第8話 審問前夜
「筆跡が一致した」
朝の光が斜めに差す執務室で、クラウスは一枚の鑑定書を机に置いた。
それだけだった。声に抑揚はなく、表情にも変化はない。まるで天気の報告でもするように。
けれど、その一文が意味するものの重さを、わたしは理解していた。
「ハインリヒ魔導師殿に送られた圧力の書状と、王宮に提出された複数の文書──筆跡鑑定の結果、同一人物の筆と認定された。レーヴェンシュタイン侯爵令息の筆跡だ」
鑑定書をわたしの前に滑らせる。羊皮紙の上に、鑑定官の署名と公証印。比較用の筆跡が並べて添付されている。
圧力の書状に記された流麗な文字。──そして、王宮文書棟に保管されていた複数の公文書に残る、同じ筆の癖。
「t」の横線が右上がりに跳ねる。「s」の末尾が内側に巻く。小さな、けれど確実な一致。
「……これで」
「ああ。王前審問を請求できる」
クラウスがすでに白紙の便箋を引き寄せていた。ペン立てから──昨日新しく補充されたらしい万年筆を取り、インク壺に浸す。
「請求書の起草に入る。証拠一覧は昨夜のうちに整理した」
見れば、机の端に書類の束が積まれていた。紙の角が正確に揃えられ、各束に小さな付箋が貼られている。日付順。分類は、物的証拠、証言記録、鑑定結果、時系列対照表。
(……昨夜のうちに?)
わたしが眠った後も、この人は一人で紙を並べ替えていたのか。
「何か」
視線に気づいたらしい。クラウスがペン先を止めずに訊く。
「いえ。……証拠の整理、見事です」
「事務だ」
それだけ言って、万年筆を走らせ始めた。
請求書の冒頭から、淀みなく法文の引用が連なっていく。国法第三十二条、監察官の独立調査権に基づく審問請求。被疑事実──文書偽造、証拠隠滅、呪術行使の教唆または幇助。
わたしは、ペン先が紙を引っ掻く音を聞きながら、積み上げられた証拠の束を見つめた。
日記。手紙。検査記録。受付簿の複写。圧力の書状。筆跡鑑定書。──全部で七点。
これだけのものを、この人は一枚ずつ、丁寧に、愚直に積み上げてきた。
断罪の場からまだ十日と少ししか経っていない。たったそれだけの時間で、ここまで。
(……ずっと、見ていたい)
その思考が浮かんだ瞬間、わたしは自分で自分に驚いた。
──いや。違う。これは、調査が終わったら失われる環境だからそう感じるだけだ。看護師だった頃もそうだった。退院が近い患者の担当を外れるとき、少しだけ寂しくなる。それと同じ。
同じだ。
……同じ、のはず。
クラウスのペン先が、ふと止まった。
「名前の表記に間違いはないか。セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク」
こちらを見ずに訊く。請求書の──おそらく被害者の欄に、わたしの名前を書こうとしている。
「……間違いありません」
「了解した」
万年筆が動き出す。一文字ずつ。他の箇所より、明らかに丁寧な筆致で。
わたしはそれを事務的な確認作業だと思った。公文書だ。被害者の名前を誤記するわけにはいかない。当然のことだ。
──当然のこと。
◇
マティアスが茶を二人分運び入れたとき、クラウスはすでに請求書の末尾に署名をしている最中だった。
ちらり、と請求書を覗く。
被害者の欄。「セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク」──一文字の歪みもない。まるで写本のように整った筆跡。
他の箇所と、明らかに筆圧が違う。被疑事実も法文引用も流れるような速筆だったのに、この名前の八文字だけが、一画ずつ、息を止めて書いたような丁寧さだった。
マティアスは何も言わず、茶を机に置いた。
(──四年仕えて、あの人が書類の一箇所だけ筆圧を変えるのを見たのは、初めてだ。)
◇
午後。
監察官庁舎の応接室の扉を、控えめに叩く音がした。
クラウスが席を外している間だった。マティアスが扉を開け、来客の名を告げる。
「エルヴィラ・フォン・カルシュタイン伯爵令嬢が面会を求めておられます」
──エルヴィラ。
わたしの、旧友。
記憶にはない。けれど日記には何度もその名前が出てきた。誕生日の贈り物を一緒に選んだこと。庭園で紅茶を飲みながら他愛のない話をしたこと。
そして──断罪の場で、わたしを庇う者は誰もいなかったということ。
「……お通しして」
応接室に入ってきたエルヴィラは、記憶の中にいないはずなのに、不思議と懐かしい気配をまとっていた。
栗色の巻き毛。伏し目がちな碧い瞳。けれどその瞳の下に、薄い隈が浮いている。
「セラフィナ」
名前を呼ばれた。震える声だった。
