8. いい湯加減の所為
婚約を印象付ける為に三日連続で送迎任務を行った後、ウィンダムは外務局に泊まることになった。タインは待機の必要がない日は通常任務に就くことになっている。復帰してから初めてナディーンの私室前で立哨に入り、本当の意味で日常を取り戻した気分になった。
「わたくしが気を揉む必要はなかったわね」
私室を出る際にタインに気付いたナディーンは、機嫌良く一声掛けた。タインは主語がなくても何に就いてのことか理解して目礼する。主は王女であるが、実際に指揮をしているのは王女ではないから、作戦内容の詳細や個人の状況を逐一報告することはない。タインに就いては、船の件で一部の騎士が持ち場を離れることを伝達する主旨で、隊員と同じ説明がなされているだけだ。事実をそのまま伝えられていたら、ナディーンはこんなに晴れ晴れとした顔はしていなかっただろう。婚約解消するとこの顔は曇るのだろうかと思うと、タインは少しばかり気が重くなった。
「完全に家の意向で、気持ちはないんだと思ってたわ」
夜になり張った筋肉をほぐすべく浴場に行くと、先に湯船に浸かっていたジョセリンが言った。兵舎に併設されている共同浴場は近場の温泉から湯を引いている為、大きな湯船には常に湯が満たされている。こういった施設は王宮にしかない。この点は近衛騎士になって数少ない良かったことの一つだと、女性騎士達は口々に言うものだ。
「やっぱりうちの連中とは違うの?」
初めのうちは同性とはいえ使用人ではない者に裸を晒すのは恥ずかしかったが、今はもう慣れて、タインはジョセリンの隣に洗い終えた身体を沈ませた。
「そうね。うちの状況をちょっと話しただけで、劣悪な環境だって震えてたわ」
違うのは確かだと、問いには嘘無く答えられる。タインはその時のことを思い出して小さく笑った。
「男の領分に入り込んだのは私達なんだからしょうがないとか、対等な扱い受けてるんだから我慢しろとか言わなかったの?」
ジョセリンは驚いたようにタインを見る。
「うん。女性騎士について深く考えたことなかったのかもね。まるで淑女に対するような扱いをする時もあるから、偶に調子狂うの」
「馬鹿にした感じ? 何もできないんだから優しくしてあげるみたいな」
ジョセリンは眉を顰め、嫌悪じみた色が声に乗った。
一般的な貴族女性として育っていたら、気付けなかっただろう裏にある感情。優しさを担保しているのは優位性だと知った時に男を見る目が変わったのだと、いつだったかジョセリンが語っていた。騎士団に入りたての頃は優しかった同期が、彼らと肩を並べる実力をつけ出したあたりから態度を変えていったのだ。単純に対等と認めたという態度の者もいないわけではなかったが、女のくせに可愛げがない、女のくせに出しゃばるな、という不快感を隠さない者の方が多かった。その場にいた女性騎士達は、ジョセリンの話にそれぞれ同意したり身につまされたりして、タインも例に漏れていない。だからジョセリンの反応も理解できる。
「それがそういうんじゃなくて。尊重してくれてる感じなのよ」
「……それ、淑女として扱うことで、騎士としてのタインを否定してるとかじゃなくて?」
ジョセリンの疑心は深く、タインはその可能性を一考する。
「うーん……多分違う。島で不平も言わず私に従ってたのはね、単純に生き残るために必要だったからだと思ってたんだけど…あの人賢いから。だけど帰ってきてからも凄く警護しやすいの」
「どういうこと?」
「私の警護を信頼して、任せてくれてるってこと」
「……もう一人つけてくれとかは?」
「言われてない」
「心配は?」
「されてない」
「一度も?」
「うん」
タインは重ねられる問いに答えるうちに、ウィンダムはタインの警護に全く不安を持っていないのだということに思い至って、今更ながらに驚いた。普通は女の護衛などそう簡単に受け入れられるものではない。ユールガルでは一般的に、女はか弱く男が守るべきものだからだ。その女に護られるなど、男の沽券に関わる。今でこそタインは近衛騎士という権威で守られているが、ただの騎士であった頃は随分と侮辱的な態度をとられたものだ。
