)
何があっても泣かない、と〈塔〉を出る時に決意したのだが、胸の奥からこみ上げる失望と焦燥に、鼻の奥がツンと熱くなる。
潤みかけた目を閉じ、ナスターシアは頭を振った。
「いつまでそこにいる。この時期の森は冷えるぞ」
声をかけられ、慌てて振り返ると、回廊の柱にクロウがもたれていた。
黒い服に黒いマント、漆黒の髪。闇よりも暗い彼の姿は、月光の差し込む石造りの回廊を背景に、逆に際立って見えた。
「あ、あなたこそ……!」
泣きそうになっていたのを誤魔化すため、ナスターシアは顔を背けて強気に言い返した。
「俺はあいつを待っているだけだ」
「あいつ……?」
クロウの視線が、ナスターシアから上空に移る。すると、いつか聞いたような羽ばたきが聞こえた。
音に誘われて空を仰ぐと、翼を広げた黒いシルエットが滑空する様が目に映る。
それは瞬きの間に一羽の巨大な烏の姿となり、虚空に伸ばされたクロウの腕に止まった。
「そうか」
その巨体を感じさせない静けさで青年の片腕に降り立った烏が鳴くことはなかったが、クロウは小さく頷いた。
驚きに涙も混乱も引っ込んだナスターシアは、一歩、クロウと烏に近づこうとした。
すると、ナスターシアに首を向け、鋭いくちばしを開いて大烏が一声鳴いた。思わず足をとめたナスターシアの目の前を、ゆうに大人の身長を超えようかという両翼を広げ、飛び立つ。
呆気に取られ、ナスターシアはその後姿を見送った。大鴉の美しい羽が、月光を浴びて輝いている。思わず後を追いかけてしまいそうになるその勇壮な姿に、ナスターシアはこの地方に残る伝承を思い出した。
〈沈黙の森〉には、時の門が存在する。
そして、その〈時の門〉を守護するのが、〈時の番人〉だ。
時を司り、時を守り、時を操る存在――時の門の番人。
「鴉――時の番人の化身ね。星を読み、時を操るとまで言われた賢者にピッタリ……本当に、あなた〈時の番人〉じゃないの?」
〈時読みの賢者〉という呼び名が、この地に隠居した高名な賢者を、この伝承になぞらえたものであるのは明らかだ。
ナスターシアの冗談めかした問いかけに、クロウは答えない。
代わりに、その黒曜石の瞳をじっと星空に投げかけた。その横顔に月の陰影がかかり、この青年の存在を、より一層謎めいたものに見せる。
「――南の星が割れている。次の夏は酷い冷夏になる。今から穀物の貯蓄と流通の調整を進言してやれ。放っておけば物価が高騰し、冬には餓死者が増加する」
何ともないように言われた言葉に思わず天を仰ぎ見る。澄み切った冬の星空が広がっていたが、満天の星々の中のどの星を指しているのか、ナスターシアには分からなかった。
「……まあこのくらいのことは、お前でも時期が近くなれば見えるか」
「……近くなってからでは手遅れなこともあるわ」
占星術は、天候や災害、国家の大局などを読むのに有効だ。ナスターシアの未来可視は、人の目と同じで、近いところは細かく見えるが、遠いところはおぼろげにしか見えない。そして、未来はいくつもに枝分かれしているので、その先は選ぶ未来によって大きく異なる場合がある。言うなれば占星術は結果を見るが、未来可視は過程を見る。使い方次第ということだ。
「あなたは、なぜこんなところに引きこもって暮らしているの?」
それは純粋な疑問だった。出過ぎた真似だとは分かっているが、言葉がついて出る。
「戦乱の時代に、王の参謀と呼ばれたあなたが――この大陸を、一つの国家へと導いたあなたが……それだけの能力を持ちながら、なぜ王と民のために使おうとしないの?」
この質問は、やはり彼にとって愉快なものではないらしい。拗ねたような目つきに鋭さが増し、固い声が返ってくる。
「俺はゼインの家臣じゃない。なぜあいつの為に働かなきゃならん」
「あの方は素晴らしい方よ」
「お前を助けたからか?」
「違うわ。いえ、勿論それもあるけれど、それだけじゃない」
ナスターシアはかぶりを振った。
「私は未来を見、今を知ることが出来る。私はこの国の未来のため、この国の命運を握るあの方を最も多く見てきた」
初めは仕事のため、国のために見ていた。
いつしか、それ以上の敬愛の念を持って彼を見守っていた。見守ることしか出来なかった。
「あの方は、心から民と国を思い――そしてその思いを実現する、情熱と力を持っている。あれだけの王はこれから先、永く出ては来ないでしょう。だからこそ、今の若い王の治世の間に、より多くの財産を残しておかなければいけない。あ、これはお金っていう意味だけじゃないから」
「分かっている。全ての分野において、後世に残せるだけの地盤を作っておけということだろう」
頷き、クロウはクッと喉で笑った。少し人の悪い笑みだった。
「お前は巫女などやめて政治家になるべきだ」
皮肉なのか賞賛なのか迷うところだ。
「その国を思う情熱はゼインにもゼロスにも劣らない」
「そうね、生まれ変わったら……彼らのように、なんて言わない。少しでもいいから、国のために何かが出来る人間になりたいわ」
瞳を曇らせたナスターシアに、クロウが意外そうな顔をした。
「今までも、お前は多くのことに貢献しているだろう」
「そうかしら?」
「ここ十年で、教団の威光がここまで大きくなったのはお前の存在が大きい。サウレ・マーラ教の道徳的な教えは、どんな法律よりも効率的に人々の秩序を維持する」
クロウの言葉は正しかった。だがその正しさは、今はナスターシアの心を曇らせるだけだった。
帝国と教団が協力し合って民を導いてきたからこそ、建国十年という短い時間で、今の安定した治世を築けているのは事実だ。
だが、今は――これからは――
黙り込んでしまったナスターシアの表情に何を思ったか、クロウがため息をついた。
「仕方がない。あいつに会わせてやる」
意外な言葉に顔を上げる。願ってもない話だ。未来が見えない今、ナスターシアが一人で王の元に辿り着くのは難しい。
青年は、相変わらず無愛想に言った。
「会わせるだけだ。後は知らない。何も協力しない」
「結構よ。いえ、むしろ――」
――その方が、『都合が良い』
最後の言葉を飲み込み、ナスターシアは他人の善意を利用する己の罪深さを懺悔した。