メイド令嬢は毎日磨いていた石像(救国の英雄)に求婚されていますが、粗大ゴミの回収は明日です
「……僕と結婚してほしい」
不意にほどけた唇から紡がれる甘やかな音に、エセルは石像のように固まった。
右手に磨き布、左手に研磨剤を持ったまま。初めての告白はもっとロマンチックな状況が良かった――いや――それよりも。
「せ、石像が……動いた」
目の前にいるのはたった今の今まで、石像だった。
会話はそういう魔法がかかっているから、魔法を使えるのも何かの魔法のおかげ。……でも、人間に戻るのはあり得ない。
エセルが固まっているうちに、再び彼のローブがふわりとなびき、その下の足がゆっくりと動く。踵が地面を蹴り関節が動いているのが分かる。
……まるで、人間みたいに。
彼は背後に回り、両手まで動いて、ピンの外れた彼女の黒髪を器用にまとめ上げていく。
滑らかな指が地肌に触れれば確かに生身であることを実感する。痛みが全くなく優しい触れ方は心地良くて、いつか遠い昔に母親にそうされた時のことを思い出す。
それでもエセルは常識を手放そうとしなかった。
黒い瞳で背後を見る。
「……あのね、あなたは人間の形はしてるけど、石像でしょう。大理石。石。
石像と結婚なんて聞いたことないし、ええっと最近は結婚式挙げる人もいるらしいけど、籍とか、遺産相続とか、それに私はまだ学生したいし――」
それになにより。
「――粗大ゴミの回収は明日です!」
血色を帯びた彼の頬に貼られた手製のシールには、エセルの筆跡で「魔法資源局回収番号:1171153」の文字がでかでかと書かれていた。
***
――食堂からインクの香りが漂えば、窓を開けて良いという合図。
お屋敷メイドのエセルは、白いエプロンとキャップのリボン、黒いメイド服の裾をひるがえして次々に部屋を巡っていく。
「おはよう、エセル。今日もよろしく頼むよ」
「おはようございます、伯爵様」
食堂。食後に広げられた皺のない新聞の脇から、眼鏡をかけた白髪の男性がちらりと、窓を開けていく彼女の背を見る。
穏やかなこの70過ぎの老人が、雇い主であるメイウェザー伯爵だ。数年前に引退して今は悠々自適な老後を送っている――たったひとつの問題を除いて。
「君が来てから三ヶ月。どうやら冬が来る前にこの家のガラクタも全部片付きそうだ。……それで一昨日の外出ついでに、ようやく魔法資源局に粗大ゴミの回収を申し込んでね」
「最近は魔道具の普及で、待ち時間も長いそうですね。どうでしたか?」
「一週間後に引き取りに来てくれる予定だ。それから、よほどのモノじゃなければこれで解決できるそうだよ。役立つといいが」
老人は隣に立つ――年の変わらぬ老執事に目配せをすると、執事はシールの束をエセルに差し出す。表面に描かれた複雑な魔方陣には魔力がこもっている。勝手に暴走し始めた魔道具などに使うものだが、見たことがない青色だった。
「珍しいだろう? 資源局の知り合いに相談したら、強力だというのを譲ってもらったんだ。それで無理なら宮廷魔術師でも呼んでくるほかなさそうだが」
「頑張ってみます」
ありがとうございます、とエセルは礼を言って受け取ると場を辞した。
十数ある部屋のほぼ全てを開け終えると、秋の朝のひんやりとした空気が、まだ埃の臭いが微かに残る屋敷に流れ込んでくる。
見上げた空は、昨日までの雨が嘘みたいな、天高く澄みわたった絶好の掃除日和だった。屋敷を初めて見た時と同じ、いい予感がする。まるで彼女を祝福しているかのようだ。
「今日は、いけそうな気がする」
エセルは新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。それから右手に細く短い魔法の杖を、左手に掃除道具入れを抱え直し、気合いを入れて無人の玄関ホールに突入した。
子どものいない老伯爵と少数の使用人が住む、王都郊外の屋敷。伯爵が仕事を引退してからは訪れる者が殆どないせいで、そこは半ば物置と化している。
特に二階へ続く階段の裏は、人目に付かないせいで、色々なものがまだ押し込まれていた。何回も挑んでは敗北している場所だ。
エセルは彼らに相対し、指揮者がタクトを構えるように杖先を持ち上げた。
「さあ、今日の今日こそはガラクタを全部、庭に追い出して、無力化して、粗大ゴミシールを貼って――」
「やあ、おはようエセル」
「――何が何でも、回収日には屋敷を出ていってもらわないと」
“ガラクタ”の中からする爽やかな声を無視して、エセルはハタキと箒と雑巾をふわふわと展開させた。そうして意識を集中させ、曲の始まりを告げるように杖を振るうと、それらが一斉に“ガラクタ”の中央に立つ石像に突進した。
すると、石像が淡く光り――、
「お構いなく。君が頷いてくれるまではここにいるつもりだからね」
像に触れる直前、ぱしん、とハタキと箒と雑巾が弾かれて、また声がした。
何度こんな攻防を続けただろうか。この石像は他者の魔法を受け付けてくれない。
エセルは眉をひそめると杖を振って道具を宙に立て直し、代わりに他に林立する壺や妙な形のモニュメントを掃除させる。自身は大ぶりのブラシを手に取った。
「……綺麗になったら、必ずどうにかして外に出すから」
エセルはますます眉をひそめて石像の前に立った。実は不本意なことに、気が緩むと見惚れそうになるのだ。
……どんな芸術家が精を込めたら、こんな精巧な像を彫れるのだろう。髪の一筋一筋が、布のヒダが美しい。以前国立美術館で見たものと同じクラス――芸術品としてはまず間違いなく、一級だ。
