第9話 王前審問
王宮大広間の空気は、冬の朝のように冷えていた。
高い天井から降りる陽光が、白い石の床を四角く切り取っている。柱の影が長く伸び、その間を衛兵の靴音だけが規則正しく刻んでいた。
わたしは、大広間の入口で足を止めた。
ここだ。
十日と少し前、わたしが目を覚ました場所。記憶のないまま断罪を告げられ、証拠を求めた、あの場所。
「セラフィナ嬢」
隣に立つクラウスが、低い声で名を呼んだ。
「例の手紙の件だが」
差出人不明の手紙。二日前の夜にクラウスが預かり、検査に回していたもの。
「差出人はレーヴェンシュタイン侯爵令息だ。筆跡が一致した。内容は──審問に出れば不利益を被ると示唆する文面。脅迫に該当する」
淡々と告げる。まるで追加の書類が一枚届いただけのような口調。
「証拠が一つ増えた。審問での提示物件に加えてある」
(……この人は、脅迫状すら証拠に変える。)
呆れるべきか感心すべきか分からなくて、わたしは小さく息を吐いた。
「分かりました」
「入るぞ」
クラウスが一歩を踏み出す。わたしも続いた。
大広間の奥、一段高い玉座に、国王アルベルト三世が着座している。白髪交じりの壮年の王は、感情を読ませない静かな眼差しで広間を見渡していた。
玉座の右手に、王太子レオンハルト。──わたしの元婚約者。端正な横顔は強張り、視線は真っ直ぐ前を向いたまま動かない。
左手の席には、ヴィクトル・フォン・レーヴェンシュタイン。
腕を組み、背もたれに深く身を預けている。わたしと目が合った瞬間、薄く──笑った。
その微笑みに、怯えは見えなかった。
(……まだ、勝てると思っている。)
わたしの背筋に、冷たいものが走った。
「開廷する」
国王の侍従が宣言した。大広間の扉が閉じられる。重い音が石の壁に反響した。
「──宮廷監察官クラウス・フォン・ゼルデン男爵。審問請求の趣旨を述べよ」
クラウスが中央に進み出た。
「国法第三十二条に基づき、以下の被疑事実について審問を請求いたします」
書類鞄から請求書を取り出す。その手に、震えはない。
「被疑者、ヴィクトル・フォン・レーヴェンシュタイン侯爵令息。被疑事実は三件。第一に、王宮提出文書の偽造。第二に、公的検査記録に対する証拠隠滅および隠滅教唆。第三に、認知歪曲の呪術の行使に関する幇助」
広間がざわめいた。列席する貴族たちの間を、囁きが波のように広がる。
ヴィクトルが立ち上がった。
「──異議を申し立てます」
声は落ち着いていた。優雅ですらあった。
「いずれの嫌疑も事実無根です。監察官は、記憶を失った令嬢の妄言を根拠に、由緒ある侯爵家の名誉を毀損しようとしている」
妄言。
その一語が、広間の空気を変えた。列席者の視線がわたしに集まる。──記憶のない公爵令嬢。証言能力を疑われている、わたしに。
胃の底が、きゅっと縮んだ。
けれどクラウスは、ヴィクトルの言葉が聞こえなかったかのように、書類鞄から最初の証拠を取り出した。
「証拠第一号。ヴァイスブルク公爵令嬢の私的日記。記載日付は断罪の八ヶ月以上前に遡ります」
日記が国王の前に差し出される。
「日記には、聖女リゼット・エーデルシュタイン嬢の周辺で複数の人物が記憶の混乱を訴えていた事実が記録されています。日付、人名、症状。すべて具体的です」
ヴィクトルの微笑みが、ほんの一瞬だけ薄くなった。
「証拠第二号。王宮魔導師ハインリヒの検査記録」
クラウスが二つ目の書類を差し出す。
「八ヶ月前、ヴァイスブルク公爵令嬢の依頼で実施された残留魔力検査。結果──認知歪曲系呪術の残留魔力を検出」
広間のざわめきが大きくなった。
「この検査結果は、公表されませんでした。──証拠第三号」
クラウスが三つ目の書類を取り出す。封蝋の双頭の鷲が、陽光を受けて鈍く光った。
「レーヴェンシュタイン侯爵家の紋章が押された書状。ハインリヒ魔導師殿に宛てて、検査結果の公表を差し止めるよう圧力をかけた文書です」
ヴィクトルの腕が、ほどけた。組んでいた腕を、膝の上に下ろしている。
「証拠第四号。王宮魔導棟の検査受付簿。──原本と、調査初日に取得した公証済み複写」
クラウスが二冊を並べて差し出した。
「原本からは、ヴァイスブルク公爵令嬢の検査依頼の記録が消去されています。しかし公証済み複写には記録が残っている。──原本の改竄が行われた証拠です」
ヴィクトルの唇が、微かに動いた。何か言おうとして、止めた。
「証拠第五号。筆跡鑑定書。圧力書状の筆跡と、被疑者が王宮に提出した複数の公文書の筆跡を照合した結果──同一人物の筆と認定」
沈黙。
ヴィクトルの顔から、微笑みが消えていた。
「証拠第六号。被疑者からヴァイスブルク公爵令嬢宛に送付された、差出人不明の脅迫状。──筆跡は圧力書状と一致」
