第5話 疑義あり
宮廷の掲示板にわたしの名前が載った日の朝は、空が妙に青かった。
「──中間報告書、受理されました」
マティアスが庁舎に戻ってきたのは、朝の鐘が三つ鳴った直後だった。手元の受領書をクラウスに渡す。クラウスがそれを一瞥し、万年筆で自分の記録帳に何か書き込む。
「掲示板への要旨掲示も完了しています。内容は──『ヴァイスブルク公爵令嬢セラフィナに対する告発には疑義がある。日記による反証および告発側の証拠不足が確認された』」
疑義あり。
その三文字が、宮廷の掲示板に──つまり、貴族と王宮関係者の全員が目にする場所に、公式に掲示された。
「社交界の反応は数日で出る。掲示を見た貴族の使用人が主人に伝え、茶会で話題になり、一週間以内に王都の貴族のほぼ全員が知る」
クラウスが淡々と説明した。情報伝達の経路を、天気予報のように述べる。
(……あの断罪の場で、わたしを「悪女」と呼んだ人たちの目に、あの文言が入る)
胸の奥が、少しだけ軽くなった。証拠のない告発で名誉を奪われた日から、二週間と少し。ようやく、公の記録にわたしの反証が残った。
◇
午後、庁舎の応接室に来客があった。
「セラフィナ!」
扉を開けるなり駆け寄ってきたのは、蜜色の巻き髪を揺らした少女だった。エルヴィラ──伯爵令嬢で、わたしの幼馴染だと聞いている。覚えていないけれど。
「ごめんなさい、もっと早く来たかったの。でも……庁舎への面会は手続きがあるって聞いて」
「いいえ、来てくださっただけで」
エルヴィラの目が赤い。泣いていた──いや、今も泣きそうだ。わたしの顔を見て、唇を噛んで、それから無理に笑った。
「掲示板、見たわ。疑義ありって。わたし、最初からあなたの味方よ」
「……ありがとうございます」
「でも──」
エルヴィラの笑顔が崩れた。
「ねえ、セラフィナ。わたし……あの舞踏会で、あなたがリゼット殿に酷いことを言ったのを、見た気がするの」
声が震えている。
「見た気がするのに、信じたくない。あなたがそんなことをする人じゃないって、わたしは知ってるはずなのに──でも記憶の中では、確かにあなたが……」
エルヴィラが両手で顔を覆った。
わたしは、その手を取ることができなかった。
覚えていないから。この子の記憶の中にいる「わたし」を、わたしは知らない。
でも──日記の「記憶の食い違い」を思い出した。前のわたしが記録していた事例。本人たちが「見た」と信じている記憶が、事実と食い違う。エルヴィラも、同じ症状を見せている。
(記憶がおかしくなっているのは、わたしだけじゃない)
この子も、何かの影響を受けている。
「エルヴィラ様。覚えていないわたしが言うのも変ですが──わたしも、あなたの記憶も、どちらも嘘ではないのだと思います。ただ、何かがおかしい。それを調べているところです」
エルヴィラが顔を上げた。涙の痕が頬に光っている。
「……あなたらしい言い方ね。昔からそう。泣いてるわたしの前で、冷静に、でも優しく話すの」
(覚えていないのに、「昔から」と言われるのは──少し、くすぐったい)
「調べて、分かったことがあったら教えてね。わたし、今度はちゃんとあなたの味方でいたいの」
エルヴィラが帰った後、応接室に残った茶器の湯気を見つめた。
記憶の食い違いの被害者は、わたし一人ではない。──これは、思っていたより大きな問題かもしれない。
◇
エルヴィラと入れ替わるように、別の来客があった。
廊下に響く重い靴音。衛兵が二人、その前を歩く。そして──金の肩章。
王太子レオンハルト殿下。
断罪の広間以来だった。
「セラフィナ」
殿下の声は、広間の時より低かった。苛立ちを押し殺しているような、眉間の皺。
「調査が長引いている。監察官には早急に結論を出すよう伝えてある」
「……殿下、わたしの一存では──」
「もう一つ」
殿下がわたしの言葉を遮った。
「断罪が覆ったならば、お前の罪は消える。つまり婚約は有効だ。お前は戻ってくることになる」
困惑。
──戻る? どこに? 殿下のもとに?