「なんなのその人最高じゃない。何をどうしたらそんな男ができあがるのよ」
ジョセリンは呆気に取られた顔をした。
「あれかな、島で信頼を勝ち取ったのかも……?」
タインはウィンダムが初めからそういう人間であったのかは判らず、首を傾げる。
「それじゃ私も無人島に行かなきゃならないじゃないの」
「ジョス?」
「文官って皆そんな感じなのかしら」
「さあ」
「外務局で他の局員と話したりする?」
ジョセリンの顔がどんどん近付いてきて、タインは少しずつ身体を傾かせる。
「え、んんん、一人二人話すこともあるけど立ち話程度よ? 他は挨拶くらいかな」
「もうちょっと踏み込んで情報収集してきてよ」
「……ジョス、結婚に興味あったの?」
ジョセリンは空いた時間に女官になる為の勉強をしている。だからタインは自分のように、生涯独身で構わない派だと思っていた。タインの片耳が湯につく寸前で、ジョセリンは苦い顔をして身を起こした。
「そりゃね、ロバータ様は目標よ」
ロバータは王妃の公務を支える女官である。元近衛騎士で、四十を超えているというのに剣を握っても現役に引けを取らないという女傑だ。ロバータは生涯独身を公言している。「この国には自分より優れた女を娶れる器の大きな男はいない」と豪語し、それはロバータより優れた男がいないと言ったも同然だった。実際に、その通りだと納得させてしまうだけの強さ賢さ美しさを兼ね備えていた。
嘗てロバータが女性初の副団長に任じられた時、女性騎士達に向けて行った有名な訓示がある。
「強くなることは女を捨てることではない。強さと美しさを兼ね備えた非の打ち所のない女になるということだ。諸君は数多の苦難にも折れずここまで到達し得た、王国の誇る最も高潔な騎士である。偏狭な者達の戯言を捩じ伏せるだけの力と美、そして賢さを持ち、後人に道を示すのだ」
これは内心では下を向きがちだった女性騎士達を、大いに奮い立たせたのだという。それは今でも語り継がれ、金言としている者も多い。
「でもロバータ様は超人。誰もがあんな風になれるわけじゃないわ。私は優秀だと自負しているけれど、超人の域ではないことも解っているのよ」
十代の頃はまだ、憧れを追い続けるだけの勢いと盲目さがあった。だが長じるにつれ限界を知り、現実が見えてくる。
「理想の中にしかいないと思っていた男が現実にいるのなら、結婚だって視野に入れるわ」
ゆったりと湯船に背を預け直したジョセリンからは苦さは抜けていて、身を温める熱を享受する緩んだ顔になっていた。
「そう」
身に迫る圧から解放されたタインも同じ体勢になり、落ち着いて頷く。
体力が衰え始める年齢が見えてくると、多かれ少なかれ、身の丈に合った人生設計をせざるを得なくなる。タインも一番望んでいるのは女官となって身を立てることだ。
近衛騎士の女官への転身は歓迎される。忠誠心は保証されており、余程のことがない限り身辺調査が必要にならないからだ。ただ、結婚する者が滅多にいない為、息が長く席が空きにくい。ロバータに憧れる近衛騎士がこぞって志願するものだから、更に競争が激しくなる。
「私は女官が駄目だったら侍女でもと思っているけど、行儀作法がね」
タイン達も基本的な作法は身に付いているのだが、家を出てから披露する場は殆どなかった。その上更に上の上品さと細やかさを求められるのだから、侍女の方が難しくも思えるのだ。弛緩した体を湯に委ねてタインがぼんやりと呟くと、ジョセリンは目を眇めるようにしてタインを見た。
「最高の婚約者がいるのに何を欲張ろうとしているのよ」
「あっ……」
瞬間的にタインの背筋が伸びて、水面が大きく揺れた。
「何その反応。もしかして忘れてたの? この短時間で?」
「ち、違うの。今まで結婚なんて考えたことなかったから、実感がなくて、つい」
忘れていたわけではない。計画に変更がないからうっかりしてしまっただけだ。ジョセリンは胡乱な目をしている。タインは湯のせいだけではない汗が出ているように感じた。
「まあいいわ。ラザフォード卿には黙っててあげるから、情報収集お願いね」
暫くして微笑んだジョセリンの頼みに、タインは頷いていた。