大理石でできた秀麗な顔を、長い髪から覗かせた二十代半ばほどの青年。ゆったりとマントとローブをなびかせ、片手に長い杖を持つ、伝説の魔法使いレオナルド・メイウェザー――モデルは現伯爵の、そのまた何代か前の伯爵だという。
しかし、これはただの石像ではなかった。
妙な意思や魔法が付与されている――つまり、おいそれと処分できない厄介な魔道具、粗大ゴミでもあったのだ。
「それともやっぱり、君が自ら掃除してくれるのかな」
「石像が話すはずない、石像が話すのは異常……ただの魔法、ただの魔道具……」
エセルは自分に言い聞かせながら、ブラシを滑らかな石肌に近づけた。毎日の掃除でだいぶ綺麗になったが、まだ膝下は黒いもので覆われている。単なる土でも、泥でも苔でもない。
パリパリと剥がれるそれは水に少し溶けるが油分がだいぶ含まれている見知らぬ物質だ。やや血液に近いと思うが、確実に人のものではない。
「なんで掃除してくれるの?」
「ゴミ回収の決まりだから……どこに機構や、損傷した機構が隠れてるか分からないから。可能な限り綺麗にして出すことになってるの」
「頑張るのはいいけど、そんな怖い顔をしなくても」
「抵抗しなかったら、さっさと終わってたのに。……ううん、これはひとりごと、会話じゃない。ああ早く魔法資源局に引き取ってもらわなくちゃ」
別の毛の長いブラシをわざと顔に当てて――それでも一応年代物の美術品なので、慎重に擦っていく。
途中で、わざと目の辺りを重点的に擦った。ちょっと止めて欲しいとか懇願が聞こえるのをいいことに、左手で粗大ゴミシールを貼ろうとする。
しかし、石像の表面に張った魔法の輝きがそれ以上の侵攻を阻んだ。
エセルもまた魔力を手に集めて干渉を跳ね返そうとするが――無駄だった。
今まで見てきた魔法のかかった美術品とは桁違いだ。そもそもそんなに簡単だったら、彼女が雇われることはなかっただろう。
「あっ、粗大ゴミシールが……!」
勢い余って手から飛んでいったシールを掴もうとして、エセルは振り返った。
慌てて走りだしたエセルは、足元の掃除道具入れに躓き、転びかけて――ふわり、と体が浮く。背中が暖かく魔法に包まれ、まるでお姫様抱っこされたような状態だ。
その手のひらにひらりひらりと、粗大ゴミシールが落ちてくる。
「お礼は言わない。あなたのせいだから」
エセルが思わずにらみ返せば、石像は無表情のままに陽気な声がホールに響いた。
「お礼はいらないよ。大事なエセルに怪我はさせられないからね。僕は、君に引き取ってもらわないといけないから。……絶対にね」
***
メイドのエセル――エセル・エヴァット男爵令嬢は、二つの意味で世間に名が知られている。
ひとつめは、金遣いの荒い実家から追い出された可哀想な令嬢として。
ふたつめは、何でも綺麗にしてしまう凄腕メイドとして。
エセルは、男爵家の令嬢でありながら殆ど平民と同じ生活を送っていた。
元々土地持ちでないエヴァット男爵家の収入は、父親の王宮勤めの給料だけだった。騙されやすい父親があちこちに金を貸したせいで、貴族の体面を辛うじて保っているという具合だったが、最後に引っかかった特大の詐欺が、金遣いの荒い未亡人との再婚だ。
その女は――エセルにとっては、死んだ母だけが母だ――貞淑で慎ましい女のふりをして父親と結婚してしまうと、本性を現して収入に見合わない贅沢を始めた。……といっても、あちらもエヴァット家の資産を見誤っていたようだが。
ともかくエセルが義務教育を終えた頃、母が貯めてくれていた学資金がきれいさっぱりなくなっていることを知った。
「このままでも、来年には復学できそうなんだけどな……」
翌日の昼。
エセルは自室で、ノートに連なる数字を睨みながらぼやく。
いい年齢なんだから自分で稼げ、と追い出されることを見越していた彼女は、義務教育中に必死に勉強して、奨学金を得た。
けれど大学生になり生活費や教科書代にバイトを増やせば、成績は転げ落ち、単位も奨学金も落として、遂に休学してしまったのだ。学生寮も当然のように追い出され――そうして、もう丸二年、メイドとして暮らしている。
エセルの専攻は、日常に役立つ魔法と魔道具。それに一応貴族の身分ではある。だから(体面さえ気にしなければ)貴族のお屋敷の掃除と、ちょっとした魔道具の修理もする便利なハウスメイドとして渡り歩き……辿り着いたのが、今のメイウェザー伯爵邸だ。
子孫も親戚もない高齢の伯爵は、家事がからっきしで、ため込み屋。いわゆるゴミ屋敷の住人だった。使用人が最低限の掃除をしていたが、先祖代々の美術品、魔道具含めたガラクタや自身がため込んだ書籍に書類、趣味の道具に埋もれて暮らしていた。
そんな彼が思いきってメイド令嬢として知られるエセルを雇った理由は、ひとえに年齢である。「終活」を意識して、すっきりして余生を過ごしたい、というのだ。
「紹介してくれた奥様が『終活だからお給料もいいのよ』って仰ってたけど……魔道具は別途手当が出るんだよね」
モノで埋まった屋敷から、明らかなゴミを捨てるのに一週間。各部屋の、窓への獣道を作るのに更に一週間。各部屋の床を出すのに更にひと月。
ここに来てしばらくは、多くの部屋がモノで埋め尽くされて文字通り足の踏み場もなかったのだ。朝の光にキラキラと舞う細かい埃と、通路と窓を一直線に繋ぐガラクタの獣道を開拓してここまで来たのだと思うと少し感慨深い。
