3. お帰り日常、さようなら恋心
タインが兵舎の食堂に入ると、休憩時間の重なった同僚達が声を上げる。
「タイン! お帰り!」
「無事で良かった」
「あ、持ってきてあげる。今日はイゴリ豚のソテーよ」
金髪のブルックが喜び全開の笑顔で迎え、茶髪のミスティーが涙ぐむ。いそいそと席を立つブルックに礼を言い、同じテーブルに着くと、黒髪のジョセリンがタインの髪にそっと手を伸ばした。
「お帰り。随分傷んじゃったわね」
タインの茜色の髪は艶を失い、潮風で傷んで手触りが悪くなってしまっていた。職務中は邪魔にならないよう固く編み込んでいるからそう目立ちはしないが、事故前の状態を知っているジョセリンには一目瞭然のようだった。
「家にいる間に幾らか手入れしてもらったんだけどね。戻らなかったわ。伸びきるまで我慢する」
ユールガル王国では女性の刑罰に剃髪がある。だから傷んだからといって短髪にするわけにもいかず、暫くはぱさついた髪と付き合わねばならない。ミスティーもジョセリンも気の毒そうな顔をした。
「このあいだいい香油見つけたんだけど、分けてあげようか?」
「え、嬉しい。でも自分で買う。お店教えてくれる?」
模範的な貴族女性とはかけ離れたからといって、美容に関心がなくなるわけではない。普段着飾ることができないからこそ、タイン達は素材の手入れを大事にしていた。
「おいおい、今更髪なんて気にしてどうすんだよ、そんなのよりお前に必要なのはこれだろ。ほら食え」
「そうだよ、ちょっと痩せたんじゃないか。ろくなもの食えてなかっただろ? 俺のもやるわ。よく生きてたなぁ」
横合いから男達の声がして、肉を盛った皿がタインの前に置かれる。頭を撫でようとする大きく無骨な手を、タインはすかさず手で受け流した。労わりや喜びの表現であったとしても、無遠慮に触れられたくはないのだ。
「ありがとう。気持ちは嬉しいけど、ブルックが持ってくるからこれは自分達で食べて。あんた達の方こそ、体おっきいんだからちゃんと食べないと後でへばるでしょ」
「ちょっと。タインの分ここにあるんだけど」
「労るならもっと気を利かせてください。こんな時まで雑で鬱陶しい。だからモテないんですよ」
戻ってきたブルックが憤慨し、ミスティーが険のある眼差しで男達を追い払おうとする。
「モテたい方面にはちゃんとしてるっての。お前らみたいに下品になっちまうともう女として見れないんだよ。仕方ないだろ」
「お前らだって入りたての頃は可愛かったのになぁ。初心でさ」
「お陰様で逞しくしていただきました」
ジョセリンが澄まし顔で品よく嫌味を放った。
男性陣が親しみを持って接しているつもりで空回り、女性陣が辟易とする、いつもの遣り取りだ。実際、彼らは紳士的な振る舞いができる。ドレスを着た女性には。一気に日常に取り込まれたタインは純粋に懐かしいだけの気持ちになれず、食傷した息を吐いた。
女性王族の近衛騎士隊は女性だけで構成されているわけではない。生理の重い者は元より除外され、男性と同等の扱きに耐えられる女性は多くはない。必然的に狭き門なのだ。だから構成員の多くは男性で、生活の大部分を共にする彼らはタイン達を雑に扱った。同じ役割を担う仲間として受け入れた結果とも言えて、逐一貴族女性のように扱われては任務に支障が出るから、ある意味では適切である。だが一方で、騎士の道に足を踏み入れていなければ一生縁がなかっただろう耳が汚れるような猥談にも付き合わされ、嫌がればノリが悪い空気が読めないと謗られる。そんな扱いを受ければ下品なことにも耐性がつき、相応の応対もできるようになろうというものだ。彼女達をそうしたのは彼らであるのに、彼らが下品と貶めるのである。そんな理不尽に晒され続ければ嫌気もさそうというもの。そうして女性騎士達は男という種に幻滅してゆくのだ。
もしナディーンが何かしらの手を打ってくれたとしても、彼ら自身が変わらねばどうにもならないのではとタインは思う。少なくとも、ここにいる現役の近衛騎士達は手遅れだ。
「タイン!」
タインがブルックの用意したソテーを突きながら男達を追い払っているミスティーを眺めていると、食堂の入り口から弾んだ声がした。振り返るとまた懐かしい、同期の顔がある。
「あらクレイグ。走ってきたのね」
ジョセリンが呟いたが、厭うような口ぶりではない。クレイグは害はないと、女性騎士達に受け入れられている数少ない男性同僚だった。タインは気楽に挨拶をするように片手をあげた。心底安堵したように息を吐いたクレイグが歩み寄る。
「良かった、元気そうだな」
「うん。野営能力上げて帰ってきたわ」
