第3話 わたしの日記
知らない自分の筆跡ほど、奇妙なものはない。
二日かけて手紙の束を整理した。宛先不明、差出人不明の断片的な書簡が十七通。内容はどれも脈絡がなく、前後関係が掴めない。「先日の件」が何の件なのか、「三の鐘までに」どこへ行くのか、わたしには分からなかった。
けれど筆跡だけは確かにわたしのものだった。右上がりの癖。「の」の字の丸め方。半年前に目覚めてからペンの持ち方を練習し直したわたしの字と、細かな癖がぴたりと一致する。
──この手は、記憶のない二年間も同じように動いていたのだ。
手紙の束の底に、もうひとつ。
革表紙ではなく布張りの、薄い冊子。角が少し擦れていて、持ち主が何度も開いた跡がある。
開いた。
日記だった。
表紙裏に日付がある。記憶を失う約一年半前から、半年前の高熱で倒れる直前まで。整った字で、日々の記録が綴られていた。
(「前のわたし」のカルテが、ここにある)
最初の数頁は穏やかな日常の記録だった。社交の場での会話の要点、読んだ書物の感想、刺繍の進み具合。公爵令嬢の日常が丁寧に書き留められている。
字は落ち着いていた。文章は簡潔で、感情を抑えた文体。──看護記録に似ている、と思った。事実を事実として書く。わたしの前世の癖と、前のわたしの癖が、ここで重なっている。
奇妙だ。記憶がないのに、同じ人間だと筆跡が証明している。
十頁ほど読み進めたところで、日記の温度が変わった。
──今日の茶会で、リゼット殿の様子がおかしかった。彼女が微笑んで「セラフィナ様が花を摘んでくださったの」と話した時、周囲の者が一斉に頷いた。わたしは花を摘んでいない。でも、誰もわたしの否定を聞かなかった。
頁をめくる。
──また「記憶の食い違い」が起きた。舞踏会で、わたしがリゼット殿に「挨拶をしなかった」と複数の人に言われた。わたしは挨拶をした。リゼット殿も「ありがとうございます」と返した。それなのに、翌日には「セラフィナがリゼット殿を無視した」ということになっている。
さらに。
──聖女の周辺に不審な魔法痕がある。茶会の後、リゼット殿が座っていた椅子の周囲の空気がわずかに歪んでいるのを見た。魔法の素養がない者には見えない程度の、薄い残留。これは調べるべきだ。
手が止まった。
「前のわたし」は、聖女を害していない。
害するどころか──聖女の周辺で起きている異常を、追っていた。
呼吸が浅くなる。膝の上で日記を持つ手が微かに震えた。
(知らなかった。覚えていない自分が、こんなことをしていたなんて)
嬉しいのか、怖いのか、分からない。記憶にない自分が正しいことをしていた。それは安堵だ。でも同時に──この記録を書いた「わたし」を、今のわたしは一切知らない。知らない人間の正しさを、自分のものと呼んでいいのか。
目頭が熱くなりかけた時、扉を叩く音がした。
「入る」
クラウスだった。外套を脱いでいて、白いシャツの袖が肘まで捲り上がっている。片手に資料の束を抱えていた。
「手紙の精査結果が出た。十七通のうち、宛先が推定できたのは三通。残りは──」
クラウスがわたしの顔を見て、言葉を切った。
一秒。二秒。
何も言わなかった。
代わりに、抱えていた資料の束をわたしの机の端に置いた。ことり、と軽い音がした。資料にしては妙に軽い音だ。
「……精査結果は後でまとめて報告する。日記の件を先に聞かせろ」
クラウスは椅子を引いてわたしの向かいに座り、万年筆を出した。
わたしは日記の内容を説明した。声が少し掠れたけれど、事実だけを伝えた。聖女周辺の異常の記録。記憶の食い違いの事例。魔法痕の目撃。
クラウスは万年筆の先で手元の紙を一度だけ叩いて──あの癖だ──頷いた。
「……日記を預かる。証拠品として登録する」
「はい」
「それと、この資料に目を通しておけ。今後の調査の参考になる」
クラウスが立ち上がり、部屋を出ていく。
わたしは資料の束に手を伸ばした。
持ち上げた瞬間、資料の下から小さな紙包みが滑り出てきた。
──焼き菓子。蜂蜜の匂いがする、小さな焼き菓子が二つ。
(……え?)
