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『「君は察しがいいから助かる」と浮気相手を隠す婚約者へ。察しのいい私は、婚約解消の違約金請求書を先に回しておきました』

掲載日:2026/10/14

「君は本当に察しがいいから助かるよ。余計な詮索もしないし、聞き分けが良くて実に楽だ」


陽光が柔らかく降り注ぐガゼボで、婚約者であるジュリアン・ランベール伯爵令息は、優雅に紅茶のカップを傾けながらそう言った。その甘やかな美貌には、いささかのやましさも浮かんでいない。純粋な称賛と、それ以上の侮蔑的な安堵だけが張り付いていた。


私――エレノア・クロムウェル男爵令嬢は、静かに伏せていた睫毛を持ち上げ、完璧な角度の微笑みを返した。


「恐れ入りますわ、ジュリアン様。貴方のお役に立てているのなら、何よりです」


「ああ、最高だよ。君なら将来、立派な伯爵夫人としてランベール家を陰から支えてくれる。……ああ、そうだ。例の『慈善活動』だがね、あの子――リリィは本当に身寄りがなくて気の毒なんだ。今日も少しばかり支援物資を届けてやらねばならなくてね。今夜の観劇は延期にしてくれないか?」


リリィ。

下町の裏路地で見初めたという、亜麻色の髪をした可憐な平民の少女。

ジュリアンは彼女を「貴族としての責務たる慈善活動の対象」と呼び、郊外に小さな屋敷をあてがって囲っていた。上等な絹のドレスを着せ、宝石を買い与え、週の半分をその屋敷で過ごしている。社交界の誰もが気づき、嘲笑混じりに囁き合っている公然の秘密を、当のジュリアンだけが「完璧に隠せている」と思い込んでいた。


そして何より、婚約者である私が何も言わないのを、「自分の浮気を寛大にも受け入れている、都合のいい従順さ」だと信じ切っているのだ。


「ええ、もちろんでございます。困っている方を救うのは名門貴族の務めですもの。どうぞ、リリィさんのもとへ行ってさしあげてくださいませ」


「ありがとう、エレノア。君のような分別のある女性を婚約者に持てて、僕は本当に幸運だ」


ジュリアンは私の手背に軽く口づけを落とすと、浮き足立った足取りで立ち去っていった。その背中を見送りながら、私は懐から取り出した絹のハンカチで、彼が唇を触れた箇所を一切の感情を交えずに拭った。


「ええ、本当に。私、とても『察し』がいいのです」


冷めかけたアールグレイの香りを吸い込みながら、私は小さく呟いた。

彼の言う通り、私は察しが良すぎた。だからこそ、すべてを理解していたのだ。


彼が次にリリィへ何を贈りたがるか。

逢瀬のためにどの辻馬車を手配し、どの宝石商に裏口から注文を入れているか。

そして――それらの豪奢な貢ぎ物を賄うために、ランベール伯爵家の領地運営費や、彼が管理を任されていた王立慈善財団の公金を、どこからどれだけ不正に横領しているかまで。


私はクロムウェル男爵家の娘だ。我が家は実直な会計監査と法務を代々担ってきた家系であり、私もまた幼少期から数字の裏にある「金の流れ」を読み解く教育を受けて育っている。


愚かなジュリアンは知らなかったのだ。私が黙っていたのは、耐え忍んでいたからでも、彼を愛するあまり盲目になっていたからでもない。


ただ、「一撃で確実に息の根を止めるための帳簿」を、淡々と完成させていただけだということを。


***


それからの三ヶ月間、私はさらに「察しのいい婚約者」を演じ抜いた。


ジュリアンが「少しばかり出費が嵩んで金策に困っている」と遠回しに愚痴をこぼせば、「まあ、大変ですね。領地の帳簿を見直されてはいかがですか」と優しく微笑み、彼が横領の偽装に使う帳簿の控えを、寸分違わず裏で写し取った。


馴染みの宝石商を裏庭に呼び寄せた日もそうだ。商人が恐縮しながら差し出した納品伝票の束を一瞥するなり、私はペン先で特定の二行を軽く叩いてみせた。

『馬車馬用の飼料費および馬具修繕費――二百万ダカット。ずいぶんと金糸で縫い取られた贅沢な飼料袋ですこと。先月、裏通りの宝飾店にジュリアン様が特注なさった、リリィさん向けのサファイアの首飾りの請求額と、一桁の端数に至るまで完全に一致しておりますわね』