タインが冗談めかして答えると、クレイグは破顔した。見る者の警戒心を解かせるような飾り気のない笑顔だ。タインはこの笑顔が嫌いではない。全ての男を軽蔑しているというわけではなかったから、仄かな恋心が芽生えかけた時もあった。近衛騎士は見目の良さも条件の一つであるからクレイグも例に漏れない美丈夫であるのだが、最早見慣れたもので、それが理由ではなかった。
第一王女隊に配属される前、タインは経験を積む為に様々な場所に出向している。その中で賊の討伐任務に参加する機会を得、初めての実戦に臨んだ。そして賊を仕留め損なった。賊とて武装している。していなくとも人体の臓器は大部分が骨に守られている。確実に仕留める為には突くべし、と夢に見るほど剣の使い方を叩き込まれたのに、いざ賊を前にすると、タインは剣を振ってしまったのだ。鎧の隙間、脇の下を狙える状況にあったのに、突けなかったのだ。幸い、鈍器として威力を発揮し無力化はできたので足を引っ張ることにはならなかったが、タインは落ち込んだ。これだから女はと言われることも覚悟した。そこで声をかけたのがクレイグだった。
「実際には突けない奴も多いんだよ。お前だけじゃない。いざとなったら大体の奴は剣を振り回しちまうんだ。ほら、見ろよ。結構生き残ってるだろ。人を殺すのは誰だって怖いんだよ。戦場でだってそういう奴が多いっていうんだから、お前が特別できない奴ってことじゃないんだよ」
それまでタインの耳には勇敢な戦士の話しか入ってきていなかった。だから励ます為の作り話を疑った。戦場の話なんて誰から聞いたんだと問うと、爺さんからだと言った。クレイグの祖父は、隣国のザムル王国に攻め込まれた時に領兵を率いて戦った英雄達のうちの一人だ。実際に現場で目にした者の言なら、事実と判断して良いのだろうと思った。
「しつこく刺突の訓練が組み込まれてんのは、そういうことだよ」
実に納得のいく話で、タインは必要以上に落ち込まずに済んだ。
それから度々助言を貰うようになると、徐々に打ち解けていった。女だからと揶揄いの対象にすることもなく対等な仲間として扱ってくれるクレイグに信頼を寄せ、それはやがて異性に対する好意に変わりかけていた。
「そういやあの噂、本当か? ラザフォード卿に食われたって話」
タインの隣のテーブルでは無配慮な会話が続いている。
「え、それ訊く?」
ブルックが声の主に軽蔑の眼差しを刺した。タインはナディーンから聞いた時に想定していたから驚きこそしなかったが、女性陣の温度が急激に下がる。クレイグも不自然に固まった。
「いやだって気になるだろ。あの取り澄ました連中でも、文明から離れりゃ獣になるのかとかさ」
「いくら女っ気なくてもタインだからなぁ。安心しろタイン。俺食われてないに賭けたから」
彼らは賭けまでしていたのだ。拘束時間が長く、機密が多くて外部との接触も制限されるような職場だ。仲間内で楽しみを見出すのは特別なことではなかった。彼らとしては無事が判って安心した上での戯れの範疇で、悪気もない。男同士ではさして問題にならない行為だからだ。ただ、仲間の醜聞となりかねない話だから、おそらく隊の外では話していないだろう。その程度の分別もない人間は近衛騎士ではいられないのだから。解っていてもタインは残念なものを見る目で一瞥する。ブルックやミスティーは軽蔑を隠しもせず口撃し、男達はそれを狭量だと軽くいなす。ジョセリンは白けた顔で本格的に無視を決め込んでいる。久しぶりに顔を合わせたのだ、ジョセリン達とゆっくり語らいたいが、そんな空気ではない。それに彼女達はこの後持ち場に戻る。タインは男達がああでもないこうでもないと盛り上がっている間に手早く食事を終えた。
「で、本当のところどうなんだよ」
「ラザフォード卿はとても紳士でした。あんた達と違ってね」
ブルックの口撃を掻い潜って投げられた問いに、タインは溜息混じりに答えた。
「タイン。今日は挨拶だけなんだろ? 空いてるならちょっと手合わせしないか。鈍ってないか見てやるよ」
仕方のないものを見守る体でいたクレイグが、見計らったように場から連れ出そうとする。こういうところだった。クレイグなりの気遣いだと解ってはいるが、だからこそ、これでタインのクレイグを見る目が冷めてしまった。クレイグはタイン達を対象にした下品な話には加わらないが、窘めることもない。軍隊組織はその性質上、連帯感が物を言う。和を乱さない為なのだとその姿勢の理由は理解もするが、男同士の和は乱れなくても、タイン達を蔑ろにすることを容認していることに変わりはない。だからもう、同僚以上の感情は育たないのである。