しかし、屋敷の執事、メイドと協力しつつ奮闘して、各部屋を「散らかってるけど許容範囲」な部屋にして、さて貴重品に取りかかるか――といったところで、まさか、ガラクタ抵抗してくるなんて。
「あれが貰えたら、当分バイトしなくて済むんだけど」
「……うちらを売るってのは考えてないのー?」
腕を組んで頭を捻ると、目の前に飾ってある一枚の油絵から声がした。いつかの先祖の親戚の少女の絵だ。教師にピアノを指導されており、心なしかふくれっ面をしている。
本人? によると、ご先祖様はどうやら寂しさに耐えかねて、疑似会話の魔法をかけたらしい。
メイウェザーは代々魔法が得意な家系だったようで、今の伯爵も魔法絡みの法律に関わる仕事をしていた。
「昔の魔法は今ほど体系化されてなかったから。動作保証されてないし、安全基準も厳しくなったの。最近は疑似会話に特化した魔法を、ぬいぐるみや人形にかけた方が売れるのよ」
「研究所でいじくりまわされたあげく、暗くて冷たい倉庫に閉じ込められるなんて、嫌なんですけどー。どうせなら、どっかのイケてるお屋敷を紹介してくれない?」
額縁をガタガタ鳴らしそうな勢いで入った抗議に、エセルは肩をすくめただけで聞き流すと、続いて扉が激しく叩かれる。
エセルが眉をひそめて立ち上がり扉を開ければ、目の前に物騒な槍を持った金属鎧が立っていた。
「おい、ここのところ、物置部屋の掃除を怠けてるんじゃないか」
「あの石像の相手で手一杯だったのよ。それに大人しく掃除されてくれないじゃない」
銀の面当ての上にほんの少し積もった埃。出会った時には気にしなかったくせに、一度磨かれたら癖になったらしい。
「掃除はな、綺麗にするためじゃない。そもそも汚れないためにするんだろう?」
「ああもう、何でここの魔道具はどれもこれもおしゃべりなのかしら」
仕方なく雑巾を手にしてエセルがごしごし拭いてあげると、予想通りにすぐさま身をよじり始める。
「あっ、もっと丁寧にしろ! くすぐったい!」
「早く終わらせたいなら、大人しくしなさい……!」
一人と一体がもみ合っていると、突如鎧の右腕が動き、槍の石突きが無造作に振り上げられ――どん、と頭の横に突き立てられた。
エセルは慌てて槍を退けると、漆喰の壁に手を滑らせてへこみがないことを確認する。修理で給与が引かれたら困るのだ。
「危なっ……掃除を頼みに来るなら槍は置いてきなさい、というより動けるなら自分で拭けるでしょう。こんなことだから粗大ゴミ扱いにされるんじゃない」
エセルが抗議すると、鎧は槍ドンしていたそれをおずおずと引っ込めた。
「……悪い。俺たちも久しぶりに、人間に構ってもらってついはしゃいじまったんだ」
「魔道具はね、普通は勝手に動かないものなの。掛けられた魔法が暴走しない限りね。それに自由に喋らない。そんなだから伯爵も困ってたんでしょう」
正確には、代々の伯爵家が困り果てていたのは魔道具だけでなく屋敷丸ごと、である。
この屋敷は例の石像のモデルであった魔法使いレオナルドが建てたもので、彼の魔法があちこちにかかっているという。
多くは害のないものだが、現伯爵もその全てを把握しきれていない。
「私だって本当は、せっかくの話せる魔道具を破壊したり、無理矢理封印したくはない……分解は、ちょっと興味あるけど」
今までエセルは、暴走する“自動給湯”ティーポットや“空飛ぶ”椅子を、修理したり、時には破壊するなり封印するなりして処分してきた。
まれに、自律して本当に意思疎通できる魔道具もあると聞くが、それらは古く強い魔法による超高級品だ。決して伯爵邸で埃を被っているようなものではない。
「うわヤバ、そんなこと考えてたのー?」
「ほんの少しだけよ。だって依頼主は伯爵で、依頼は片付けなんだから」
「エセルは約束してたよね、『伯爵がいつお亡くなりになっても掃除は完璧にこなしてみせます』って」
「ええ。仕事で遺体を発見した経験ならもうあるし、伯爵はいい人でしょう」
エセルは返事をして、それが例の石像の声だと気付き、ぎょっとする。槍ドンしていた鎧の横辺りだ。鎧が「俺じゃない」というように首を振る。
「ああこれは、声を風の精霊にお願いして届けてもらって――じゃなくて、君にお客さんだよ、エセル。先に教えておこうと思って」
「お客さん……?」
エセルは首を傾げつつ廊下の窓から身を乗り出す。二階の窓、まだもさもさと生い茂った庭木の向こうの鉄扉に、辻馬車で乗り付けたドレス女性の姿が見えた。
「あれは……あの女……」
しばらく見ていなかったが、ピンク色の花をたくさん飾った少女趣味な帽子は間違いない。どうやって勤め先を知ったのか――前の勤め先の屋敷の夫人も悪い人ではなかったが、少々おしゃべりな友人か使用人でもいたのだろう。
窓から身を離して考え込んでいると、程なくして廊下の奥から執事が現れた。
「エセルさんにお客様ですよ」
「……それは、母でしょうか」
「ええ。バセット男爵夫人です。どうやら相続に関わる大事な話だそうで、応接間にお通ししております。どうされますか」
伯爵には実家の事情は話してある。会いたくない、といえば追い返してくれるだろうが、あの女がしつこいことは身をもって知っている。
「相続か……簡単に追い返すにはちょっと厄介だね」
宙から石像の声がした。執事がびくっと、ほんの一瞬肩を震わせた。
「……この声は?」
「玄関ホールのあのレオナルド様の像の声です」