紙包みの下に何も書かれていない。差し入れの手紙もない。ただ資料の束の下に、隠すように置かれていた。
廊下に出て、クラウスの背中に声をかけた。
「監察官殿」
クラウスが振り返る。
「これは──証拠品ですか?」
焼き菓子を掲げて見せると、クラウスの視線が一瞬だけ泳いだ。
ほんの一瞬。それから、いつもの無表情に戻る。
「糖分は思考に必要だ」
それだけ言って、目を逸らし、廊下の奥に消えていった。
(……業務上の配慮、ということでいいのかしら)
蜂蜜の焼き菓子を一口齧った。甘い。前世の病棟の休憩室で食べていた個包装のクッキーを思い出した。疲れた時に甘いものを口にすると、頭の奥がほどける感覚。
──泣きかけていたのが、少しだけましになった。
◇
翌朝、クラウスの執務室に呼ばれた。
狭い部屋だった。わたしの角部屋と比べると窓が小さく、午前中でも薄暗い。机と椅子と書架だけの簡素な空間に、書記官マティアスが記録用の羊皮紙を広げて待っていた。
「日記の証拠登録は完了した」
クラウスが椅子に座ったまま、手元の日記──わたしの日記を開いて見せた。付箋が十箇所以上に貼られている。一晩でここまで精査したのか。
「聖女周辺の異常に関する記述は十二箇所。うち、具体的な日時と場所が記されているものが八箇所。いずれも宮廷の行事や茶会の日程と照合可能だ」
「……はい」
「日記は自己申告の記録に過ぎず、これ単独では証拠力は高くない。だが──」
クラウスが万年筆を紙に走らせた。
「──少なくとも、告発側の主張は一方的だ。被告発者が聖女を害したとする告発に対し、被告発者自身が聖女周辺の異常を調査していた記録が存在する。告発側の証拠不足と合わせ、現時点で告発の一方性は明白。この旨、中間記録に記載する」
マティアスが記録を取る羽ペンの音が、しばらく部屋に響いた。
公式見解。監察官としての公式な記録。「告発は一方的」──その一文が、断罪の場であの広間を覆っていた空気を、少しだけ押し返してくれる気がした。
「書記官」
「はい」
「中間記録の写しを作成して庁舎の記録簿に格納しろ」
「承知しました」
マティアスが羊皮紙を巻き上げながら、ふと目を上げた。
「……監察官殿、あの角部屋はもともと貴方の執務室では」
一瞬の間。
「書記官。本題に戻れ」
クラウスの声は平坦だった。マティアスが「失礼しました」と小さく言って記録に戻る。
(……角部屋が、監察官の執務室?)
聞こえた、気がする。でもマティアスの声は小さかったし、クラウスがすぐに遮ったから、正確には分からない。
それに──監視に適した配置だからあの部屋を割り当てられた。そう考えるのが自然だ。庁舎の間取りの都合だろう。
(……うん。そうだ。それ以上の意味はない)
わたしは頷いて、自分を納得させた。
◇
自室に戻り、日記の後半を読み込んだ。
クラウスに預けた原本の代わりに、精査の際に書き写された要点の一覧をもらっている。クラウスの字は小さくて正確で、まるで活版印刷のようだった。
日記の後半に進むほど、記述の緊張感が増していく。「記憶の食い違い」の事例が増え、「前のわたし」が何かを追い詰めようとしている気配がある。
そして──最後から三頁目に、その一文はあった。
──レーヴェンシュタイン侯爵令息に注意。
それだけ。理由は書かれていない。前後の文脈からも、なぜ侯爵令息を名指ししたのか読み取れない。
レーヴェンシュタイン侯爵令息。あの断罪の広間で、王太子殿下の背後に立っていた、洗練された青年。微笑みを浮かべていた人。
(「前のわたし」は、あの人を警戒していた)
理由は分からない。でも──記憶を失う前のわたしが、わざわざ日記に書き残すほどの何かがあった。
蜂蜜の焼き菓子の、最後のひとかけらを口に入れた。
甘さが舌の上で溶ける。
その甘さに少しだけ背中を押されるようにして、わたしは調査計画書を広げ、新しい項目を書き加えた。
──要調査:レーヴェンシュタイン侯爵令息ヴィクトルと被告発者の過去の接点。




