第一節 逃げ出した巫女
ナスターシアは逃げていた。
深まる森の中を、もつれる足で駆ける。
純白の巫女装束は、不慣れな逃亡劇には適さなかった。長い裾が枝に引っかかり嫌な音がしたが、構わず進むと、今度は土の柔らかい部分に足がはまり白い靴を汚す。
よろめきながら前に進み、ナスターシアは汗をぬぐった。足は休めないまま、昼なお暗い樹海に目を走らせる。
今のところ、まだ追手の姿は見当たらない。
暦の上ではもう冬を迎えたはずだが、辺りを覆う木々は、暗緑の枝葉を互いに絡ませ、薄暗く奥深い〈沈黙の森〉を形成していた。
「ダメ……! 今捕まっては……!」
息が上がり、足取りが鈍りそうになる自身を叱咤する。少しでも歩を緩めれば、捕まるのは『見えて』いた。
(このまま、この森を抜けきれば『大丈夫』)
そう言い聞かせる。だが、走ることに慣れていない身体はすでに限界に近づいていた。
「サウレの神よ。もう少しだけ、私にご加護を!」
太陽神サウレ。サウレ・マーラ教において、最高神と位置付けられる豊穣の神。
教団を出奔しても、決して神を裏切ったわけではない。ナスターシアは祈った。胸に抱いた〈翡翠の宝剣〉を握りしめる。白い鞘に収められた短剣は、彼女が〈塔〉から唯一持ち出した物だ。
「きゃっ……!」
地面から浮きあがっていた木の根が罠のように足に絡み、ナスターシアは前のめりに大地に転がった。反射的に地についた掌が痛んだが、ナスターシアは慌てて身を起こし、転んだ拍子に取り落とした剣を探した。
己の身と同じか――あるいはそれ以上に大切なものだ。
地面に這いつくばるようにして必死に探し物を求めると、前方の繁みに輝きが見えた。
「……痛っ!」
直ぐさま立ち上がろうとしたところで、左足首に走った激痛に顔を歪める。先ほどの転倒で痛めたらしい。
「こんなの……っ」
これから『起こる』ことを思えば、この程度の痛みはたいしたものではない。そう気持ちは猛っても、疲労困憊した身体は思うように動かず、ナスターシアは文字通り地を這って、その輝きに手を伸ばした。
指先に触れた柄を必死に手繰り寄せる。握りしめた瞬間、安堵感が全身を襲った。
――その時、ざわりと背筋が泡だった。
一瞬、「何か」を踏み越えたような気がした。
「お前、〈翡翠の巫女〉か」
「誰!?」
背後から聞こえた声に、振り返る。だが、誰もいない。
「ここだ」
その声は上の方から聞こえ、ナスターシアは目線を上げた。
バサリ、と大きな羽音がしたが、鳥の姿はどこにもなかった。代わりに、木の上から一人の男の顔が覗いた。
黒髪に、黒い瞳。まだ若い――二十歳程の青年だ。
その男は、まるで猫のように、だらしなく太い枝の上に寝そべっていた。
唐突に現れた男に、ナスターシアは目を瞬かせた。いや、それよりも――彼は今、ナスターシアを〈翡翠の巫女〉と呼んだ。
「どうして私のことを――」
問いかけながら、手の内の短剣の存在に気付く。握りしめたそれは、鞘が抜け落ち翠色の刀身が剥き出しになっていた。
彼女が〈翡翠の巫女〉である唯一にして絶対の証明であるその宝剣を見て、男がそう判断したとしても不思議はなかった。だがそれ以上に、鞘がなくなっていることに対して、ナスターシアは青ざめた。
「鞘! どうしよう、鞘が……!」
「落ち着け。そこに落ちている」
男が指さしたのは、彼が登っている樹の真下だった。
見ると、白い鞘が隆起した太い根に埋もれるように転がっている。
ナスターシアは足の痛みも忘れ、転がるよう鞘に飛びついた。
「良かった……! ありがとう!! あなた名前は?」
感激して顔を上げると、目の前に黒い布が垂れ下がっていた。ナスターシアは閃いた。
「この〈沈黙の森〉に入って俺の名を聞くとはおかしな女だ。俺はクロウ――」
「分かったわクロウ! 私を匿って!」
「おわっ!?」
皆まで聞く前に、だらりとぶら下がっていた男のマントの裾を、思いっきり引っ張る。鈍い音を立てて落ちた男を木の陰に引きずり込んだ。
「アナタのお家はどこ!? この森の人なんでしょう? 少しの間だけでいいの、お願い匿って!」
「お家!? 確かに俺はこの森の住人だが……というか俺は……」
「おいっ! こっちだ、足跡が――」
よく響く男の声と複数の足音に、二人は同時に息を飲んだ。
ナスターシアは祈った。己の唯一の存在証明である、〈翡翠の宝剣〉を抱きしめる。
考えるような沈黙の後、男は口を開いた。
「……分かった。〈翡翠の巫女〉、我が宮に案内しよう」
そう言った青年の腕に強く抱きすくめられた。バサリ、とやはり大きな鳥のような羽音がし、その瞬間、ナスターシアの意識は暗転した。
翡翠の巫女――『天を見、地を悟る者』彼女はそう呼ばれた。
ナスターシアは最初から奇跡の子などではなかった。
十年前、彼女は奇跡と出会い、そして大きく人生を揺さぶられた。いや、生まれ変わったといってもいい。ナスターシアはあの時、死んでいたはずなのだから。
「おい! 子供だ! まだ息がある!」
誰かの声。力強い腕に抱かれ、目を開くと視界に灰色の髪が流れ込んだ。見覚えのない若い男が、必死の形相で何事かを叫んでいる。
「あの転倒事故で生存者が……奇跡だ」周囲がざわめいた。
奇跡の子、と呼ばれた。十年前まで、ナスターシアは何の変哲もない田舎貴族の娘で、休暇に家族で馬車で遠出をしていた。
まだ戦乱の収束直後で、治安の悪かった時代だ。山賊に襲われての悲惨な転倒事故。
恐慌した馬が暴走し、横倒しになった馬車から放り出された家族は、山間の崖を転がり落ちた。
両親も幼かった弟も死んだ。ナスターシアは奇跡的に軽傷で済み、その時通りがかった騎士団の一行に助けられ、教会に保護された。
何から何までが幸運だった。
そして、その日からナスターシアは不思議な力を手に入れたのだ。
未来を見る力を。