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悪役令嬢は覚えてない  作者: 九葉(くずは)


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第2話 カルテのない患者


 監察官庁舎の角部屋は、予想に反して陽当たりが良かった。


 西日が窓硝子を琥珀色に染めて、簡素だが清潔な寝台と書き物机を照らしている。壁には王家の紋章入りの燭台が二つ。調度品は最低限だけれど、埃ひとつない。


 ここがしばらくのわたしの部屋──というより、檻になるらしい。


「被調査者の居室だ。外出には私か書記官の同行が必要になる。食事と生活に必要なものは庁舎の予算から支出する。不自由があれば申し出ろ」


 背後で、抑揚のない声が手続きを読み上げている。


 宮廷監察官クラウス・フォン・ゼルデン。あの断罪の広間で「面白い」と笑った人。今は笑っていない。灰がかった青い目が書類に落ちたまま、淡々と規則を説明していく。


(……無愛想が標準なのかしら、この人)


 あの一瞬の微笑みは見間違いだったのかもしれない。


「質問がなければ、調査の方針を説明する」


「お願いします」


 クラウスが書類の束を机に置いた。指が長い。万年筆を持つ手つきに迷いがなくて、書記官というより──そう、外科医に近い正確さがあった。


「まず、告発側の主張を一つずつ検証する。罪状は三件。それぞれについて、日時、場所、目撃者、物証の有無を確認していく」


「……はい」


「貴女の記憶がないことは、前提として受け入れる」


 少し驚いた。信じてくれるのか、と──いや、違う。次の言葉がそれを否定した。


「ただし、それを証明する義務は貴女にある。記憶がないという主張だけでは、告発に対する反証にはならない」


 公正で、冷徹。


 信じるでも疑うでもなく、ただ事実に基づいて動く。


(──この人は、使える)


 いや。「使える」は失礼だ。「信用できる」。結論ありきで動かない人間は、前世の病棟でも数えるほどしかいなかった。


「監察官殿」


「何だ」


「わたしから、提案してもよろしいでしょうか」


 クラウスの視線が書類から上がった。灰青の目がこちらを見る。無表情。だが、拒絶ではない。


「……聞こう」


 わたしは寝台の端に座り、持ち込まれた紙とインクを借りて書き始めた。


 罪状を一つずつ書き出す。「誹謗・侮辱」「衣装の汚損」「毒物混入未遂」。それぞれの下に項目を作る。


 いつ。どこで。誰が。何を。証拠は。


 前世のやり方だった。患者を受け持った初日に、まずカルテの問題リストを整理する。既往歴、現病歴、投薬内容、アレルギー、家族構成。全てを時系列に並べて、抜けている情報に印をつける。


 分からないことは、分からないと書く。空欄にこそ意味がある。


 書き上がった紙をクラウスに差し出した。


「──調査計画書、のつもりです。罪状ごとに検証すべき項目を整理しました。空欄が、今わたしたちに足りない情報です」


 沈黙。


 クラウスが紙を受け取り、目を通す。灰青の目が行を追うのを、わたしは黙って見ていた。


 長い沈黙だった。万年筆の先で紙の端を一度だけ叩き、それからクラウスは顔を上げた。


「……使える」


 短かった。たった一言。表情も変わらない。


 けれど──なぜだろう。その一言が、断罪の広間で浴びた何十もの冷たい視線より、ずっと重く感じた。


「では、この計画書に沿って進める。明日から告発者側の証拠開示を請求する」


「はい」


「それと──」


 クラウスが立ち上がりかけて、少しだけ間を置いた。


「貴女の私物が別室に運び込まれている。必要なものがあれば持ち出していい。ただし書簡の類は、先に私が確認する」


「分かりました」


 ◇


 私物は段箱に三つ分だった。


 衣服。装飾品。書籍が数冊。香水の小瓶。──どれも「わたしのもの」のはずなのに、見覚えがない。半年前に目覚めてからの記憶にあるものは一つもなかった。


(知らない自分の持ち物を漁るのは、退院した患者のロッカーを片づける時に似ている)


 いや、似ていない。これはわたし自身の荷物だ。わたしが選び、わたしが使っていたはずのもの。


 手が止まったのは、段箱の底から革表紙の手帳が出てきた時だった。


 開く。


 整った筆跡。──わたしの字だった。少なくとも、半年前から練習して覚えた自分の筆跡と、癖がよく似ている。


 けれど中身は手帳ではなかった。


 手紙だ。


 何通もの手紙が、宛先も差出人も記されないまま、束になって革表紙の中に挟まれていた。内容は断片的で、文脈が掴めない。「先日の件、承知しました」「三の鐘までに」「くれぐれもご注意を」──前後が分からない。誰に宛てたものなのかも、誰から届いたものなのかも。


(「前のわたし」は、何をしていたの)


 手紙の束を膝に置いて、窓の外を見た。


 夕暮れの空が、紫から紺へ変わろうとしていた。庁舎の中庭に魔法灯が一つ、淡い光を灯す。


 記憶がない。二年分の自分を知らない。


 この世界でのわたしが誰と話し、何を考え、何を選んできたのか──全部、空白だ。


 怖い、と思った。知らない自分が怖い。


 でも。


(前世では、受け持ったことのない患者のカルテを読んで、その人の容態を把握することが仕事だった)


 知らない人間の記録を読み解いて、今の状態を正確に把握する。それがわたしの十年間だ。


 なら──「知らない自分」のカルテを、わたしが作ればいい。


 日記。手紙。周囲の人間の証言。物証。全部集めて、時系列に並べて、空欄を一つずつ埋めていく。


 白紙のカルテに、わたしが情報を書き込んでいく。


 それだけのこと。


 わたしは手紙の束を丁寧に革表紙に戻し、机の上に置いた。明日、クラウスに確認を取ってから読み込もう。「書簡の類は先に確認する」という指示は守る。調査は正規の手順で進める。


 それが、前世でも叩き込まれたやり方だ。


 ──報告・連絡・相談。近道は、しない。


 蝋燭の灯を消して、寝台に横になる。


 見知らぬ天井。見知らぬ寝具の匂い。けれど不思議と、昨日までの公爵家の自室よりも、少しだけ息がしやすい気がした。


 理由は分からない。


 ◇


 廊下に、足音が止まった。


 監察官クラウス・フォン・ゼルデンは、角部屋の扉の前で一度だけ立ち止まり、明かりが消えたことを確認した。


 手元の調査計画書を、もう一度見下ろす。


 罪状ごとに整理された検証項目。空欄の位置が正確で、余計な推測が一つもない。感情を排して、事実の骨組みだけを抜き出す手つき。自分が書いたのかと思うほど、構造が似ていた。


「……セラフィナ、か」


 呟きは、ごく小さかった。


 廊下には誰もいない。角部屋の扉の向こうからは、もう物音ひとつ聞こえなかった。


 クラウスは調査計画書を外套の内側にしまい、自分の執務室──角部屋よりずいぶん狭く、日当たりの悪い小部屋──に向かって歩き出した。

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