「……あなたが誰だか、わたしには分からないの。ごめんなさい、こんなことを言うのは失礼だと思う。でも正直に言わなければいけないと思って」
「覚えていない、ということ?」
「違うの。覚えては、いる。でも──おかしいの。思い出そうとすると、靄がかかるみたいに曖昧になって」
エルヴィラが自分の手を握りしめた。指先が白くなるほど強く。
「あの断罪の日。わたしは、あなたが悪い人だと──本気でそう思っていた。なのに今、どうしてそう思ったのか理由が分からない。思い出せないの。あなたが何をしたのか、具体的に何も」
声が途切れた。
「わたしは……あなたを、裏切ったの?」
碧い瞳から、涙がこぼれた。
胸が、痛んだ。
記憶がない。エルヴィラと過ごした時間を、わたしは持っていない。それでも──目の前で泣いている人が、かつてのわたしにとって大切な友人だったことは、日記の筆跡の柔らかさが教えてくれていた。
(……泣かないで。あなたのせいじゃない。)
けれどその言葉を口にする前に、きちんと説明しなければならないことがある。
「エルヴィラ。座って」
椅子を勧め、自分も向かいに座った。テーブルの上に、マティアスがいつの間にか置いていった茶が二つ。
「あなたの記憶が曖昧なのは、呪術の影響よ」
「……呪術?」
「認知歪曲の呪術。──媒介者の不安に寄生して、その媒介者に信頼を寄せる人の記憶を書き換える呪術がある」
エルヴィラの目が見開かれた。
「媒介者は、おそらく聖女リゼット・エーデルシュタイン嬢。彼女自身も無自覚の被害者。そしてリゼット嬢の周囲にいた人──あなたを含めて──の記憶が、呪術によって歪められていた可能性が高いの」
看護師だった前世の自分が、脳の奥で囁く。患者に病名を伝えるとき、曖昧にしてはいけない。正確に、けれど冷たくなく。
「あなたが断罪の場でわたしを庇わなかったのは、あなたの意志じゃない。記憶を操作された結果よ」
「でも──」
「エルヴィラ」
わたしは、テーブル越しに手を伸ばした。
震えるエルヴィラの手を、両手で包む。冷たい指先だった。
「あなたは裏切っていない。裏切りには意志がいる。あなたの意志は奪われていたの。──だから、あなたのせいじゃない」
沈黙。
エルヴィラの指が、わたしの手の中で震えて、それからゆっくりと力が抜けた。
「……セラフィナ。あなた、昔からそうだった」
涙声が、少しだけ笑いを含んだ。
「怒ってもいいのに。わたしのこと、恨んでもいいのに。なのに先に『あなたのせいじゃない』って言うの」
「怒っては、いるわ。呪術をかけた者に。あなたにじゃないだけ」
エルヴィラが目元を拭った。その仕草が、ほんの少しだけ穏やかになっていた。
「……王前審問が、あるのでしょう」
「ええ。請求書はもう出来ている」
「わたしも証言する。記憶の違和感のこと。──断罪の日に自分が何を考えていたか、説明できないということ。それ自体が、呪術の証拠になるはずよ」
わたしは、エルヴィラの手を握り返した。
(……ありがとう。)
声には出さなかった。けれどエルヴィラは、小さく頷いた。
◇
夕刻。
執務室に戻ったクラウスの机に、王宮からの封書が届いていた。
国王の侍従が持参した正式な書面。クラウスが封を切り、一読する。
「……王前審問の日取りが決まった。三日後。王宮大広間にて、国王陛下臨席のもと開廷する」
紙を机に置く。その表情に、変化はない。
けれど──声が、ほんの僅かだけ低くなっていた。断罪の場でわたしの隣に立ったときと、同じ低さ。
「証拠の最終確認を今夜中に終わらせる。エルヴィラ・フォン・カルシュタイン伯爵令嬢の証言録取も明朝行う」
「はい」
「……三日後だ」
繰り返した。それが誰に向けた言葉なのか、わたしには分からなかった。自分自身への確認なのか、わたしへの約束なのか。
「三日後に、終わらせる」
その言葉を噛みしめる間もなく、マティアスが扉を開けた。
「──セラフィナ嬢宛に、手紙が届いています。差出人の記載はありません」
白い封筒を受け取った。
封蝋はない。紋章もない。宛名だけが、見覚えのない筆跡で記されている。
裏返す。何もない。
クラウスの視線が、わたしの手元に移った。
「開封は待て。先に検査する」
「……はい」
手紙をクラウスに渡す。受け取る指先が、一瞬だけわたしの指に触れた。
革手袋越しの、硬い感触。
クラウスはその手紙を慎重に書類鞄に収め、鍵をかけた。
執務室の窓から、夕陽が差している。三日後の審問を告げる書面と、差出人のない手紙が、同じ鞄の中に並んでいる。
(──あと、三日。)
夕陽に照らされたクラウスの横顔を、わたしはもう少しだけ見ていたかった。
けれど理由は、自分でも分からなかった。




