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悪役令嬢は覚えてない  作者: 九葉(くずは)


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第6話 覚えていない手のひら

 公爵家の書庫は、埃と古い紙とインクの匂いがした。


 ──図書館に似ている。前世の、大学の。


 天井まで届く書架が十数本、暗い石壁に沿って並んでいる。蝋燭ではなく魔法灯が四隅に灯されていて、本の背表紙に淡い光が当たっている。梯子がかかった書架の上段には、革表紙が日焼けして読めなくなった古い書物が詰まっていた。


「お前の母が生前集めていた資料がある」


 父──ヴァイスブルク公爵ルートヴィヒが、書庫の奥の区画に案内してくれた。背の高い、痩せた人だ。学者のような目をしている。わたしの記憶にはない人だけれど、手つきを見れば分かる。本の扱い方が丁寧で、背表紙に触れる指が柔らかい。本を愛している人の手だ。


「古い呪術に関するものだ。今の魔法体系とは異なる、旧時代の技術の文献。希少なものも含まれている」


「……ありがとうございます、お父様」


 覚えていない父にそう呼びかけるのは、まだ少し慣れない。でもルートヴィヒ公爵は──お父様は、それを咎めなかった。ただ頷いて、古い書架の前で立ち止まった。


 クラウスがわたしの隣で、書架の背表紙を見上げている。濃紺の外套が書庫の薄暗さに溶けて、灰青の目だけが魔法灯の光を拾っている。


「この区画の文献は持ち出し禁止だ。閲覧は自由にしてくれ」


 お父様が退出し、書庫にわたしとクラウスだけが残った。


 ◇


 三冊目の文献に、それはあった。


 古い言語で書かれた薄い冊子。紙が黄ばんで端がぼろぼろになっているけれど、中の文字はまだ読める。挿絵が添えられていた──人間の頭部を模式図のように描いたもので、頭の周囲に波紋のような線が広がっている。


 ──認知歪曲の呪術。


 読み進める。文体が古く、何度も読み返しが必要だった。クラウスが隣で同じ箇所を追っている。時折、万年筆で手元の紙に要点を写し取る音が聞こえる。


 呪術のメカニズムが記されていた。


 媒介となる人間の不安や恐怖の感情に寄生する。媒介に対して信頼や好意を抱く周囲の人間に作用し、記憶に干渉して偽の記憶を植え付ける。


(……これは)


 指先が止まった。


 媒介者。キャリア。


 前世の感染症学で学んだ概念が、頭の中で重なった。病原体を体内に持ちながら自覚症状がなく、接触した他者に感染させる人間。本人には悪意がない。本人は自分が感染源だと知らない。


「……これは、感染症の媒介者に近い構造ですね」


 声に出していた。


 クラウスの万年筆が止まる。


「感染症?」


「えっと……この呪術は、媒介者本人には自覚がないまま、接触者の認知に影響を与えています。媒介者の不安が──燃料のようなもので、それが周囲に伝播する。病原体の媒介と同じ構造です」


 クラウスが数秒間、わたしの顔を見た。


「……その分析は、この世界の魔法学にはない視点だ」


 短い。でも、あの「使える」と同じ重さの一言だった。


 さらに読み進めた。呪術に冒された者の症状──発熱、震え、一時的な記憶混濁。媒介者に近づいた者に、偽の記憶が植え付けられていく過程。


 発熱。震え。記憶混濁。


 ──高熱。


 三日三晩の高熱。目が覚めた時、前世の記憶があって、二年分の記憶が消えていた。


(わたしも、この呪術の影響を受けていたの……?)


 その瞬間、文献の記述が別の記憶と重なった。


 白い廊下。電子モニタの音。高熱で苦しむ患者の手を握っている──握っても握っても、体温が下がっていく。三十八度。三十九度。四十度。「先生を呼んで」とわたしが叫んでいる。でも間に合わない。手の中で、指の力が──


 手が震えた。


 文献を持っていられなくなった。膝の上に落ちた冊子が、ぱたりと閉じる。呼吸が浅い。目の前がぼやける。ここは書庫だ。前世じゃない。分かっている。分かっているのに、指先が止まらない。


 温かいものが、手を包んだ。


 両手を──わたしの震える両手を、大きな手のひらが包み込んでいた。


「……呼吸を」


 クラウスの声だった。低い。いつもより、もう少し低い。


「今は、ここにいる」


 五つの言葉。


 手のひらの温度が、震えを少しずつ押さえていく。乾いた手だった。インクと紙の匂いがする手。万年筆を握る手。書類を叩く手。焼き菓子を隠す手。


(……あ)


 呼吸が戻った。


 閲覧机の木目が見える。魔法灯の淡い光。古い本の匂い。ここは公爵家の書庫で、わたしはセラフィナで、今は──今は、ここにいる。


「……すみません」


「謝る必要はない」


 クラウスが手を離した。


 ──あっさりと。何事もなかったように、文献に視線を戻した。万年筆を取り上げて、紙に何かを書き始める。


(……被調査者が取り乱すと調査に支障が出るから、だろうな)


 合理的な判断。焼き菓子と同じだ。糖分が思考に必要なのと同じように、被調査者の精神的安定は調査の効率に必要。


 ──そのはず、なのに。


 手のひらがまだ温かい。包まれていた形を、指が覚えている。


 わたしは文献を拾い上げて、続きを読んだ。目がまだ少し熱かったけれど、事実を追う手つきは止めなかった。止めたら、看護師じゃなくなる。


 ◇


 帰りの馬車の中で、調査結果を整理した。


 石畳の振動が車体を揺らす中、クラウスが手元の記録を読み上げる。


「呪術の媒介条件。浄化魔法の素質を持ち、かつ強い不安を抱える者」


「……はい」


「神殿認定聖女リゼット・エーデルシュタイン。浄化魔法の適性は神殿が公式に認定している。加えて、日記に記された"記憶の食い違い"は全て、リゼット殿の周辺で発生している」


 馬車の窓から差し込む夕陽が、クラウスの横顔を照らしていた。


「聖女が、呪術の媒介者である可能性がある」


 わたしは頷いた。日記の記述と、古文献のメカニズムが合致する。前のわたしが追っていた「不審な魔法痕」も、この呪術の残留と考えれば説明がつく。


(でも──リゼット殿は、加害者なのか。それとも被害者なのか)


 呪術の媒介者は、自覚がないまま周囲に影響を与える。もしリゼット殿が自分の意志でやっているのなら加害者だが、古文献のメカニズム通りなら──呪術に取り憑かれた被害者だ。


 どちらなのか。まだ分からない。


「監察官殿」


「何だ」


「聖女殿のことを、もっと調べる必要があります。加害者として、ではなく──被害者かもしれない、という前提でも」


 クラウスが、ほんの一瞬だけ、わたしを見た。


「……それも含めて調べる。結論ありきでは動かない」


 短い言葉。でも──この人がそう言うなら、本当にそうするだろう。事実だけを見る。それがこの人のやり方だ。


 馬車が石畳の溝を越える振動で、隣のクラウスの肩とわたしの肩が、一瞬だけ触れた。


 クラウスは何も言わなかった。わたしも。


 馬車の中に、古い紙とインクの匂いだけが残っていた。

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