「……そうですか」
エセルは彼をプロだなと感心しつつも、何度も訪ねてくるたびに、高齢のこの執事に応対させるのは――いらぬ心労をかけるのは忍びないと思う。
「分かりました、会いに行って断ってきます」
「何も聞いていないうちにですか……?」
「ろくな提案でないことは分かってますので。対応はまた別途考えます」
エセルは掃除用の白いキャップとエプロンを外してから、足早に応接間に向かう。
そして無人になったエセルの部屋に鎧が入り、壁の絵画を抱えて出てくると、その後を追った。
執事は再び一瞬だけ目を丸くしたものの、丁寧に部屋のドアノブを閉め――彼もまたお茶を運ぶため、応接間に向かった。
***
「エセルさん、メイドの制服がとっても似合ってらっしゃるのね。元気にしていらして良かったわ……」
ソファの上で、書類上の義母は微笑んでから、わざとらしく咳き込んだ。
童顔の彼女が、メイクにわざと寒色を乗せて不健康そうに見せているのを、向かい合って座るエセルは知っている。
「体調が優れないようでしたら、どうかお引き取りください」
「心配してくれるのね、優しいわ」
「高齢の伯爵のお屋敷に、病原菌を持ち込んで頂きたくないので」
「まあ、そんな……家を出ている間に、ずいぶんと口汚い人に感化されたのね」
羽根扇を開いてか弱そうに泣いても、無駄だ。以前に比べれば逞しくなったのだ、とエセルは心の中で反論する。
実家では、増え続けるモノとどんどん狭くなる居場所しかなかった。
けれど外では、掃除すればするだけお金と居場所が増えて快適になっていくことを知ったから。
「……まあいいわ、今日はエセルさんに縁談を持ってきたの」
義母は顔をまだ半ば扇で隠したまま、厚い紙に挟まれた何やらを、二人の間に置いた。
「夫と――エセルさんのお父様と話し合ってね、養子を取って男爵位はその子に継がせることにしたの」
「……相談もなしに?」
は? と咄嗟に口に出さなかった自分を褒めてほしい、とエセルは思った。
形だけとはいえ、爵位は爵位だ。女はこの国で爵位を継げない決まりだが、順当に行けば彼女の夫となる人物が得ることもでき――利用するかしないかに関わらず、将来の武器になるはずだった。
貧乏学生暮らしで得た教訓として、ボロ布も何でも、使えるものは使ってみる主義である。
「平民だけど見込みのある子でね」
「どうでしょうか」
「まあそれはいいのよ。エセルさんもそれじゃあ不憫だから、代わりに将来のために、この人をね――ほら見てちょうだい」
ひらり、開かれた書類には名前と年齢と小さな肖像画。
タイミングをあえて合わせたのだろう。二人の前にお茶を差し出した執事が視線をやって、ほんの小さくむせかけたのをエセルは耳ざとく捉えた。
この釣書の男、牛と張り合って破裂したヒキガエルみたいな男の名前なら、新聞で時折見る。結婚欄と死亡報告欄――死亡は、その妻が。もう何回も。
「商会経営……55歳?」
「爵位がないから、お相手の教養も礼儀も気になさらないんですって。あなたの肖像画をお見せしたら気に入っていただいて」
若い女を娶ってはいじめ殺している、なんて噂がある男だ。どうやら相当の金をどこかに積んで捜査を回避しているとかなんて話も、前の勤め先で、ご婦人方が話しているのを聞いたことがある。
――いや、それよりも。
(それはとっても、ありがたいお話ですね)
「教養も気になさらない……? 学費を使い込んでおいて言うに事欠いてそれですか。前妻の貯金で買ったネックレスがよくお似合いですね」
……あ、と、エセルが思ったときには、口にすべき言葉と思ったこととが半分ほど、逆になっていた。
さすがに男爵夫人が侮辱された怒りに頬を紅潮させる。
「し、失礼ね……!」
「今度は義理の娘を売り飛ばすおつもりですか。話になりませんね。どうぞ、お帰りはあちらです」
エセルは一瞬まずいと思ったものの、どうせ対立する予定だったのだと開き直ることにした。
ご案内しましょう、と続いてエセルが立ち上ればすぐに、入り口で装飾のふりをして待機していた絵画が上からごん、と落ちてきて、義母の帽子を、結い上げた髪ごとを顔の前にずり下げた。
「な、何よこれ……!」
「申し訳ありません、絵が落下しただけです」
手を振り回す彼女を、そのまま鎧が抱え込むようにして、がしゃこんがしゃこんと玄関ホールへと連行していく。
(あんなのと結婚するくらいなら、メイウェザー伯爵と結婚する方がずっとずっと……ううん、伯爵は嫌がるだろうけど)
エセルが執事とその様子を見送っていると、やがて遠くの玄関でバタン、と扉が閉まる音がした。
「……伯爵こそ、養子を取られなかったのには理由があるのでしょうか。この屋敷の変わった魔道具たちを除いて」
エセルが執事に問うと、茶器を片付けていた彼は少し困ったように微笑み、応接室に――ここは、来たときから綺麗に保たれていた部屋の一つだった――飾ってある一人の若い女性の肖像画にちらりと目をやった。
今では古めかしい型のドレスに身を包んだ彼女は、この屋敷の噴水の縁にくつろいだように腰掛けている。
床に落ちたままのピアノの少女の額縁を拾い上げると、すごーい美人じゃね? と小さく呟く声がした。
「若い頃の、ご友人だそうです」
それだけ言うと、執事は部屋から出るようにエセルを促した。
彼女には伯爵の事情を察したり想像することしかできないが、自分の何倍も生きれば、いいことも悪いこともあったのだろう。
