第1話 証拠を見せてください
「──セラフィナ・フォン・ヴァイスブルク。貴女を、聖女リゼット殿に対する害意と暴虐の罪で断罪する」
声が、王宮大広間の天井に反響した。
高い。天井が、やけに高い。
見上げたのはほんの一瞬だった。すぐに視線を前に戻す。金の肩章をつけた青年──王太子レオンハルト殿下が、巻紙を広げてわたしを見下ろしていた。
その目には、怒りがある。純粋で、疑いのない、正義の怒り。
わたしはそれを、随分と遠くから眺めていた。
「第一の罪。貴女は聖女リゼット殿に対し、社交の場で繰り返し誹謗と侮辱を行った」
覚えていない。
「第二の罪。王宮舞踏会において聖女殿の衣装を故意に汚損し、公衆の面前で辱めた」
覚えていない。
「第三の罪。聖女殿の食事に毒物を混入しようとした」
──覚えていない。何ひとつ。
大広間には五十人を超える貴族が列席していた。どの顔も冷たく、あるいは好奇に染まり、こちらを見ている。華やかなドレスと勲章の群れ。その中に、同情の色はひとつもない。
当たり前だ。わたしがどんな人間だったか、わたし自身が知らないのだから。
半年前のことだった。
高熱に倒れて三日三晩意識を失い、目が覚めた時──わたしの頭の中には、この世界ではないどこかの記憶があった。白い廊下。消毒液の匂い。ナースコールの音。カルテの束。電子モニタに映る心拍数のグラフ。
十年間、大学病院で看護師をしていた女の記憶。
そして代わりに、この世界での直近二年間の記憶が、きれいに消えていた。
(……落ち着いて。情報を整理しなさい)
身体の芯が震えそうになるのを、息を止めて堪える。前世の癖だった。患者が急変した時、まずやるのは叫ぶことじゃない。バイタルを見る。事実を確認する。
──今、わたしの目の前にあるのは何?
罪状が三つ。読み上げた人物は王太子殿下。列席者は敵意を持った貴族たち。
そして、わたしにはその罪を犯した記憶がない。
ないのだ。文字通り、一欠片も。
王太子殿下の隣に立つ少女が目に入った。淡い金髪を垂らした小柄な少女。聖女リゼット殿。こちらを見つめるその表情は──怒りでも憎しみでもなく、戸惑いに近かった。
不思議な顔だ、と思った。わたしを害した側のはずなのに、なぜあんな顔をしているのだろう。
王太子殿下の背後に控える青年がいた。赤みがかった茶髪を整えた、洗練された佇まい。侯爵令息ヴィクトル・フォン・レーヴェンシュタイン。わたしの記憶にはない人物だったが、王太子殿下の傍らに立つ位置取りから、信頼の厚い側近なのだろうと推察できた。
彼はうっすらと微笑んでいた。
「セラフィナ。何か申し開きはあるか」
王太子殿下がわたしに問う。
申し開き。弁明。──その口調から察するに、ここで期待されている反応は二つだ。泣き崩れて許しを請うか、怒りに任せて叫ぶか。どちらにせよ、罪を認めた上での感情的な反応。
看護師はどちらもしない。
患者の容態が分からなければ、まずカルテを確認する。カルテがなければ、検査を依頼する。それだけのこと。
「……申し訳ありません、殿下」
わたしは深く息を吸い、広間に響くよう声を出した。
「本当に覚えていないのです。ですので──」
一拍、置いた。
「証拠を見せていただけますか」
静寂。
広間の空気が、凍った。
五十人を超える貴族が一斉に息を止めたのが分かった。王太子殿下の瞳が大きく見開かれる。リゼット殿が小さく口を開けた。レーヴェンシュタイン侯爵令息の──ヴィクトルの微笑みが、一瞬だけ固まった。
そして列席者のあちこちから、衣擦れの音と囁きが漏れる。
(……おかしなことを言っただろうか)
