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悪役令嬢は覚えてない  作者: 九葉(くずは)


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第7話 握り潰された検査結果

「──実は、この検査を依頼されたのは初めてではありません」


王宮魔導棟の最奥。薬液と古い羊皮紙の匂いが染みついた研究室で、老魔導師ハインリヒは震える指先で白髪をかき上げた。


わたしは、その言葉の意味を咀嚼するのに数秒を要した。


「……初めてではない、とは?」


「八ヶ月前のことです。聖女リゼット・エーデルシュタイン嬢の周辺に微量の残留魔力が検出される──そう報告を受けたいのだと、依頼主はおっしゃった」


ハインリヒの視線がわたしを捉え、そして逸れた。


「依頼主は、セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク嬢。──あなたご自身です」


研究室の空気が、一拍だけ止まった。


隣に立つクラウスの気配が微かに動いた。腕を組み直したのだと思う。けれどわたしの目は、ハインリヒの手元──黄ばんだ検査記録簿の頁を押さえる、節くれだった指に縫い止められていた。


「わたしが……依頼した」


声が掠れた。記憶にない。当然だ。直近二年の記憶は、断罪の間で目を覚ましたあの瞬間から途切れている。


けれど──記憶を失う前のわたしは、ここまで辿り着いていた。


「検査結果をお見せします」


ハインリヒが記録簿を開く。乾いた紙が擦れる音。頁の中ほどに、細かな術式図と数値の羅列。そしてその末尾に、赤い墨で一行。


──《認知歪曲系呪術の残留魔力、微量ながら検出》。


呼吸を忘れた。


前世の記憶が、看護師としての十年が、脳の奥を叩く。検査結果は出ていた。数値は残っていた。なのにそれが患者のもとへ届かなかった──それが意味することを、わたしは知っている。


「……なぜ、これを公表しなかったのですか」


声は静かだった。静かなのに、自分の指先が震えていることに気づいた。


ハインリヒが俯いた。皺だらけの顔に、学者の矜持と、それを裏切った者の苦渋がない交ぜになっていた。


「圧力を、受けました」


沈黙。


「検査の三日後です。わたしのもとに書状が届いた。──侯爵家の紋章が押された、正式な書状です」


わたしの隣で、クラウスが初めて口を開いた。


「紋章の形状を覚えておられますか」


「忘れようがありません。双頭の鷲に薔薇の意匠。レーヴェンシュタイン侯爵家のものです」


──ヴィクトル。


四日前、あの応接室で微笑みながら「ご助力を」と差し出した手。セラフィナの記憶がないことを確かめるように、慎重に言葉を選んでいたあの目。


すべてが、繋がった。


「書状には何と」


クラウスの声は平坦だった。だがわたしは六日分の時間をこの人の隣で過ごしている。平坦であればあるほど、内側に何かを押し込めていることを──もう知っている。


「『検査は王宮の安寧を乱す。結果の公表は控えられたい』と。暗に、わたしの研究予算の打ち切りを匂わせる文面でした」


ハインリヒは、そこでようやくわたしの目を見た。


「申し訳ない、と言って済むことではありません。学者としての良心を、わたしは圧力に差し出した。あなたが断罪の場に立たされたと聞いたとき──わたしは、自分が何をしたのかを理解しました」


喉の奥が熱い。


怒り──だけではなかった。記憶を失う前のわたしは、たったひとりで呪術の痕跡を追い、検査を依頼し、結果を待っていた。それがどれほど孤独な作業だったか。看護師だった前世のわたしには、わかる。


(……あなたは、ちゃんと戦っていたんだね)


記憶のない「前の自分」に、初めて語りかけた。


「魔導師殿」


クラウスが一歩前に出た。


「その書状は、現在もお手元に」


「保管しております。……もう、隠すつもりはありません」


「受領します。正式な証拠物件として」


クラウスが革手袋のまま書状を受け取る。封蝋に残る双頭の鷲の刻印を一瞥し、携帯用の書類鞄に収めた。その動作には一切の感情が乗っていなかった。


だからこそ、わたしには分かった。この人が今、どれほど静かに怒っているのかが。


   ◇


監察官庁舎に戻ったのは午後も遅い刻限だった。


証拠保管庫の重い扉を開けたクラウスは、棚の奥から一冊の帳簿を引き出した。


「これは」


「王宮魔導棟の検査受付簿だ。原本の複写を、調査開始初日に取得してある」


わたしは瞬きした。


「……初日?」


「公的機関の記録は改竄される可能性がある。複写の取得は調査の基本だ」


淡々と言う。まるで朝食の献立を読み上げるように。


けれど──初日。断罪の場から数えて、まだ何の手がかりもなかったあの時点で、この人はすでにここまで想定していた。


「今朝、魔導棟の受付に確認を入れさせた」


クラウスが複写と原本の該当頁を並べる。わたしの名前が記された検査依頼の行。複写にはある。


原本には──ない。


「消されている……」


「昨夜のうちに何者かが受付簿を書き換えた。だが遅い」


クラウスが複写の頁を指で叩いた。こつ、と乾いた音が保管庫に響く。


「原本を消しても、公証済みの複写がある以上、改竄の事実そのものが証拠になる」


ヴィクトルの手が、ここまで伸びていた。けれどそれは、クラウスが初日に張っていた網に引っかかった。


(……この人は、最初からこうなることを見越していたの?)


