第4話 協力者の仮面
「前のわたし」は、丁寧な字を書く人だった。
日記の解読を続けて三日。読み進めるほどに、記憶のないはずの自分の輪郭が浮かび上がってくる。几帳面で、観察力があって、感情を文章に滲ませない人。
──わたしと、よく似ている。
当たり前だ。同じ人間なのだから。でも、同じ人間だと頭で分かっていることと、同じ人間だと実感することは別だった。
日記の中盤には、聖女リゼット殿の行動パターンが記録されていた。茶会の出席頻度、会話の相手、退出の時刻。それだけなら社交上の覚え書きだが、その間に挟まれた注記が異質だった。
──四の鐘の茶会。リゼット殿が「セラフィナ様に花壇の花を褒めていただいた」と話した。わたしは花壇の前を通っていない。マルタ侍女に確認したところ、彼女もわたしが花壇にいた記憶はないと答えた。しかし茶会の出席者三名は全員「そうだったわね」と頷いた。
──六の鐘の晩餐会後。リゼット殿とわたしが廊下で口論したと、翌日エルヴィラに言われた。わたしは晩餐会後、すぐに馬車で帰宅した。エルヴィラは「でも、見た気がするの……」と首を傾げた。
記憶の食い違い。
日記にはこうした事例が八件、日時と場所つきで記録されていた。まるでカルテの経過記録だ。いつ、どこで、誰が、何を言い、何が事実と食い違っていたか。前のわたしは感情を交えず、淡々と事実だけを書いていた。
(……わたし、問診票を書くみたいに日記をつけてたのね)
少しだけ可笑しかった。前世の癖は、記憶を失う前のわたしにも染みついていたらしい。
◇
昼過ぎ、庁舎の応接室に来客があった。
「セラフィナ嬢の旧友として、調査に協力させていただきたい」
レーヴェンシュタイン侯爵令息ヴィクトル・フォン・レーヴェンシュタイン。
断罪の広間で王太子殿下の背後に立っていた、あの青年だ。赤みがかった茶髪をきちんと整えて、仕立ての良い外套を着ている。柔らかな笑顔。手には包装の美しい茶葉の箱。
高級茶葉。
(旧友、と言われても困る。覚えていないのだから)
「……ご親切にありがとうございます、レーヴェンシュタイン侯爵令息」
「ヴィクトルと呼んでくださって結構ですよ。以前はそうだったのですから」
にこりと笑う。隙がない。社交の場でこの笑顔を向けられたら、大抵の人間は好感を持つだろう。声の高さ、間合いの取り方、視線の向け方──全てが計算されて自然に見える。
前世の病棟にも、こういう患者がいた。
退院日が近づくと笑顔が増える。主治医の前では「もうすっかり良くなりました」と朗らかに振る舞うのに、夜中にこっそりナースコールを押してくる。聞けば、本当は痛みがあるのに、退院が延びるのが怖くて言い出せない。
笑顔と言葉が噛み合わないことに気づくのは、看護師の仕事だ。
「──それで、少し伺いたいのですが」
ヴィクトルが茶葉の箱を机に置き、何気ない口調で言った。
「日記が見つかったと耳にしました。何か調査の役に立つ内容はありましたか?」
指先が、止まった。
──日記が見つかったと耳にした。
わたしは笑顔を保ったまま、頭の中で時系列を組み立てた。日記を発見したのは五日前。証拠品として登録されたのは三日前。クラウスの中間記録には「被告発者の私物から調査資料を発見」とだけ書かれており、「日記」という具体名は記載されていない。
庁舎の外にいる人間が「日記」という言葉を知っているのは、おかしい。
(……誰から聞いたの?)
心の中で問いかけたまま、表情は動かさなかった。患者の前で動揺を見せない。十年間の習慣が、今この瞬間を支えている。
「ええ、日記は見つかりました。まだ精査の途中ですので、内容については監察官殿の許可なくお話しできませんが」
「ああ、もちろんです。差し出がましいことを。ただ、旧友として心配で」
ヴィクトルは微笑んだまま頷いた。その目は笑っている。笑っているのに──何だろう。茶葉の箱を置いた時の指先が、ほんの一瞬だけ力んでいたのを、わたしは見逃さなかった。
「聖女殿の周辺のことも調べていらっしゃるのですか?」
「監察官殿の方針に従っております」
「そうですか。何かお力になれることがあれば、いつでもお申し付けください」
ヴィクトルは穏やかに立ち上がり、完璧な礼をして応接室を出ていった。
扉が閉まる。
茶葉の箱が机の上に残っている。包装紙から漂う上品な香り。高級品だ。レーヴェンシュタイン侯爵家の紋章が刻印された封蝋がついている。
(……旧友なら、もう少し不安そうな顔をするものじゃないかしら)
心配だと言いながら、ヴィクトルの表情は終始落ち着いていた。むしろ──調査の進捗を確認しに来たように見えた。
◇
クラウスの執務室に向かった。
狭い部屋の扉を叩くと「入れ」の一言。相変わらず簡潔だ。
「監察官殿、先ほどの来客の件ですが」
「ああ」
「レーヴェンシュタイン侯爵令息が、日記の存在をご存知でした。わたしたちは外部に公表していませんよね?」
クラウスの万年筆が紙の上で止まった。灰青の目がこちらを見上げる。
「……気づいたか」
短い。たった四文字。でも、その声にはあの広間で「面白い」と言った時と同じ──どこか認めるような響きがあった。
「あの男は何を探りに来た」
クラウスの呟きは、わたしへの質問というより独り言に近かった。
「社交界の噂で知った可能性もありますが……」
「中間記録に日記の名称は記載していない。庁舎の記録簿は部外者の閲覧不可だ。社交界の噂で"日記"という具体名が出る経路は、通常はない」
万年筆の先で、手元の紙を二度叩いた。
「情報源の特定を進める。貴女は引き続き日記の解読を。──それと」
「はい?」
「来客時は必ず私に事前報告しろ。侯爵令息に限らず、だ」
「承知しました」
頷いて執務室を出る。廊下を歩きながら、少しだけ胸の中が軽くなっているのに気がついた。
──一人で気づいても、それを共有できる相手がいなければ意味がない。報告して、検討して、次の手を打つ。前世の病棟でやっていたことと同じだ。
(チーム、ができた)
そう思った瞬間、自分でも意外なほど、安堵が染みた。
◇
夜。
蝋燭の灯りの下で、日記の要点一覧と手紙の束を照合する作業を続けていた。クラウスは隣の自分の執務室で書類仕事をしているらしく、時折万年筆が紙を走る音が壁越しに聞こえる。
「記憶の食い違い」の事例を時系列に並べ直していたら、いつの間にか窓の外が真っ暗になっていた。蝋燭が短くなっている。何時だろう。
ふ、と肩が温かくなった。
布の重み。それから──ほんのりと、インクと古い紙の匂い。
顔を上げた。
誰もいなかった。
クラウスの背中が、執務室の扉の向こうに消えるところだった。すでに自分の椅子に座り直して、書類に目を落としている。こちらを見ていない。
肩にかかっているのは、濃紺の外套だった。裏地がまだ温かい。
(……被調査者が風邪を引くと調査に支障が出るから、だろうな)
合理的な判断。監察官として当然の配慮。
──そのはずなのに。
外套の襟元に触れた指先が、なぜか少しだけ熱かった。
壁の向こうで、万年筆が紙を走る音だけが静かに響いていた。




