10話
ローズは執務室で部下から報告を聞いていた。
「咬魔公が何者かから襲撃を受けたものの退けたようです。どこの組織か不明ですが、魔族ではなく人間たちという情報が入っています。彼は城を持たずに岩だらけの山にいますから、攻め込む心理的ハードルが低いのかもしれません」
「攻め込みやすいとはいっても勝てるかは別なのよね。よし、次は咬魔公を倒しに行く。この機に乗じるわ」
「人を助けるために焦っておられませんか?咬魔公をマスターが倒せば、彼らが命がけで襲撃する理由が無くなり助かると」
「別にそんなつもりはないわ。響魔公や影魔公に苦しめられている人たちもいるし、一朝一夕で全部が終わるから私たちが一日だけ無理すればいけるなんてことはないもの。焦ってもしょうがないのは分かっている」
ローズは部下に対して極めて冷静に返答した。
「咬魔公が襲撃を受けて固めた防御よりも、襲撃者たちが搔き乱してできた隙の方が多い可能性もあるから、実際に行ってこの目で確かめようと考えてのこと。あの地方にはあまり人員を割り振ってなくて情報が少ないものね」
「失礼しました。余計な心配でした」
「ううん、心配してくれてありがとう。今回は結果的には要らなかったけど次もそうとは限らないものね」
「承知しました」
「さて、連れていく護衛を集めないと」
ローズは部下にビャッキン地方に出るための手配をさせ、自身は護衛を選びに資料を読み始めた。しかしすぐに煮詰まって部屋の外に出てギルド本部内を歩いて回った。
ローズは研究棟に入り、主任と話をしてルナの部屋へやってきた。窓からは目の前に木々が見え、その隙間からは屋外訓練場で走っている人が見えた。開いた窓から鳥の囀りが聞こえ、そよ風がカーテンを揺らしていた。
ルナはベッドに腰掛けて魔術のテキストを読んでいた。
「ルナ、調子はどう?」
「ローズ、いえマスター。最近は好調です」
「それなら良かった」
ルナの様子をこの研究棟で見てから1年以上経つ。その間、問題は起きていないし、そろそろ次に進んでいいかもしれない。
「食事はどう?足りている?」
味覚が変わり、人間の食事は基本的に食べられなくはないが、進んで食べようとはしない。食べられなくなったのは玉ねぎで、その溶血作用が駄目なのか体が拒絶して匂いだけで気持ち悪くなる。そのため、食事はもっぱら血で、グラスで飲んでいる。
「はい。血を沢山貰ってます。…こう言っててなんですが、慣れって怖いですね」
「そうね。肌から直接欲しくならない?」
「その方が新鮮で味がいいですが、嫌がる人から無理矢理血を吸いません」
「ふうん、じゃ、私のを飲む?」
ローズは腕を捲って肌を晒した。腕は適度に引き締まってハリがあり、若く健康的だった。
「試しているのですか?」
ルナは顔色を変えず、しかし声は若干不機嫌に尋ねた。
「分かっちゃうか。まあそうよね」
ローズが袖を伸ばして腕をしまうのをルナは物欲しそうな顔で見て、肌が見えなくなるとしょぼくれた。
「ん?欲しい?」
「意地悪言わないでください…」
ルナは縮こまって上目遣いでローズを見上げた。
「ごめんね、試すようなことして。ちょっとだけならいいわ」
ローズは袖を捲って左腕を差し出して右手で口を押えた。ルナは舌で腕を舐めた後、口を広げて牙で噛みついた。
「んっ…」
ローズは一瞬の痛みの後、快感で体を震えさせ、脈拍が上がって頬を紅潮させ息を切らした。口を押えて声を押し殺し、ふらつきながらも立ち続けた。ルナが血を吸い終わって口を離すと、傷口から血が垂れ、床に零れそうな血を舌で舐め取った。
「ごちそうさまでした」
ルナは幸福感でにんまりと笑った。ローズは回復魔法で傷を塞ぎ、部屋の洗面台で洗い流してタオルで水を拭き、袖を戻した。
「…でもこれで分かったわ。言うことちゃんと聞くし、もう少し自由にしても大丈夫そうね」
