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悪役令嬢は覚えてない  作者: 九葉(くずは)


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第10話 報告書の訂正

インクと、焼き菓子の甘い残り香。


目を覚ましたとき、最初に気づいたのはその匂いだった。もう何日もこの部屋で朝を迎えているのに、今朝はやけに鮮明に鼻を突く。


──今日で、最後だから。


窓から差し込む朝の光が、簡素な寝台と小さな机を照らしている。机の端に、焼き菓子の包み紙がひとつ。棚の上に、借りたまま返しそびれた鵞ペン削りがひとつ。


わたしの私物は、ほとんどない。


ここは監察官の──クラウスの部屋だった。調査の初日から、この人は自分の部屋をわたしに明け渡して、自分は執務室の長椅子で寝ていた。当時は「庁舎に客間がないから」という説明を、そのまま信じた。


(……本当に、それだけだったのかな。)


考えても仕方のないことを考えている。荷物をまとめなければ。父が迎えの馬車を寄越す手筈になっている。


着替えを畳む。日記を鞄に入れる。公爵家の紋章入りの便箋は、一枚も使わなかった。使う相手がいなかったから──いや、違う。手紙を書きたい相手は、廊下の向こうにいたから、書く必要がなかった。


鞄の口を閉じた。


部屋を見回す。


簡素な壁。窄い窓。寝台の毛布は薄くて、冬の朝は少し寒かった。


それでも。


──ここが、好きだった。


扉を叩く音がした。


「入る」


クラウスの声。相変わらず、前置きがない。


扉が開いた。革の書類鞄を手にしたクラウスが、敷居の上に立っている。


「報告書の最終稿だ」


一冊の冊子を差し出す。表紙に《調査報告書──セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク嬢に対する不当断罪の件》と記されている。厚さは指二本分。十日余りの調査の、すべてが詰まっている。


「確認して署名を。公爵閣下にも写しを送付する」


事務的だった。


いつもと同じ。淡々として、無駄がなくて、感情の欠片も見せない。


──いつもと、同じはずだった。


けれど。


報告書を手渡す際、クラウスの指がわたしの指にほんの一瞬触れて──その手が、引っ込められるのが、いつもより遅かった。


ほんの一拍。


それだけの違い。けれどわたしは、この十日余りでこの人の「一拍」の意味を知ってしまっている。


「……ありがとうございます」


「礼には及ばない」


クラウスが踵を返しかけて、止まった。


ドアノブに手をかけたまま、背中を見せている。何か言おうとしているのか、言うのを止めたのか。


三秒。


「──公爵閣下の馬車が到着したら、知らせる」


それだけ言って、出ていった。


残されたわたしは、報告書を胸に抱いたまま、閉じた扉を見つめていた。


(……何か、言いたいことがあったんじゃないの。)


訊けなかった。訊く理由が、もうないから。


調査は終わった。名誉は回復された。わたしがこの庁舎にいる根拠は、もうどこにもない。


報告書の表紙を指でなぞった。丁寧な筆跡。一画の乱れもない。わたしの名前を書いたあの万年筆と、同じ手で綴られた文字。


署名欄に、羽ペンでゆっくりと名前を書いた。


インクが乾くのを待つ間、窓の外を見た。


晴れていた。嫌になるくらい、良い天気だった。


   ◇


庁舎の玄関前に、公爵家の紋章を掲げた馬車が停まっていた。


御者の隣に、父──ルートヴィヒ公爵の姿がある。馬車から降りた父は、わたしの顔を見て、眼鏡の奥の目を細めた。


「セラフィナ。元気そうだな」


「……ええ。おかげさまで」


父の手が、わたしの頭にぽんと置かれた。不器用な仕草だった。学者肌の父は、昔から感情表現が得意ではない。


(……この不器用さ、誰かに似ている。)


いや。今はそんなことを考えている場合ではない。


鞄を馬車に積み込もうとしたとき、庁舎の影から一人の男が歩み出た。


端正な横顔。金の髪に、蒼い瞳。


王太子レオンハルト。


わたしの足が止まった。


父の表情が強張る。けれどレオンハルトは、護衛も従者も連れていなかった。一人で、ここに来ている。


「ヴァイスブルク嬢」


声は硬かった。けれど──傲慢さは、なかった。


「断罪の場で、私は証拠もなくあなたを裁いた。呪術の影響があったとはいえ──それは私の責任だ」


沈黙。


レオンハルトが、頭を下げた。


深く。王太子が公爵令嬢に頭を下げるという、本来あり得ない角度で。


広場の空気が張り詰めた。


わたしは──。


「殿下」


静かに言った。


「お気になさらず」


嘘ではなかった。恨みがないと言えば嘘になる。けれど、目の前の人間が頭を下げるまでにどれほどの葛藤があったかは──看護師だった前世のわたしには、想像がつく。自分の過ちを認めるのは、誰にとっても一番難しい治療だ。


