第二節 時読みの賢者
ナスターシアが目を覚ますと、そこは見慣れた〈塔〉の私室ではなかった。
やわらかい寝台の感触に、うっすらと重い瞼を上げる。
(そうだ……私、〈塔〉を逃げ出してきたんだ)
「あの人のために……」
「誰だ? あの人とは」
「……!」
声はすぐ近くで聞こえた。驚きに声の出ないナスターシアの目の前で、漆黒の瞳が二度瞬いた。
「っきゃぁぁぁ!? 何!? なんであなたここにいるのよ!」
「五月蠅い女だ。ここは俺の宮で、俺の部屋だ。むしろお前がここにいる正当性の方が薄いと思うが」
飛び起きたナスターシアの悲鳴に、男が眉をひそめて反論する。
相手の言葉はもっともだったが、状況が状況なだけにナスターシアは引かなかった。目が覚めたら、すぐ隣にほとんど知らない男が寝ていたのだ。
「ふ、普通、意識のない女の子と同じ寝台で寝る?! そこは遠慮してせめて床で寝るとかするでしょう?!」
「お前が押しかけてきたのに、なぜ俺が床で寝なければならん。寝台で寝かせてやっただけでも、むしろ感謝して欲しいくらいだ」
「こんな目覚め方するくらいなら、床の方がマシだったわ! な、何もしてないわよね……?」
「何をだ?」
「何でもないわ」
素で聞き返してくる相手にこちらが恥ずかしくなり、ナスターシアは背を向けた。急いで寝台から降りようとすると、十七、八歳程の少女の姿が目に入った。それは大きな姿見の鏡に映った、己の姿だった。
「ひどい姿……」
長い金の髪はほつれ、手足は擦り傷だらけ、白い巫女装束はあちこち破れて泥だらけだ。
翡翠色の瞳に淡い落胆が映った。〈翡翠の巫女〉――そう崇められていても、〈塔〉を出た自分はこんなにも無力な少女だ。いや、〈翡翠の巫女〉であった時すら、自分は誰かの役に立てたのだろうか――
そう気持ちが沈んだ時、ナスターシアは、己がそんな小汚い姿で他人の寝台を占拠していたことに気付いた。一気に顔に血が上り、先ほど怒鳴ってしまった相手に頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 私こんな汚い格好で……立派な寝台を汚してしまって……」
その部屋は、一言で表すと豪奢だった。天蓋付きのベッドは、大の男が三人ぐらい転がってもまだ余裕がありそうだ。高い天井には、目にも目映いシャンデリア。ナスターシアの姿を映す巨大な姿見も、縁に精巧な細工が施してあり、価値ある品と見えた。
(ここ……〈沈黙の森〉の中よね? こんな立派なお屋敷があったなんて……)
驚きを隠せないナスターシアの謝罪を、男は聞いていないようだった。横になったまま、眠そうな目が、黙ってナスターシアの様子を見つめている。
「そうだ、剣……!」
「そこにある。それはそんなに大事なものなのか?」
手元に短剣がないことに気付き焦るナスターシアに、男は寝台横の棚を顎で指した。
すぐさま棚の上に置かれた宝剣を握りしめ、ナスターシアは、背中で聞いたその台詞に身を固くした。
〈翡翠の宝剣〉は〈翡翠の巫女〉の象徴だ。だが、その存在を知らない彼が、何を根拠に彼女を〈翡翠の巫女〉と見抜いたのか。
黙り込んだナスターシアの反応をどう受け取ったのか、男は質問を変えた。
「んなことより、なんだって〈翡翠の巫女〉がこんなところに? 教団外の人間が接触し、巫女の力を悪用しないよう、サウレ・マーラ正教会の〈祈りの塔〉で俗界から隔絶した生活を送っていると聞いたが……まさか抜け出してきたのか?」
「…………」
返事の代わりに、ナスターシアは〈翡翠の宝剣〉をぎゅっと握りしめた。
「なぜ、私が〈翡翠の巫女〉だと……?」
「気」
「気?」
「『天を見、地を悟る者』未来を幻視し、現在を知ることの出来る力を持つのが〈翡翠の巫女〉だ。時に干渉する気を持つ人間はそういない。すぐに分かる」
「言っている意味がよく分からないけど……あなたは何者なの?」
「お前はまだ俺の質問に一度も答えていない」
のらりくらりと交わしていたことを真正面から指摘され、ナスターシアは口をつぐんだ。
寝台に寝転がったまま真っ直ぐに見つめてくる瞳は、不思議な色を帯びていて、睨み合っていると飲み込まれそうになる。少し拗ねたような目つきの青年は、改めて見ると、初見の印象よりも幼く感じた。ともすれば、ナスターシアと同じくらいの年頃に見える。
「会わなければいけない人がいるの」