(全員が全部「合理的」な選択をするわけじゃないものね)
血縁も家族もしがらみになることがある。伯爵にとっては執事と少数の使用人と暮らす生活が、丁度よく居心地の良い空間なのだろう。
エセルは、伯爵が、年老いたときに満ち足りた気持ちで最期を迎えられたらいいなと思う。……思うと、さっきの騒動が余計に申し訳なく感じる。
「……あの、お騒がせしました。今度もし親族が来たときは追い返していただいて大丈夫ですので。
掃除もなるべく早く終わらせて、ご迷惑はおかけしないようにします」
「次の仕事先が決まるまで、ここにいていただいてもいいんですよ。普段の掃除の手もあった方が助かります」
「ありがとうございます。でもあの人は、お金にうるさいので。……では、仕事に戻ります」
エセルは親切な執事に深く一礼してから、今日初めての玄関ホールの掃除に向かった。
がしゃり、と音を立てて壁際の彫像の群れの中で、鎧が振り向く。目がないのに、目が合った気がした。
これでも、来た当初はここも古いソファやランプやらの家具小物で埋まっていたからだいぶすっきりした。鎧も端に立ってさえいれば、いっぱしの装飾品に見える。
「無事帰ったみたいね、ありがとう。……でも、最期に何に囲まれて過ごすかは、伯爵次第だから。納得してもらえなくても、最終日には粗大ゴミシール、貼らせてもらうからね」
絵画を鎧の手に渡すと、彼はため息をつくように面当てを鳴らした。
「……俺を警備員として雇うっていうのはどうだ?」
「多分ね、自分がいなくなった後に逃げ出したり、悪用されたりするのが嫌なんじゃないかしら。財産目録みたいな? 貴族っていうのも面倒なの」
「何それ、超面倒ー。昔はそんな法律とかさあ、全然なかったのにー。ねえ?」
絵画の中の少女が、首を伸ばして鎧を見たような気がした。
「そういえばあなたたちに魔法を掛けたのって同じ人……?」
「――この館を建てた伝説の魔法使い、レオナルド」
答えたのは絵画でも鎧でもなく、レオナルドの石像だった。
今度は鎧の横ではなく、真後ろの石像そのものから聞こえてくる。
初めて見たときはただの灰色の物体にしか見えなかった、一番奥で埃と黒い汚れまみれになっていた物体だった。
けれどいつだって、この石像がこの屋敷で最も強い魔力を放っている。
「……本当にレオナルドなんて存在したの? 容姿にも魔力にも恵まれた魔法使いなんて。それも、自由に会話ができるほどの知能を道具に、長期間にわたって付与できるような魔法使い。そんな人がいたら、歴史に残っていそうなものなのに」
「お褒めに与り光栄だなあ」
「褒めてない、疑ってるの。だって、国史にも魔法史にも魔道具師にもそんな名前載ってなかった」
エセルは言いながら、腰にくくりつけていた細い飴色の杖を振った。石像が何故か身構えたように見えたが、残っていた周囲の壺やら絵画やらが、ゆっくりと扇状に退いていく。
エセルは近づき、改めて石像を見る。
「この長杖は多分、相当高位の魔法使いじゃないと所持が許されない貴重品……でも辞典で見たこともないし」
「事実っていうのは、観測して記録する人がいて初めて残るんだよ」
「……どういう意味……」
エセルが問うと、絵画と鎧が口を挟んだ。
「屋敷を建てて、あたしたちに魔法を掛けたのはレオナルドで間違いないけどー。仕事に出かけてからさ、帰ってこなかったんだよねー」
「代わりに、留守番中の弟子……養子がしばらくしてから、この石像を運んできたんだ」
「……それって、この石像がレオナルドの最後の魔法だということ……?」
その魔法使いが実在して、自分の身代わりに作ったならこの魔力にも理屈が付く、と思っていると、石像の声が響いた。
「まあそれはいいとして、君が僕を引き取ってくれないかな」
「確かに魔法そのものには興味あるけど……石像置く場所なんて貧乏学生にないし、床が抜けそう」
「男爵令嬢がそんなに貧乏なの?」
「親の資産は自由に使えないの。遺産相続だって実子が貰えるとは限らないし……さっきみたいに」
学校に奨学金を申し込んだときも、最初に手紙が横取りされてからは、なるべく直接受け取れるよう、手元に届くよう苦心していた。
大事な書類が届く日には冬の雨の日も、何時間も玄関前に立っていたのだ。
「そうか……あれから法律がだいぶ変わったんだね……」
「それより、何で私に引き取ってもらいたいの?」
「屋敷の、いや今の伯爵の最期を見届けたいんだ。引き取り手が決まってれば最期までおいてくれそうだからね。
それに何より……君には掃除の才能がある」
「……まさか」
「自覚がないみたいだけど、君には魔法解除の才能があるよ」
思わず問い返せば意外にも真剣なトーンで帰ってきた回答に、エセルは瞬きをした。
どういう意味か、と再度問い返そうとしたとき、背後から足音がして声は止んだ。
振り返ればゆったりとローブに身を包んだ伯爵が立っていた。
「お散歩中ですか」
「ああ。君はまだここで格闘していたんだね」
「はい。魔道具を説得できないかと思って……」
「……実はね、石像が話し始めたのも君が来てからなんだ。何か君にはそういった才能があるらしい。我々にはあまり話してくれないんだよ。納得してくれるといいが」
伯爵は穏やかに微笑むと、目を凝らすようにしてから石像にゆっくり近づいた。
「心配なく冬を迎えたいものだね。
年々目が悪くなって汚れにも気付かないし、ここ数年は関節の痛みが耐えがたくてね……毎年、これが最後の冬なんじゃないかと思っていたからね」