青ざめる商人は、それ以上の一言も発せぬまま、二重帳簿の実態と正規の納品書控えを私の前に差し出すしかなかった。


彼は私を評して「余計な詮索をしない最高の女」と友人たちに自慢していたらしい。

詮索などする必要がなかったのだ。彼が残す足跡があまりに泥だらけで、辿るまでもなく証拠が向こうから転がり込んできたのだから。


集めた証拠は、美しく装丁された三冊の革表紙のファイルへとまとめられた。

一冊目は、ランベール伯爵家当主――ジュリアンの父へ。

二冊目は、王立財団の首席監査官へ。

そして三冊目は、我がクロムウェル男爵家の顧問弁護士へと、すでに手際よく届けられていた。


準備は、あまりに完璧に整っていた。


***


季節は巡り、秋の夜。

王城の大広間では、貴族たちが一堂に会する華やかな秋季合同夜会が開かれていた。シャンデリアの煌めく光の下、着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑している。


群青色の豪奢な燕尾服をまとったジュリアンが、上機嫌で私の元へと歩み寄ってきた。今夜の彼はどこか誇らしげで、胸元にはリリィとお揃いで誂えたという特注のラピスラズリのタイピンが輝いている。


「エレノア、今夜の君は一段と美しいよ」


「ありがとうございます、ジュリアン様。今宵も格別のお召し物ですこと」


私が会釈をすると、ジュリアンは自慢げに顎を上げた。そして、周囲の貴族たちにも聞こえるような通る声で、芝居がかった調子で切り出した。


「実はね、エレノア。父上とも話して、決めたんだ。僕たちの結婚式の日程を、来春から今年の冬へと前倒しにしようと思う」


周囲から「まあ」「おめでとうございます」とささやかな歓声と拍手が上がった。

ジュリアンは満足そうに微笑み、私の手を取ろうとする。


「君の献身的な態度にはいつも感謝している。君なら素晴らしい妻になるし、我が家の財政管理も安心して任せられると確信したよ。式の準備は色々と大変だろうが……まあ、君は察しがいいから、僕が言わなくても滞りなく進めてくれるだろう?」


彼の言いたいことは、痛いほどによく分かった。

財団の監査が怪しくなってきたため、我が家の持参金と、私の実務能力をいち早く手元に引き入れ、自らの不正の穴埋めをさせようという算段だ。父上と話したというのも、都合よく名前を騙っているだけに過ぎない。どこまでも浅ましい男だった。


私は差し出されたその手を、手袋越しに指先一つ触れさせず、静かに身を引いて躱した。


「ええ、ジュリアン様。お察しの通りですわ」


広間のざわめきが、ふっと凪いだ。

ジュリアンが怪訝そうに眉を寄せる。


「……エレノア?」


「察しのいい私は、貴方が次に何を言い出すか、そして何を求めていらっしゃるか、すべてお見通しでございました。ですから――準備は、すでにすべて完了しております」


私は背後に控えていた侍女から、漆黒の革張りのフォルダを受け取った。そして、迷いのない所作でそれをジュリアンの胸元へと差し出した。


「な、何だねこれは? 式の招待客リストか?」


「いいえ。婚約破棄通告書、ならびに我がクロムウェル家から貴方個人、およびランベール伯爵家に対する『違約金および損害賠償請求書』です」


大広間の空気が、一瞬にして凍りついた。

ジュリアンの顔から血の気が引いていく。


「は……? な、何を言っているんだ君は。破談だと……!? 違約金!?」


「どうぞ、お確かめになって。貴方が『慈善活動』と称して囲っていらした平民のリリィさんへの贈与記録、郊外の屋敷の賃貸契約書、さらにはその資金源となった財団からの公金横領および領地会計の改ざん記録……そのすべてをまとめた監査証明書を添付しております」


広間を取り巻く貴族たちの間に、激しい動揺とささやき声が波のように広がっていく。ジュリアンは取り乱したように首を振り、口元を引きつらせて書類を突き返そうとした。


「で、出鱈目だ! そんな書類、僕を陥れるために君が勝手に偽造したに決まっている! 僕が公金を横領などするはずがないだろう!」


「あら、偽造ですって?」


私は涼やかに微笑み、フォルダの最終頁を指先で示した。


「では、書類の末尾に並ぶ王立財団首席監査官の公印と、王国法務局の正式な告発受理印も、私が偽造したとおっしゃいますの?」


「なっ……!?」


ジュリアンの喉がひゅうと鳴った。

そこに並んでいたのは、国家の法と秩序を司る最高機関の、紛れもない二つの刻印そのものだった。


「なお、リリィさんが貴方の横領の共犯であるのか、それとも身寄りのない境遇につけ込まれて利用されただけの被害者であるのかは……私ではなく、このあと法務局と監査官が厳正にお調べになることですわ。もし彼女が無知ゆえに騙されていたのだとしても、貴方が公金を盗んで貢ぎ物に変えていた事実は、何一つ揺らぎませんけれど」