「呪術の被害は、あなたにもありました。……どうか、ご自身を責めすぎないでください」


レオンハルトが顔を上げた。蒼い瞳が、一瞬だけ揺れた。


「……感謝する」


短くそう言って、レオンハルトは踵を返した。去っていく背中は、断罪の場で見たときより少しだけ小さく見えた。


父が、眼鏡を直しながら呟いた。


「……立派になったな、セラフィナ」


「やめてよ、恥ずかしい」


鞄を馬車に押し込む。さあ、乗り込もう。帰ろう。公爵家の屋敷に。自分の部屋に。自分の日常に。


──帰ろう。


足が、動かなかった。


馬車のステップに手をかけたまま、わたしは振り返った。


庁舎の入口に、クラウスの姿はなかった。


当然だ。報告書は渡した。署名も済んだ。「最後の職務」は完了している。見送りに来る理由がない。この人は、理由のないことをしない。


(……分かってた。分かってたけど。)


馬車に足をかけた。


   ◇


庁舎の二階の窓から、マティアスは公爵家の馬車を見下ろしていた。


その隣で、クラウスが立っている。


報告書の控えを手にしたまま、微動だにしない。視線は馬車に向けられている。──正確には、馬車のステップに足をかけたセラフィナの背中に。


「……行かないんですか」


マティアスは訊いた。


返事はなかった。


セラフィナが馬車に乗り込もうとしている。あと数秒で、扉が閉まる。


「監察官殿。報告書の訂正って、確か追加提出が認められてますよね」


クラウスが、ようやくマティアスを見た。


「──訂正?」


「何か、書き漏らしたことがあるんじゃないですか」


マティアスは窓の外を指した。


馬車の扉に、セラフィナの手がかかっている。


クラウスの目が──変わった。四年仕えて、マティアスが一度も見たことのない色が、その灰色の瞳に浮かんだ。


報告書の控えが、机の上に落ちた。


革靴が床を蹴った。


(──万年筆じゃなくて、足を使うのは初めてだ。)


マティアスは窓辺から、階段を駆け下りていく背中を見送った。


   ◇


「──待ってくれ」


背後から、足音が聞こえた。


石畳を打つ革靴の音。速い。乱れている。この人のものとは思えないほど、乱れている。


振り返った。


クラウスが、庁舎の扉から飛び出してきていた。


外套の裾が乱れ、髪が額にかかっている。息が荒い。いつも姿勢の正しいこの人が、走ってきたのだと──見れば分かった。


「……監察官殿?」


「一つ、報告の訂正がある」


息を整えもせず、クラウスが言った。


「訂正……?」


「調査の過程で、職務を逸脱した事実が一件ある。報告書には記載しなかった」


何を言っているのか、一瞬分からなかった。


クラウスの灰色の瞳が、わたしを真っ直ぐに見ていた。いつもは逸らす。書類を見る。壁を見る。窓の外を見る。──わたしの目を、こんなふうに見たことは、一度もなかった。


「あなたの隣にいたいと思った」


声が低かった。半音ではなく──もっと。喉の奥から絞り出すような、不器用な低さだった。


「これは、職務ではない。報告書に書けなかった。……書き方が、分からなかった」


馬車の傍で、父が眼鏡の位置を直している。御者が空を仰いでいる。二人とも、こちらを見ないふりをしてくれていた。


わたしの視界が、また滲んだ。


今度は我慢しなかった。


「……報告書に書けないなら」


声が震えた。泣き笑い。こんな顔、貴族令嬢にあるまじきものだと分かっている。でも、もういい。


「直接言ってくれて、よかった」


わたしは、手を伸ばした。


クラウスの手を取った。革手袋の上から。あの日、わたしの手を包んでくれた手を──今度は、わたしから。


その手が震えていた。あの夜、執務室でわたしの手を包んだ後に震えていたのと、同じように。


「わたしも」


握り返した指に、力を込めた。


「わたしも、あなたの隣がいいです」


クラウスの目が、ほんの僅かに見開かれた。


それから──灰色の瞳に、見たことのないものが浮かんだ。怒りでも、無感情でもない。名前をつけるなら──。


ああ。


こういう顔をする人だったのだ。


笑うときは、目元からほどけるのだ。


口は相変わらず真一文字のまま。けれど目元だけが、わたしが知らなかった柔らかさで──ほどけていた。


「……了解した」


それだけ。


それだけなのに、わたしの手を握り返す力が、何よりも雄弁だった。


庁舎の二階の窓で、マティアスが腕を組んで笑っているのが見えた。


父が咳払いをした。


「……そろそろ、馬車に乗るか。二人とも」


二人とも。


父はもう、分かっているのだ。学者肌の目は、こういうとき妙に鋭い。


わたしはクラウスの手を離さないまま、馬車のステップに足をかけた。


クラウスが──一瞬だけ迷うように足を止め、それからわたしの後に続いた。理由のないことをしない人が、今、理由もなく馬車に乗り込もうとしている。


いや。


理由なら、ある。


繋いだ手のひらの、革手袋越しの温もりが、それだった。


春の陽射しが、王都の石畳を明るく照らしていた。


馬車が動き出す。窓の外を、監察官庁舎の古い煉瓦の壁が流れていく。インクと紙の匂いが染みついた、あの小さな庁舎が。


隣に座るクラウスが、窓の外を見ている。その横顔は、いつもと変わらない。


けれどわたしたちの手は、まだ繋がれたままだった。


──報告書には書けないことが、きっとこれからも増えていく。


それでいい、と思った。

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