「……冬の寒さは堪えますね」
それはエセルも使用人たちも、ある程度は同じだ。
もう少しして秋が深まれば、寒さで換気に窓を開けるのもままならなくなる、暖炉の火の管理で掃除がしづらく、手間も増える。水仕事もきつくなる。
「そうだね、メイウェザー家にとって、冬はあまりいいことがなかった。この像のレオナルドも、豪雪地帯に一人で行って、帰ってこなかったという」
「……そうなのですか?」
「とある力ある竜がこの国を襲ったことがあった。そこが僻地で冬の雪山だったから、誰も行きたがらなくてね、まあ危険だから。
しかし……消えていく村々から助けを求める人が王都にやって来て、彼は弟子を残し、立ち向かったという」
「勝利したんですか?」
「勝利というのはね、一時的なものだよ」
伯爵は少し寂しそうに言った。
「人間ほどではないが、竜も好んで営巣して集団で生活する場所がある。そんな場所が近くにあった……竜の寿命は人間よりずっと長いからね。
だから彼は幾たびかの戦いの末に、自身の魔力を賭して巨大な防壁を築いて、それで消えてしまったらしい」
「……防壁……」
エセルは頭の中で教科書の中身を思い出す。
「北峰で突然自然発生したという半環状防壁……大理石の。もしかして、魔力の使い過ぎでその身に何か起こったのでしょうか?」
「おそらく。防壁が役立ったのは確かだが――その後数ヶ月戦って境界を守ったのは、遅れてきた軍や地元の人間たちだ。消えた人間に功績を与えるわけにもいかず、行方を探しに追っていった弟子だけが……わたしの先祖が、彼の石像を作ったらしい」
「あの……済みません、そんないわれのある石像を、どうして今、手放されようとしてるんですか?」
エセルが主人につい尋ねてしまったのは、単純に知りたいと思ったこともある。
が、石像が――先祖の石像が、子孫たる伯爵を見届けたいと意見表明したからだろう。
伯爵は彼女を出過ぎだと咎めることなく、やはり穏やかに微笑んだ。
「もし価値があるものと判断されたなら、ささやかながら強力はしたい。
とはいえ……この家をずっと見ているということは、それなりに恥ずかしいところも見られてきたろうからね。メイウェザー家の何を話し出すか分からないのは困る。五年も十年も深掘りはされたくない。……妥協点といったところかな」
***
「残念でしたね、私が引き取る難易度が上がりました。大人しく回収されてください」
夕食後、エセルはレオナルドの石像の裾についた黒い汚れを、ブラシでこそげ取りながら話しかけた。よく見ると台座部分はなく、流れた裾はそのまま……樹木の根を地面と水平に切り取ったような形をしている。
「……役所が嫌なら、きちんとした引き取り手を探す? 伯爵にちゃんと掛け合えば探してくれるかもしれないし、私も少しなら貴族に知り合いがいるから」
あれから数日、屋敷はほとんど片付いていた。まだ紙ものがだいぶたまっているが、執事と手分けして、不要な書類を燃やしたり裁断したり、書斎に移動させた。
細々とした魔道具は必需品以外は封印したり封印用シールを貼って、屋敷の門扉の側に移動させた。
絵画と鎧も、「伯爵とエセルが回収・引取先について話し合うこと」を条件に、明日の回収日を待つばかりだ。
「……どうかな」
悩んでいるような息が頭上からこぼれた気がして、エセルは見上げる。
「申し訳ないけど、もうそろそろ期限切れ」
エセルはふいに、ポケットから一枚のシールを取りだした。「魔法資源局回収番号:1171153」と、書き入れた無地のシールをぺたりと頬に貼る。
魔法さえかかっていなければ、石像に干渉するのは割と容易だった。
「なんでそこに」
「ローブの出来が良くて無駄にヒダが多いから、ここしか空いてないんだもの。……封印されたくないなら、自分で回収局の職員さんと話し合って」
「……それも、どうかな」
「いいじゃん、もう。うちらも相談に乗ってあげるからさー。伯爵も伯爵だよねえ、伯爵のおとーさんの恋バナとかー? べらべら喋られたくないのは分かるけどさぁ……」
「そもそもこんな面倒くさい魔道具、何のために作ったんだろうな」
回収番号を貼り付けられた絵画の少女と、その横に立つ鎧が、石像を元気づけるように、脇から顔を出す。
石像から、苦笑のような声がした。
「それは、……単なる偶然だったんだよ。君たちに関しては、弟子が寂しくならないように、それにこの屋敷を守ってくれるように作ったんだ」
まるで本人みたいな言い方だ――と、エセルが思ったときだった。
玄関外でドサリと言う重い音がした。何かが投げ捨てられるような音。最近ゴミの分別に厳しいからか、郊外に産業廃棄物を捨てていく業者なんかが時々いる。
「……ちょっと見てくる。不法投棄かもしれないから」
「待って、エセル……」
エセルは石像が止める声を聞かぬうちに立ち上がると、扉脇の窓から覗いた。しかし生い茂った草が邪魔になって、よく見えない。掛けがねを外し少し身を乗り出して――、
「エセル!」
体が、浮いた。
太い男の手が腕を掴み、腰にかかって窓から庭へと引きずり出される。
「エセル! くそ、小手じゃ鍵が開かねえ!」「絵には手も足もないんですけど!」
背後に二人の声を聞きながら、エセルは無理矢理下げられた後頭部から陰が差したたことに気付く。続いてバサリ、という音――上半身に、袋がかぶせられた。
(――誘拐!)