ただ、事実の確認を求めただけだ。患者の所見に疑問があれば、検査データの提出を求める。それと同じ。それだけのこと。
なのに、誰もが驚いている。
「証拠……だと?」
殿下の声が低くなった。
「私がこの目で見たのだ。貴女が聖女殿を苦しめる姿を」
「恐れながら、殿下。殿下の御記憶を疑うつもりはございません。ただ──わたしには覚えがないのです。覚えがない以上、事実を示す証拠によってのみ、わたしは自分の罪を受け入れることができます」
震えなかった。声も、手も。
嘘だ。本当は震えそうだった。けれど、もう十年以上も前から──前の世界で患者の前に立つたびに、この身体の使い方だけは覚え込んでいた。
動揺を、出さない。
「書簡がある」
声を上げたのはヴィクトルだった。落ち着いた声音。「セラフィナ嬢が聖女殿への害意を記した書簡が、証拠として提出されています」
書簡。──それは確かに「証拠」と呼べるものだ。
「拝見できますか」
「……今、この場には持参していないが」
「そうですか」
一瞬の沈黙。広間の端で誰かが咳払いをした。
──証拠があると言いながら、手元にない。
列席者の空気が微かに変わるのを、わたしは感じ取った。冷たい敵意の中に、ほんの少しだけ、別の色が混じる。疑問。
「……面白い」
声は広間の側面から聞こえた。
静かな声だった。低く、抑制されていて、けれど不思議と耳に残る。先ほどまでの誰の声とも違う温度。
柱の傍に立つ男がいた。黒に近い濃紺の外套。飾り気のない身なり。灰がかった青い目が、まっすぐにこちらを見ていた。
「宮廷監察官クラウス・フォン・ゼルデンだ」
名乗りは簡潔だった。
「告発に対し被告発者が証拠の提示を求めた。監察官として、これは審理の要件を満たす。──私が調査を引き受ける」
「ゼルデン男爵、出過ぎた真似を──」
殿下の声に苛立ちが混じる。けれどクラウスと名乗った男は、一歩も退かなかった。
「監察官の審理開始は国法に基づく職権です、殿下。告発に対し被告発者が証拠精査を求めた以上、審理に入ることは妨げられません」
淡々としていた。感情のない事務連絡のように聞こえるのに──あの「面白い」の一言だけが、別の人間の声のようだった。
口元が微かに緩んでいたのを、わたしは見た。微笑みと呼ぶには薄く、けれど確かにそこにあった。
(……変わった人だ)
広間が一斉にざわめく。列席者の何人かが互いに目を見交わし、囁きが重なっていく。
「証拠もなしに、あの場を設けたのか……?」
「監察官が動くとは。王太子殿下の告発に疑義ありということでは」
「しかし聖女殿が被害を……」
断罪は、保留になった。
正確には──王太子殿下の告発に対し、宮廷監察官が「証拠精査のための審理開始」を宣言したことで、断罪の確定手続きに進めなくなった。
セラフィナ・フォン・ヴァイスブルクは、審理の間、宮廷監察官の管理下に置かれる。
それが、この場の結論だった。
◇
大広間を出る時、わたしは振り返らなかった。
背筋を伸ばして、まっすぐ歩いた。足音を一定に保って、廊下の石畳を踏んだ。
看護師の歩き方だ。患者が見ている前では、決して走らない。決して慌てない。
(──覚えていない。何も覚えていない)
胸の奥が冷たい。この身体で過ごした二年間が、ぽっかりと暗い穴のように空いている。その穴の中に、わたしが犯したという罪があるのかもしれない。ないのかもしれない。分からない。
分からないなら──調べるしかない。
カルテがないなら、作ればいい。
背後から、もうひとつの靴音が聞こえていた。
一定の間隔。乱れのない歩調。わたしの歩幅に合わせるでもなく、離れるでもなく、ただ正確に、ついてくる。
監察官の足音だった。