男の言う通り、〈翡翠の巫女〉であるナスターシアには未来予知の力がある。その特殊な力故、サウレ・マーラ教団はナスターシアを軟禁に近い形で厳重に保護し、教団の権威を高める道具として使ってきた。〈祈りの塔〉に住む時を知る巫女の話は、今やパン屋の子供でも知ってる。
だがそんなナスターシアが、〈塔〉の監視をかいくぐり、外の世界へと逃げてきたのには理由がある。
「誰に」
「我らが王――アウセクリス帝国のゼイン国王に」
途端、男の眉が跳ね上がった――かと思うと、すぐに眉間に皺が寄り、嫌なことを思い出すように口を尖らした。
「あーあー、ゼイン。あいつねー。あの四六時中カッコつけたいけ好かない野郎か。なんだ、お前あんなヤツに会いたいのか」
「知ってるの!?」
「まぁ、古い知り合いっつーか。昔はあいつも色々やんちゃしてたから、その時つるんでたよーな、いないよーな」
どうにも曖昧で適当な答えが返ってくる。なんだか急に言葉が砕けている。
「あなた……まさか本当に、〈時読みの賢者〉様!?」
「時読みの賢者? 何だソレ」
先ほどから疑っていたことを口にすると、ようやく身を起こした男が、初耳というように首を傾げた。
「ゼイン国王がアウセクリス帝国建国の折りに率いた、優秀な臣下の一人よ! 現帝国騎士団長ランバート。右大臣ゼロス。魔道長官アスラン。そして、今でも王を支える重臣である彼らとは違い、王の戴冠と同時にその役目を終えたように姿を消し、〈沈黙の森〉に隠居しているという〈時読みの賢者〉」
「臣下ぁ? 俺がいつアイツの家来になったってんだよ」
「やっぱり!」
思わず不服そうに声を上げた男が、「あ」と口を押さえた。
「でも、あなたどう見ても私と同じくらいよね? もしかして本当はものすごいおじいさんで、若い男の皮を剥がして被ってるとか……ひぃ~っ」
「なに人をモンスター扱いしてんだ! 俺はこう見えても二十七だ! 今の国王と同い年だ!」
「二十七!? なんて若作りなのっ!」
「誰が若作りだ! こういう体質なんだよ!」
「体質……?」
聞き返した言葉は聞き流されたらしい。
「王に会ってどうする?」
先ほどより真剣な表情で賢者が問うた。ナスターシアも、慎重に答えた。
「……伝えたいことがあるの。この国にとって、とても大切なことよ」
「〈翡翠の巫女〉として? ならば、教皇を通して上奏すればいいだろう」
〈翡翠の巫女〉は〈塔〉を出ることは叶わない。彼女の言葉は、全て教団を通して外へと伝えられる。逆に言えば、教団にとって都合の悪い予言は伝えられないと言うことだ。
「ダメよ、これは私が直接伝えなければいけないことなの。お願い、賢者様! ゼイン王に会わせて!」
ゼイン国王と旧知の仲にある〈時読みの賢者〉と出会えたことは、天の導きだ。ナスターシアはサウレ神に感謝した。
「賢者様じゃない。クロウだ」
クロウは、少し考えるようにしてからナスターシアを見据えた。
「巫女、お前は俺を誰だと聞いたな。未来を知るお前でも、俺の存在は知らなかったのか」
「ナスターシアよ。ええ、そういえば……そうね」
彼と出会った時は無我夢中で、考えるより先に行動を起こしていたが――ナスターシアの見た未来に、クロウとの出会いはなかった。
あの不思議な羽音と共に彼に出会ったとき、何か一本の線を踏み抜けた気がした。まるでナスターシアのいる世界と切り離された、別の空間へと移ったような。
そこで、クロウは話題を変えた。ぷいっと、子供のようにそっぽ向くと、
「俺は別にあいつに会いたくない」
「そんな!」
あっさり背中を向けてまた寝転がってしまう。
「約束通り、一時的にお前を匿った。今日一日はここにいてもいい。好きにしろ」
そう言ったきり黙ってしまった背中にかける言葉が見つからず、ナスターシアは小さく息を吐いた。
「分かったわよ……あなたに頼らなくても、私はちゃんと……痛っ!」
見栄を切り、大股で歩き出そうと一歩を踏み出したところで激痛が走り、ナスターシアはその場にうずくまった。
見ると、先ほど――といってもどれくらい前なのか分からないが――痛めた左の足首が、赤く腫れあがっていた。
巫女や神官といった聖職者の中には魔力を持ち、治癒術を使える者も多いが、ナスターシアにはその適性がなかった。未来可視の力がなければ、本当にただの人間だ。
先ほどから押しては引いて、また押してくる、己の無力さに対する失望と苛立ちの波を振り払う。
(もう一度、『見直さないと』……)
この現状は、ナスターシアの見た選択肢のどこにもなかったものだ。
どこからか、予定が『狂って』いる。