「ば、馬鹿な……! 父上に、父上に弁明を……! 父上は僕たちの結婚の前倒しを認めてくださったんだ! エレノア、君の独断でこんな真似が通ると思うなよ!」


必死に叫ぶジュリアンの背後から、氷を砕くような冷徹な怒声が広間に響き渡った。


「――誰が結婚の前倒しを認めたと言った、この愚か者が」


人垣を割って歩み出てきたのは、他ならぬランベール伯爵その人だった。

その隣には、冷たい眼差しをした近衛兵を従えた王立監査官の姿がある。


「ち、父上……!?」


「今朝、クロムウェル男爵令嬢から届いた告発書と完璧な証拠の数々を前に、私は我が目を疑ったぞ。昨夜から何度も私の部屋へ面会を求めてきていたようだが、横領の穴埋めにエレノア嬢の持参金を使おうと目論んでいたのか! どこまで我が家柄を泥水に沈めれば気が済むのだ!」


激昂する伯爵は、乱れた息を整えると、私に向き直り深々と頭を下げた。


「……エレノア嬢。愚息が貴女とクロムウェル家に尽きせぬ侮辱と損害を与えたこと、当主として心より詫びる。提示された違約金および損害賠償は、契約の定め通り、ランベール伯爵家の全責任において耳を揃えて支払うと約束しよう」


「寛大なお取り計らいに感謝申し上げます、伯爵閣下」


私が礼を返すと、ジュリアンは絶望に目を見開いた。


「ち、違うんです父上! これは何かの罠で――」


「ジュリアン・ランベール殿」


監査官が前に進み出て、感情の籠もらない事務的な声で宣告した。


「王立慈善財団公金の背任横領容疑、ならびに領地公金不正流用の疑いにより、これより身柄を拘束します。詳しい話は、法務局の尋問室で伺いましょう」


「監査官殿!? 待ってくれ、僕はランベール伯爵家の跡取りだぞ! エレノア、嘘だろう!? 君は僕を愛して、すべてを許してくれていたんじゃないのか!?」


近衛兵に取り押さえられ、なりふり構わずすがりつこうと手を伸ばすジュリアン。

私は彼を一歩引いた位置から静かに見下ろした。その瞳には、侮蔑も憐憫すらもなく、ただ澄み切った無関心だけを湛えて。


「勘違いなさらないでくださいませ」


私はただ、静かに微笑んだ。


「私が聞き分けよく笑っていたのは、貴方を許していたからではありません。ただ、貴方が言い逃れのできない深みへ自ら沈んでいくのを、正確に見極めていただけです」


「エレノア、頼む、話をしよう! 君がいないと、僕は……ランベール家は破滅してしまう!」


「ジュリアン様。本当に察しのいい女というのはね――自分の乗っている船が泥船だと見抜いた時、誰よりも素早く、美しく降りるものなのですよ」


みじめに床へ引きずられていく元婚約者を置き去りにし、私は一度優雅にカーテシーをして踵を返した。周囲の貴族たちは、もはや彼を見る者など一人もおらず、私に道を譲るように静かに左右へと退いていく。


大広間の重厚な扉を押し開けてテラスへと出ると、張り詰めていた夜の空気が火照った頬を撫でた。

テラスから広大な庭園へと続く緩やかな石段を一段ずつ下りていく。秋の澄んだ夜風が、ドレスの裾をふわりと揺らした。

背後の館からは、みっともない弁明と怒号がかすかに漏れ聞こえていたが、それも噴水の水音と夜の静寂へと溶けて消えた。


見上げた夜空には、雲一つなく冷たい星々が瞬いている。


「ああ……本当にお察しの通り。せいせいいたしましたわ」


私は誰に聞かせるでもなくそう呟くと、庭園の並木道を抜け、迎えの馬車が待つ車寄せの灯りへと、軽やかな足取りで歩みを進めた。



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― 新着の感想 ―
実際、平民ちゃんはどうだったんだろう? 横領は知らなくても婚約者がいることはわかってそうだし。 お父様(伯爵)は道理のわかった真っ直ぐな人っぽいのに、こんな愚息のせいで堕ちた家名の後始末しないといけな…
リアルでもカード明細とかで浮気や使い込みがバレる人は結構居るらしいですね
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