31. 拗ねてる場合じゃなかった
救出は間に合った。ただ、滞在場所を港から距離のある領主邸に移し、帰国は延びることになった。ウィンダムが船に乗れる状態になかったのだ。意識が朦朧とした状態が続き、タインはその間、ほとんどの時間傍にいた。時折瞼が持ち上がったかと思うと直ぐに深い眠りに落ちる、その僅かな時間に栄養価の高いスープや薬を流し込んだり、汗を拭いたり、唇を湿らせたり、下の世話をしたりと、医者の判断が必要なこと以外の殆どに関わって過ごしていた。三日目の朝。うっすらと開いたウィンダムの目の焦点が合っている気がして、タインは呼びかけた。
「ウェン。私が判りますか」
ウィンダムは声に反応するように瞬いて、榛色の瞳が覗き込むタインの顔を映した。
「タイン……まだ、私の傍にいるのか」
「何を言っているんです?」
タインは侍女に目配せをし、侍女は医者を呼びに出ていった。
「身体を起こしますよ。ゆっくりですが、痛むかもしれません」
ウィンダムの掠れた声は水分を欲していることを示している。タインは掛け布を捲って、慎重に寝台とウィンダムの背の間に手を差し込んだ。ウィンダムは痛みに気を取られて、口を閉じる。骨折した足が枕で高くされていて、起こした上体は自力では定りにくかった。タインはウィンダムの背に身を滑り込ませて背もたれの役割をする。水を満たした杯を差し出すと、ウィンダムは自由の利く右手で受け取った。痛む鎖骨や肋に気をつけながら時間をかけて一杯分の水を流し込んだところで、ウィンダムは一息つく。
「ベアード君に嫁いでいたら、私にこのようなことができるわけがないな」
「本当に何を言っているんですか。気分は?」
空の杯を受け取り、タインは眉を顰める。
「怠い。あちこち痛む。───悪夢を見た」
ちらりと合わせられたウィンダムの目が恨めしげで、タインは怯んだ。朝の髭剃りはまだ済んでいない。窶れは深く、荒んだ空気を濃厚にしている。
「待つとは言ったが。流石にあれは堪える」
ウィンダムは視線を逸らした。タインは戸惑う。タインが何かした口ぶりだが、覚えがない。
「どれですか」
「随分と嬉しそうにベアード君を呼ぶ声が聞こえた。私を差し置いて」
タインは押し黙った。まるで浮気を咎められてでもいるかのようだ。タインは早急に記憶を辿ってそれらしきものを探した。事件前のウィンダムに変わった様子はなかった。救出後はウィンダムの意識は殆どなかったうえに、クレイグはこの部屋に足を踏み入れていない。残るは洞窟でのこととなるが、タインがウィンダムを見つけた時には、既にウィンダムの意識はなかった。
「あっ? もしかして……ツァマーグ族かと思ってクレイグとやり合いかけた時のことですか? あの時はまだ、意識がありました?」
「何が起こっていたのかは判らない。私には何も見えていなかったからね」
ウィンダムは慎重に息を吐いた。伏せられた目は陰鬱で、力無い。
「あれは! 喜ぶのは当たり前でしょう。クレイグも大事な同僚ですよ。無事を確認できたら喜ぶに決まってます! それにクレイグを見つけたということは、貴方の手がかりを得たも同然だったんです!」
あの時ウィンダムは奥に隠されていて、呼びようがなかったのだ。捜索時の必死さがそんな受け取り方をされているなど、心外どころの騒ぎではない。タインは血の上りかけた頭を軽く振り、激情を仕舞う。相手はつい先程まで意識のなかった重傷者だ。耳元で騒ぐものではない。
「あの血の量……心配したんですよ」
タインが絞り出した声は思いの外弱々しかった。見つけるまでずっと、悪い考えを押さえつけていた。ツァマーグ族にはウィンダムの死体を持ち帰る理由はきっとない筈だ、だからまだ自力で移動できる状態なのだと、言い聞かせていた。
「死んだのかと思った」
あの暗がりで、ランタンの灯りだけで見たウィンダムは死人に見えた。
「死んでしまうのじゃないかと……」
ずっと不安だった。このまま意識が戻らず、熱が上がれば危険だと言われていた。今触れ合う部分から伝わる熱は、これまでに比べると大分落ち着いている。気の緩みで語尾が滲んで、タインは湿った声を出すまいと呑み込んだ。ウィンダムの肩に額を押し付け、支える手に力がこもる。ウィンダムはそっと、腹にあるその手に右手を重ねた。
「すまない。少し、…情緒が不安定になっていた。……貴女が去る夢を見たのだ。そんなことで詰るなど、大人気なかったな」
「……いえ。……死にかけていたんですから、そんなものです。私の方こそ、感情的になってすみません」
タインはウィンダムの肩に目元を擦り付けた。汗を吸った寝衣はどうせ着替えさせるのだ。少しぐらい湿り気が増えたところで何も変わらないと思ったのである。
「死にかけるのも、悪くないな」
和らいだ声でウィンダムが呟いた。
「怒りますよ」
「時折こうしてくれるなら、そんなことは思わない」
重なっているウィンダムの右手が手の甲を撫でる感触がして、タインは縋り付くようになっている現状に気付いた。看護を逸脱した密着具合だ。気恥ずかしさが一気に全身を駆け巡る。慌てて離れようにもウィンダムの身体が気遣われて、そっと力を緩めるにとどまった。
「ぜ、善処します」
ウィンダムは笑い、痛みに呻いた。