「本当ですか?」
「研究員とも相談するからすぐじゃないけど」
「私、やりたいことがあるんです」
「へえ、どんなこと?」
ルナは胸中をローズに語り、ローズは頷いた。
研究棟から出たローズが廊下を歩いていると言い争いが聞こえて来た。
「何があったの?」
ローズは廊下の曲がり角で立ち止まっているギルド員たちに話しかけた。
「マスター、いつものことですよ。ジンとレイの喧嘩です」
曲がり角を進むと、廊下の真ん中で男2人がメンチを切って言い争いをしていた。
ジンとレイ、腕は立つが顔を合わせるとすぐに喧嘩を始める。2人とも火術使いで剣士。
「あはは、どちらかが外出していれば平和なんですけどね…。マスター?」
ローズは2人の近くに歩いていった。
「迷惑よ、どきなさい」
「なんだと?…げっ、マスター」
「なにっ」
「ほらほら、何があったか知らないけどやるなら壁の方に行きなさい。通行の邪魔よ」
ローズは2人を押して壁に追いやった。
困った子たちね。いや、子という歳でもないか。マスター・ディエスみたいに頼れる大人であって欲しいわ。
「マスター・ローズ、俺を護衛としてお連れください。魔公爵との戦いで8代目を支えたように、マスターの力になります」
ジンはローズの方を向き、胸に手を当てて自分を売り込んだ。
「いえ、俺をお連れください。魔物の討伐数では俺の方が上です」
レイはジンを押しのけて売り込んだ。
「お前なんかが役に立つか」
「こっちの台詞だ」
「……」
ローズが参って横のギルド員を見ると、片方連れて行ってくれると助かると顔に書いてあった。
「よし、決めたわ。この2人を護衛として連れて行く」
「えっ!」
「お待ちください。それでは喧嘩になります」
様子を見ていたギルド員はローズを止めようと声を上げた。
「いい大人なんだから、私情を持ち込まずに働いてもらいたいものね」
「理想はそうなんですが実際は…。それにモチベーションは大切でして、命を懸けた戦いでは特に…」
「大丈夫。仮に2人のパフォーマンスがそれぞれ-10%になったとしても私はイケメン侍らせることで+50%くらいになってトータルでプラスだから」
「マスターが私情を持ち込んでませんか?」
「いいのよプラスに働くなら」
「……」
「どちらが活躍するか競ってみない?もちろん、足を引っ張ることや手柄を得ようと隠しごとはなし。魔物退治で人々に安全を提供するギルドの一員が人々をないがしろにしてそんなことしないと思うけど」
「当然ですよ、ジンじゃあるまいし」
「あ?そりゃお前だろ。俺はしませんよ、そんな器の小さいこと」
「んだと?」
「はいはい。それなら良し。2人ともよろしく。じゃ、近々ビャッキン地方へ行くから準備しておいて」
ローズは2人に微笑み、また歩き出してすぐに止まった。
「あ、そうそう。念のため、外でマスターやギルドマスターと呼ばれるのは避けたいから、外では私のことをお嬢様と呼んで」
「かしこまりましたお嬢様」
ジンはすぐに淡々と述べ、レイは戸惑いながらも一応従った。
「か、かしこまりましたお嬢様」
ローズは上機嫌に歩いてその場を去っていった。
これやってみたかったのよね。大変なギルマスやってるんだし、これくらいはいいでしょう。
後日、出航前にローズは訓練所に顔を出し、組手で技を学んでいる女を見つけた。
「これはマスター、どうされましたか?」
「ルナの様子を見に来たの。ルナ、大丈夫?」
「はい。まだ体が鈍ってますが、じきに本調子になります」
「そう。無理のないようにね」
ルナのやりたいこと、それはギルドの一員として戦うこと。吸血鬼のルナが戦闘方法を身に着けることはギルドにとって敵対した時に強敵に育ててしまうリスクはあるが、味方ならばとても心強い。
「じゃあ行ってくる」
ローズはジンとレイを連れて港に行って船に乗り島を後にした。