クラウスは、一度も声を荒げなかった。一つ一つ、紙を積むように。積み上げられた証拠の山が、ヴィクトルの周囲から退路を一本ずつ塞いでいく。
「続いて、証人の証言を請求いたします」
ハインリヒが証人席に立った。白髪の老魔導師は、杖をつきながら、それでも背筋を伸ばしていた。
「──八ヶ月前、検査を実施いたしました。結果は、認知歪曲系呪術の残留魔力の検出。しかしわたくしは、侯爵家の紋章が押された書状による圧力を受け、結果の公表を差し控えました」
ハインリヒの声が、震えながらも広間に響く。
「学者としての良心に背いた行為です。──深くお詫び申し上げます」
続いて、エルヴィラが証人席に立った。
栗色の巻き毛が揺れる。碧い瞳は赤く腫れていたけれど、声は通っていた。
「わたくしはセラフィナ・フォン・ヴァイスブルク嬢の旧友です。断罪の場で──わたくしは彼女を庇いませんでした」
広間が静まる。
「けれど今、あの日なぜ彼女を悪人だと信じたのか、その理由を思い出すことができません。具体的な悪行を一つも挙げられないのです。──記憶に靄がかかるように、曖昧になるのです」
エルヴィラの声が詰まった。一拍。呼吸を整えて、続ける。
「これが呪術の影響でないなら、何なのか。わたくしには、他に説明がつきません」
広間を、長い沈黙が満たした。
国王が、初めて口を開いた。
「レーヴェンシュタイン侯爵令息。反論はあるか」
ヴィクトルが立ち上がった。
唇が薄く開き──閉じた。
もう一度、開いた。
「……筆跡の、一致は……偶然の類似であり──」
「六点の書類すべてが偶然の一致か」
国王の声は穏やかだった。穏やかなのに、反論を許さない重さがあった。
ヴィクトルの顔が、初めて歪んだ。
仮面が剥がれた。──わたしにはそう見えた。応接室で柔らかく微笑んでいたあの顔が、今は土気色に強張っている。
「──審問の結果を申し渡す」
国王が立ち上がった。広間の全員が息を止めた。
「ヴィクトル・フォン・レーヴェンシュタイン。文書偽造、証拠隠滅教唆、呪術行使の幇助──いずれの罪状も、提示された証拠により認定する」
ヴィクトルの膝が、僅かに折れた。
「レーヴェンシュタイン侯爵家の嫡男としての爵位継承権を剥奪し、関連する領地の没収を命ずる。詳細は追って沙汰する」
そして、国王の視線がわたしに向けられた。
「セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク嬢。先の断罪は不当なものであったと認める。──名誉の回復を、ここに宣言する」
広間に、拍手はなかった。
代わりに、静寂があった。それは、積み上がった紙の重みが、ようやく正しい場所に置かれたときの──そういう、静かな決着の音だった。
わたしの視界が、滲んだ。
泣かない、と思った。ここでは泣かない。けれど目の奥が熱くて、唇を噛んだ。
隣に立つクラウスの横顔が、視界の端に映った。いつもと同じ、何の感情も読めない横顔。
──けれど、その顎の線が、ほんの僅かだけ緩んでいた。
◇
廊下は、大広間の喧騒から切り離されたように静かだった。
列席者たちの足音が遠ざかっていく。陽光が窓から差し込み、石の廊下に暖かい四角を作っていた。
クラウスが足を止めた。
わたしも止まった。
「──これで、調査は終了だ」
その声が、掠れた。
ほんの僅か。聞き逃すほどの掠れ。けれどわたしは十日以上、この人の声を毎日聞いていた。事務の報告も、証拠の説明も、万年筆が折れる音の後の沈黙も。
いつもと、違った。
「報告書の最終稿を明朝届ける」
クラウスがこちらを見なかった。視線が廊下の奥、窓の光に向けられている。
「……それが、最後の職務になる」
最後。
その言葉の意味を、頭は正しく理解した。調査案件が終結すれば、監察官としての職務も終わる。当然のことだ。わたしが庁舎に滞在する理由もなくなる。
当然のこと。
──なのに。
(終わって、ほしくない。)
思考が、止まった。
何を。何が終わってほしくないの。調査が終わって、名誉が回復されて、それ以上何を望むというの。
分からない。分からないけれど、この人が背を向けたら──何かが、取り返しのつかないことになる。
そんな確信だけが、胸の底にあった。
クラウスが踵を返した。
長い外套の裾が翻る。革靴が石を叩く音。一歩。二歩。
呼び止めなければ。
口を開いた。
──声が、出なかった。
三歩。四歩。クラウスの背中が、廊下の陽光の中に遠ざかっていく。
わたしは、その背中を見ていた。
万年筆を三本折った手。身柄引き渡しを即座に却下した手。わたしの名前を、一画の乱れもなく書いた手。
そのすべてが、遠ざかっていく。
廊下に、わたしの影だけが残った。
窓からの光が、少しだけ傾いていた。