一瞬ぶるりと背筋が震え身が竦んだ。袋の向こうにしゅるりと縄のはしる音がする。
「おいおい、怪我させるなよ。これでも花嫁らしいからな」
「どうせすぐ縄の跡が付くんだから同じだろ」
下卑た声に聞き覚えはないが、恐らく例のヒキガエルに雇われたか男たちだろう。身元は今伯爵の元にはあるが――、
(親権は……親。仕事が嫌で家出したとでも言えば、伯爵も手が出せない……)
エセルは唇を噛む。足を思い切り動かして抵抗する。髪の毛をまとめていたピンがはじけ飛び、ばさりと黒髪が広がった。しかし、腰を抱えられて空を掻くだけだ。
「おい、暴れるな!」
土と落ち葉を踏む足音がうるさい。彼らが走れないのは、庭にまだ剪定した枝がごろごろ落ちているからだろう。
そんな中に微かに、玄関扉の開く音が聞こえた気がした。
エセルは震える手で何とか腰に下げた杖を探り当てると、引き抜く。そしてそのまま杖の先に光を灯した。
(見付けて!)
薄暗い庭に、布越しの光がぼんやりと浮かび上がる。
――次の瞬間、風切り音と共に体が投げ出され、落ち葉の上に着地した。
「エセル、走って!」
どこからか、石像の声が聞こえる。
エセルは立ち上がると、布袋を地面に倒れている薄汚れた男たちに投げつけると、“掃除の魔法”で足元を水浸しにし――髪を振り乱し、屋敷に向かって走った。
「おい、待て! ……うおっ」
濡れた落ち葉に足を滑らせた音がする。それはきっと数秒稼ぐだけ。けれどその数秒でエセルにとっては十分だった。
いつの間にか扉の閂と鍵が開いており、玄関ホールの中が見通せる。
急いで階段裏に身を隠したエセルは、石像の横で荒い息を吐いた。まだ心臓はバクバクいっているが、背後に鎧が立ち塞がった気配に安心する。
(明日粗大ゴミに出すのに、ごめんなさい)
感傷もつかの間、扉を閉めに行こうと引き返そうとしたエセルは、しかし石像に引き留められた。
「……エセル、無事で良かった。さあ早く、僕を掃除して」
「……掃除? え、今?」
「もう少しで呪いが解けるんだ。いいから早く、それで全てが解決する」
混乱した頭の中、エセルは足元に転がったままの掃除道具入れを見下ろした。雑巾に皮に、毛や皮でできた各種ブラシに洗剤、研磨剤、つや出し剤……。
「分かった」
この石像はちょっとどころじゃなくおかしいけれど、嘘を言われたことはない。言われるがままにエセルはブラシと研磨剤を取り、足元にほんの少し残った黒い汚れを取り除く。
――変化は、突然で、それでいて何でもないように訪れた。
まるで白昼に突然夜が訪れたように白い大理石が、髪を黒曜石の色に、瞳とマントを深い藍色に染め上げていく。所々縫い取られた金糸は、あの粗大ゴミシールの魔法陣より複雑な文様を描いていた。
エセルは黒い瞳でそれを、石像の動きを追った。
「……おいこら、どこに行った!」
そうして鎧の槍越しに叫ぶ、二人の暴漢が石像に杖の尖端を向けられ、次の瞬間――、風の矢が二本吹き抜けて、腹に当たったまま玄関の外まで吹き飛ばす。
「強盗は殺さなきゃ罪に問われないんだっけかな……今もそうなのかな」
突然の一撃に固まっている鎧の横を抜けると、石像はゆっくりと扉の前に立つ。そうして階段下に横たわる男たちを見下ろして、呆れたように眉をひそめた。
「……何だ、もう気絶してる。聞きたいことがあるのに……まあいいか、それよりエセル、この騒ぎで執事たちが来る前に、先に言っておきたいんだけど」
それから彼は振り返り、眉間の皺を緩めると優しく微笑した。それはどこかメイウェザー伯爵にも似た雰囲気がある。
「……僕と結婚してほしい」
――そうして、お話は冒頭に戻る。
彼はそのまま、石像のように固まるエセルのほどけた髪を手際よく戻してしまうと、結婚できない理由を並べ、「粗大ゴミの回収は明日です!」と言い張るエセルに向けて、ぺりりと頬のシールを剥がして見せた。
「ああこれ……人間は粗大ゴミに出せないからね。もう一つ言うと、あの粗大ゴミシールは魔道具用で、人間……元人間は、対象外だから」
***
あれから騒ぎに駆けつけた執事と伯爵が、急いで警察を呼び、あれこれ事情聴取をされてからのその後。
「夜中のティータイムは久しぶりだなあ……なんか背徳的でいいよね」
急遽用意された客間のソファに、メイウェザー伯爵と、元伯爵・レオナルド・メイウェザーが相対して座っていた。
