2. 敬愛すべき王女殿下
ユールガル王国の第一王女、ナディーンを乗せた船が難破した。護衛の軍艦が無事であった為、王女を含めた殆どが助かったが、数名の供を失くし、王女は大層心を痛めて喪に服したという。王女が王宮に帰り着いてから約一月後、未帰還者として処理されていた外交官と近衛騎士が無事生還した。この一報は大々的に報じられ、王都は沸いた。可憐で聡明な心優しい王女は王都では大変な人気で、彼女の悲しみが癒えて笑顔を見せてくれることを心待ちにしていたのだ。
「嗚呼、待っていたのよタイン。顔をよく見せて。大きな怪我はないと聞いていたけれど、体調はもういいのね?」
ナディーンはタインが復帰の手続きを終えたその日に私室に呼び寄せ、無事を喜ぶ声を直接かける場を設けた。
「はい。静養期間をいただきましたが、然程問題があったわけではないのです。水も食料も豊富な場所でしたから、危機的な状況にはなりませんでした。却って逞しくなって帰ってきたくらいかと」
タインはティーテーブルを挟んで数歩離れた位置で立ち、座している王女への礼を解いて、以前より少し日に焼けた顔で微笑んで見せた。幾分痩せた身体はより引き締まったと言える範囲だ。ナディーンは、まあ、と瞼を擡げ、直ぐに頼もしいわねと笑みを広げた。
「クォン島だったわね。いつだったか、百年前に絶滅した筈の幻の大鷲がいるという目撃情報を調べる為に、調査隊を派遣したことがあったわ」
「そのお陰ですね。ラザフォード卿はその調査資料に目を通したことがあったそうなのです。島の特徴からクォン島であることを導き出して、帰還の算段がつけやすくなりました」
「あらでは、共に漂着したのがウィンダムで良かったということになるのね」
「ええ、ラザフォード卿には助けられました」
ナディーンの声から感情が少し抜けて、タインは引っ掛かりを覚えながらも無難に答えた。
「そう」
今度ははっきりと考え込むように、ナディーンの声の温度が抑えられた。
「殿下?」
それでも深く考えに沈むようではなく、タインの顔色を窺うような気配が見えるので、タインはそっと、不躾にならない程度に先を促す。
「貴女はウィンダムをどう思っているの?」
タインは問いの意味を判じかねて、二度瞬く間を置くことになった。
「そうですね……頭の良い方なのだと思います。随分と物事を難しく考えていらっしゃるようで、私には仰っていることが理解できないこともありましたが、ええ、それだけ頭の良い方なのだと思います」
「男性として、好ましいかしら?」
ナディーンの探るような目が強くなって、タインは困惑する。
「それはどういう」
「貴女達が無事生還したことは喜ばしいことよ。そう、とても喜ばしいことじゃない。素直に喜べばいいだけのことだわ。なのに」
ナディーンはタインから視線を外し、苦々しく言葉を途切れさせる。困惑を深くするタインの視線を受けながら、ナディーンは額を押さえるようにして背もたれに深く沈んだ。
「タイン、落ち着いて聞いてちょうだいね。貴女は傷物になったことにされようとしているわ」
「は」
タインは王女の御前であるというのに、間の抜けた声を発した。直様口を閉じて、高速で思考を巡らせる。
タインは騎士である。体を張って多種多様な暴漢から仕える主を護る、近衛騎士である。それは傷物になることもあろう。なんなら訓練でだって傷はつき、残っている痕とて既にある。それがどうしたと思いかけて、今までの会話を加味してはっと思い直した。ひょっとしてそれは未婚女性としての意味なのではないかと。未婚女性が婚約者ではない男性と個室に二人きりになっただけで醜聞になるような世界だ。タインは無人島で男性と二人きりであった。扉を開けば人に会えるような部屋よりも尚悪く、更には二月以上に及ぶ長期間を共にしている。
なるほどとタインは思った。口さがない連中が、タインを未婚女性として終わらせようとしているのだ。それに対してこの王女は心を痛めている。タインの表情が和らいだ。
「殿下、お心を砕いてくださってありがとうございます。ただ、私は生涯独身であることを厭うておりませんので、そのような噂が立っても何も問題はありません。それに、私は今年でもう二十五です。疾うに行き遅れております」
だから王女が気に病むことはない、心安らかにと伝える言葉に、ナディーンはかっと目を見開き背もたれから身を起こした。
「貴女もなの!?」
女性騎士は採用開始以来問題を抱えている。
貴族の娘は家の為に嫁いでこそ。他に使い道がないとも言う。だが騎士となった娘達は政略結婚からは外されており、殆どが行き遅れる。厳しい訓練の結果、女性らしからぬ肉体を得、女性らしからぬ猛々しさを持ち、女性らしからぬ知見を広めた彼女達は敬遠された。王族の覚えめでたいという理由で望む者もいるが、彼女達自身がそれを拒み、生涯独身を決意する者も多い。男の実態を知らされず、貞淑であれと育てられた潔癖な年頃の娘達が完全な男社会に放り込まれた時の衝撃は、貴族の娘として刷り込まれた価値観を覆すほどのものだったのだ。ただ、覆ったのは彼女達の価値観だけで、女性の生涯独身は依然として外聞の悪いものである。
「独身でいる為に女官や侍女に転身して、立派に身を立てている元近衛騎士達を沢山知っているわ。だから必ずしも悪いことだと思っているわけではないのよ」
ナディーンには人の話に耳を傾け、各々の事情というものを理解できる柔軟性がある。だが女性騎士のこの問題には心を痛めていた。安直にタインを咎めているわけではない。
「だからといって、わたくしの騎士が欠陥品のように見られるのは我慢ならないのよ」
自身のことのように悔しがるナディーンはタインにとって、敬愛に値する王女だった。ただ可愛らしいだけでなく、ただ聡いだけではない。そしてただ護られてばかりいるのではないのだ。護られる立場であるからこそ、それに報いるが如く仕える者に心を砕ける人間なのである。
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで十分です」
タインは満たされた微笑みで胸に手を当て礼を執った。
「話を終わらせないでちょうだい」
ナディーンはそれを、冷や水を浴びせるかのように厳しい声音で跳ね除けた。
「それで、どうなの。ウィンダムは貴女の夫に相応しい男性かしら」
タインは答えに窮した。
噂の立った男と婚姻の話が持ち上がるのは自然な流れだ。噂通りであったとしても、当人が責任を取るのだからなんの問題もなくなる。最も簡単ですっきりした解決方法だ。無人島に流れ着いた二人が苦難を共にし、深く絆を結び合ったと美談にもできるだろう。だからナディーンもそれを提案しようとしているのだ。おそらくナディーンはウィンダムの調査は終えていて、彼自身に問題はないと判断したからこそ、タインの気持ちを訊いている。
「お心遣いは大変ありがたいのですが、ラザフォード卿がどうという問題ではないのです」
ナディーンは暫くタインを見据えていたが、やがて深い溜息をついた。
「本当にこの、悉く男嫌いになる問題をなんとかしなければならないわね」