覚えていない。この人との婚約も、この人と過ごした時間も、何一つ。記憶のない婚約者に「戻れ」と言われても、わたしには戻る場所が分からない。
「……そのお話は、調査が終わってからお聞かせいただけますか」
それだけ返した。殿下の眉間の皺が深くなる。
「……そうか」
殿下が踵を返し、衛兵とともに廊下を去っていく。
その背中を見送りながら──ふと、視界の端で、クラウスの執務室の扉が開いているのに気づいた。扉の隙間から覗く灰青の目が、殿下の去っていく方向をじっと見ている。
一瞬だけ。本当に、一瞬だけ。
クラウスの顔が、いつもの無表情と違って見えた。何が違うのか分からない。目の形も口元も動いていない。でも、空気が──固い。
次の瞬間にはもう、いつもの顔に戻っていた。
(……気のせい、かしら)
◇
翌日、外出調査の帰路。
クラウスと並んで王都の石畳を歩いていた。空は高く、風は乾いていて、街路樹の葉が揺れる音がする。
すれ違った貴族の婦人が、わたしの顔を見て足を止めた。
「まあ──悪女がまだのうのうと歩いているのね。恥ずかしくないのかしら」
声は高く、通りに響いた。周囲の通行人が振り返る。
身体に力が入る。──でも、表情は動かさない。患者の家族に理不尽な怒りをぶつけられた時と同じだ。受け止める。顔には出さない。
(……慣れている。前世で、ずっとやってきたことだから)
でも、慣れていることと、傷つかないことは違う。
一歩。
わたしの前に、濃紺の外套が割り込んだ。
「現在、彼女は監察官庁舎の管理下にある」
クラウスの声だった。──低い。いつもより低い。マティアスに指示を出す時とも、クラウスがわたしに調査方針を説明する時とも違う、もう一段低い声。
「公的な立場にある被調査者への侮辱は、公務妨害に該当する。貴女の名を伺ってよろしいか」
婦人の顔が青ざめた。「い、いえ……失礼しました」と呟いて、足早に去っていく。
クラウスが半歩下がって、元の位置に戻った。こちらを見ない。前を向いたまま、いつもの歩調で歩き出す。
(……公務のために守ってくれたんだ)
そう解釈した。監察官として、被調査者の管理義務がある。侮辱による混乱は調査に支障をきたす。合理的な判断。
──なのに。
あの声が、耳に残っている。いつもの声より半音低い、あの声が。
◇
監察官庁舎の廊下で、書記官マティアスは足を止めた。
窓の外に、並んで歩く二つの背中が見える。監察官と、公爵令嬢。調査帰りだ。
先ほど、街路でのやりとりを庁舎の窓から見ていた。貴族の婦人がセラフィナ嬢に何か言い、クラウスが前に出た。
──あの声の低さは、初めてだった。
マティアスは三年間この人の下で働いている。機嫌が悪い時も、貴族に圧力をかけられた時も、国王に報告書を突き返された時も、監察官の声はいつも一定だった。
あんなふうに声が落ちたのは、見たことがない。
「……まあ、俺が口を出すことじゃないか」
マティアスは独り言を呟いて、手元の書類に目を戻した。
──国王陛下より返答あり。王太子殿下の調査打ち切り要請は正式に却下。「監察官の独立性は国法の根幹である」との声明を付す。
これをクラウスに報告すれば、今日の仕事は終わりだ。
窓の外で、二つの背中が庁舎の門をくぐるのが見えた。公爵令嬢がほんの少しだけ、監察官の外套の袖口を見ている。自分の肩にかけられた上着のことを思い出しているような、小さな仕草。
本人は気づいていないだろう。
マティアスはため息をひとつ吐いて、報告書を手に廊下を歩き出した。