何故かレオナルド――お茶とお菓子をお替わりしている――の隣に座らされたエセルは、執事が淹れてくれた温かいクリーム乗せココアをちびちびと飲んでいた。事情を詳しく、と王都の警察署まで連れて行かれそうになったのを、翌日以降でもいいだろう、と庇ってくれた伯爵には、また恩ができた。
エセルはしばし、大人しく二人の込み入った話を聞いていた――といっても、真剣な伯爵と比較して、レオナルドの方はすっかり久しぶりの人間らしさを楽しんでいるようだったが。
「……それで竜の血の呪いによって、石化の魔術が解けなくなってしまった、と」
「自分自身を媒介にしたせいで、防壁と一体化してしまったんだ。弟子が後から地面を削り取って持ち帰ってくれたんだけど、あの頃は何も話せないどころか意識も朦朧としてたからね。
丁度経年で血が剥がれやすくなっていたところを、エセルが掃除してくれてこうなったのかなと思ってる」
「もう粗大ゴミは論外として、問題は相続の件ですね」
降って湧いたご先祖様にさすがの伯爵も腕組みで唸る。書類上はとっくに死亡扱いだろうが、この屋敷を建てた本人がいるのであれば――。
「わたしとしてはレオナルド様にお戻ししたいのですが、手続きに時間がかかりそうですね」
「僕としては……一度は歴史に消えたんだからどっちでもいいんだけど、というより人間として認められるかも分からないとは思ってるんだけどね。伯爵の終活の邪魔したくもないしさ」
「人生最後まで何が起きるか分からないものですね」
「うん。……エセルもね」
ちらりと視線を向けられて、ココアのカップをソーサーに戻す。
「私、ですか?」
「……正体不明の汚れ塗れの怪しい物体を、仕事とはいえ丁寧に毎日磨いてもらったら、まあ思うところはできるよね。
恩人でもあるし、ちょっと放っておけないと思って。伯爵もそう思うだろう?」
「そうですね」
「……だから、あらゆる方法を使って自分がレオナルド・メイウェザーであることを証明し、伯爵位を取り戻す。そんな動機だっていいと思う」
どこか決意を秘めた声が唇から――ちゃんと唇から発せられて、エセルは姿勢を正した。
「石像……じゃなくて、レオナルド様?」
「言い慣れるまでは石像でいいよ。……ああだからねエセル。
血が繋がってなくたって弟子はこうしてメイウェザーをそこそこ守ってくれていたし、紙切れ一つで養子にも、石像が人間にも戻れる。
だからそういう軽いつもりで僕と結婚していいし、実家と縁を切っていい。伯爵位は君を守る盾になる」
……レオナルドと伯爵の、それから執事の顔まで見比べたエセルは、それで知った。自分には今、自分を見守ってくれる人たちがいて、元々持っていた選択肢を明らかにしてくれて、そして、与えられてもいるのだと。
迫られたからではなく、エセルが何を選んで、何を捨てて、残していくのか。
「……お礼には、大きすぎます」
「お礼は言わなくていいよ。どちらかというと、そうして欲しいんだ、僕が」
レオナルドの唇からくすり、と笑みがこぼれる。ずっと石化していたのに、とても自然な笑みだった。彼女よりもずっと。
エセルが似たようなやりとりを以前もしたなと思い出していると、彼は続けた。
「別に大した理由じゃない。いや、小さな理由は幾つもある。呪いを解いてくれたとか、学校できちんと学んだ君の魔法の才能がどうなるか見てみたいとか……」
ひとつひとつ指折り数えて、やがて折る指がなくなってしまうと、また一つ笑みを浮かべるその顔は、どこか幸せそうだった。
「ブラシがけが気持ちよかったとか、伯爵とこの屋敷のことを考えてくれたとか。こうして、たくさんの経験をくれたとかね。
だけど一番大きいのは――素の君と話すのが好きで、居心地が良いから。納得した?」
「粗大ゴミ扱いしてたのにですか?」
「粗大ゴミの意見を尊重してくれたからね」
言いたい放題だったのに、あんな会話でも良かったのか。
そんな気持ちでまじまじと見返せば嬉しそうに微笑まれたから、エセルはしばらく逡巡してから、結局のところ頷いた。頷くことは決まっていた。
たぶん、それは掃除と一緒で――そして。
頭に触れられたときに心地良かっただけなんていう、単純な理由だった。
そんな単純な理由でエセル・バセットは将来を決め、粗大ゴミ回収には何も出さなかった代わりに、次のゴミの日、実家から送りつけられたあらゆる抗議と荷物を捨てた。
レオナルドは言葉通り大した要求をしなかったが、たったひとつだけ我が儘を言って、エセルは受け入れた。
だから学生生活に戻った彼女の薬指には、あらゆる防御魔法が施された指輪が輝いている。