違う、とすぐに思い直す。見越していたのではない。あらゆる可能性に備えていただけだ。静かに、愚直に、一枚ずつ紙を積み上げるように。


「証拠隠滅の未遂──これで、レーヴェンシュタイン侯爵令息への嫌疑は確定的だな」


クラウスが複写を書類鞄に戻す。


その横顔に感情は読めない。けれど革手袋の指先が、ほんの一瞬だけ強く帳簿の背を握ったのを、わたしは見逃さなかった。


   ◇


執務室に戻ると、扉の前にひとりの侍従が立っていた。


胸元に、王太子の紋章。


「ゼルデン男爵。王太子殿下より、セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク嬢の身柄を王太子宮へ引き渡されたい旨、口頭にてお伝えいたします」


クラウスは、一拍の間も置かなかった。


「書面で回答する。待たれよ」


執務室に入り、扉を閉め、机に向かう。わたしは入口に立ったまま、その背中を見つめていた。


ペン立てから万年筆を取る。インク壺に浸す。便箋に穂先を走らせ──。


──ぱきん。


万年筆の軸が折れた。


クラウスは無言で二本目を取った。三行ほど書き進め──。


──ぱきん。


また、折れた。


わたしは息を呑んだ。万年筆を折るほどの筆圧。けれどその顔は、いつもと何も変わらない。眉ひとつ動いていない。


三本目。今度はゆっくりとインクに浸し、一文字ずつ、丁寧に、丁寧に──。


書き終えた。


封をして、侍従に渡す。


「監察官の調査権限に基づき、身柄の引き渡しには応じられない。異議があれば国法に則り王前審問にて申し立てられたい。──以上だ」


侍従が去った後、執務室に沈黙が落ちた。


クラウスが折れた万年筆を二本、静かに屑籠に落とした。かちゃん、と硬い音がした。


「……監察官殿」


「何だ」


「ありがとう、ございます」


クラウスはこちらを見なかった。


「礼を言われることではない。職務だ」


そう言って、三本目の──奇跡的に生き残った万年筆を、ペン立てに戻した。


その手が、微かに震えていた。


(……職務、だけですか)


訊けなかった。訊く権利が、今のわたしにあるのかどうか分からなかった。


   ◇


夜。クラウスが席を外した僅かな間に、書記官マティアスが報告書の束を届けに来た。


「……万年筆、三本目も駄目ですかね」


マティアスが屑籠を覗き込んで呟く。


「僕が仕えてから四年。あの人が万年筆を折ったのは二回だけです。一回目は、冤罪で処刑された平民の記録を読んだ夜。──今日で三本ですから、記録更新ですね」


その声は、独り言のように軽かった。けれどマティアスの目は、笑ってはいなかった。


「セラフィナ嬢。明日、侯爵令息の筆跡鑑定が始まります。──あの人の万年筆、予備を買っておいたほうがいいかもしれません」


冗談めかした言葉だけを残して、マティアスは執務室を出ていった。


ひとりになった部屋で、わたしは屑籠の中の万年筆を見つめた。


二本とも、同じ場所で折れていた。──ちょうど、指が一番力を込める位置で。


(冤罪の記録を読んだ夜と、同じ。)


胸の奥が、じわりと熱くなる。


今日一日で分かったことを、頭の中で並べ直す。


前のわたしは、呪術の証拠を掴んでいた。ハインリヒの検査結果は、ヴィクトルの圧力で握り潰された。受付簿は改竄されたが、クラウスが初日に押さえた複写が残っている。


そして──ヴィクトルが圧力に使った書状の筆跡と、偽造された他の文書を照合すれば。


窓の外、王都の夜空に薄い月が架かっていた。


(……あと、もう少し)


あともう少しで、前のわたしが辿り着けなかった場所に──今のわたしが、辿り着く。


机の上に置かれたクラウスの報告書控えの端に、今日の日付と、短い走り書きがあった。


《引き渡し要求、却下。根拠──国法第三十二条、監察官の独立調査権。》


その文字は、三本目の万年筆で書かれたものだった。


力強い筆跡。一画の乱れもない。──けれど最後の一字だけが、ほんの僅かに震えていた。

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