19. 最大の敵、それは暑さ
ナディーンの侍女達には誰一人倒れた者はいない。元々スカートであるから風通しが良いことに加え、日除けの道具がユールガルでも使う日傘であるから、騎士達のような反発がなかったのだ。
「此方の衣装、着てみたいわね」
ナディーンは籐で編まれた長椅子に座り、窓の外を歩く邸の使用人を目で追いながら呟いた。大きな羽の扇でナディーンを扇いでいる侍女の一人が、そうですね、と頷く。此方ではコルセットで身体を締め付ける必要のないシュミーズドレスを着用しているのだが、それでも現地人が平然とした顔で過ごしているので、彼らの着ている貫頭衣が涼しく見えるのだ。
「申し訳ありませんが殿下」
向かいの長椅子に腰掛けているウィンダムが、ちらとも申し訳なくなさそうに答える。
「解っているわよ。わたくしがきっかけを作っては駄目なのよね」
ナディーンは溜息をつく。
「ええ。訪問を我々からとしたのは、逆は成り立たないというだけですから」
そしてナディーンにその役が回ってきたのは、まだ王太子を訪問させるような情勢ではないからだ。ユールガルでは重要人物だが、グルバハルを刺激しない、丁度良い王族がナディーンだった。
「そうね。わたくしを無傷で帰して、グルバハルの誠意を見せてもらわなければ」
ナディーンはこの使節団の趣旨をよく理解している。ナディーンは謂わば、試金石なのだ。さりとてただのんびり運ばれているだけではない。
ナディーンは派遣に向けて、日常会話ができる程グルバハル語を修得していた。そこまでの修得は事故で派遣が延期されたお陰でもあるが、ナディーン自身の努力によるところも大きい。但しそれは公にされておらず、実際にそれを披露することもない。食事や茶に招かれても通訳を介して話す。ナディーンが招かれるものは女主人が主催しており、第二、第三夫人や親戚、娘達が同席していて賑やかだ。一夫多妻制の為、一つの家の女性の人口密度が高いのだ。初めこそ異国の人間に対する警戒心や遠慮があったようだが、ナディーンに向けての言葉以外は訳されないと判ってからは、親戚間のトラブルの愚痴や近隣の有力人物評など、本来ならば客人に聞かせないような会話が飛び交うようになった。ナディーンはその一部始終をウィンダムに報告していた。
「わたくし達の訪問の事情は知っているけれど、それについての意見は持っていないようだわ。まるで他人事よ。ただわたくしを接待するよう、言い付けられているだけのように見えるわね」
ナディーンが報告をそう締めくくり、想定内といった風にウィンダムは頷く。グルバハルでは、貴賤問わず女性が政に触れることはない。ナディーンにも試金石以外の価値があるとは思われていないのだ。
「ところでウィンダム、聞いたわよ。わたくしの騎士に横槍を入れられているのですって?」
ナディーンは揶揄うように目を細めて微笑んだ。
「良い耳をお持ちのようで」
ウィンダムはナディーンを扇いでいる侍女達に目を向けた。侍女達は澄まし顔で、或いは困った顔で目を逸らす。侍女達もナディーンと共にグルバハル語を学んでいるが、此方もまた、ナディーンと同様の振る舞いをしていた。だから邸の使用人達の、ユールガルに配慮しない噂話が容易に耳に入る。
「殆ど会えていないとも聞いているわ。外交官と騎士の組み合わせって、あまりよろしくないのね?」
「今は仕事が立て込んでいるからです。殿下もご存知のはずですが」
「面白味のない男ね。顔色の一つくらい変えなさいよ。この間だって、わたくしが教えてあげなかったら会えていなかったでしょうに」
「その節は大変ありがとうございました。この時間も非番だと殿下が教えてくださいましたね」
ウィンダムは微笑み、ナディーンは呆れた顔をした。
「わたくしに退室の圧力をかけるなんて、貴方くらいのものよ」
「何を仰られているのか解りかねます」
「……もう良いわ。行ってあげて」
ナディーンは追い払うように片手を振った。
タインは噴水近くの木陰にあるベンチで涼んでいた。風向きによっては飛沫がかかるが、それが気持ち良い。できることなら噴水に入って水浴びをしたいものだと毎度思っている。人通りがなければ、と視線を巡らせると、銀鼠色の文官服が目に入った。騎士を待機させたその人は、タインの居場所を把握していたかのように迷いない足取りで歩いてくる。
「お疲れ様です。休憩ですか」
ベンチから立ち上がりタインが声を掛けると、ウィンダムの表情が緩んだ。
「ああ、少しね。身体は辛くないか」
「暑いことは暑いですけど、大分慣れてきました」
ウィンダムは目を細め、手を伸ばした。顔をよく見ようとでもするように、タインの頭巾の布を後ろに流す。
「あれは気に入らなかったか」
「あ、いえ。こいう使い方をすると、刺繍が駄目になってしまいそうで使えなくて」
タインは非番でも支給された紋章入りの頭巾を使っていた。個人的に贈られた頭巾は全面に刺繍が施されているのだ。青い布地と同系色の糸であまり目立たないが、エグランデ侯領でよく見られる草花で構成されており、支給品と同じくユールガルで注文したものだと判る。何度もきつく捻っていれば刺繍がほつれるのも早いだろうと思うと、頭巾としては使えないのだ。何より、非番といえど即応性を高めておかねばならぬグルバハルの地で、私物を纏っている場合ではない。
「そうか。配慮が足りなかったな」
「いえ、肩掛けとしても使えそうなので、ユールガルで使います」
「そうか」
ウィンダムの残念そうな気配は直ぐに消えて、この人は相変わらずだな、とタインはどことなく照れくさくなる。
「話せる時間があるなら座りませんか」
タインは落ち着かない気持ちを誤魔化すようにベンチに誘い、二人並んで腰を下ろした。
「私が対処すると言った件ですが」
タインが話すべきことは幾つか溜め込んでいるが、喫緊のことから切り出した。進捗状況の報告も必要だ。
「ああ、クレイグ・ベアード君だね」
「はっきりと断ったのですが、長期戦になります」
「……うん?」
ウィンダムは軽く片眉を上げた。
「貴方の所為も多少はあると思います」
「私?」
「ウェン、クレイグを脅したんですよね」
「仄めかした程度だけどね」
タインの咎める眼差しに、ウィンダムは悪びれもせず頷いた。
「それで心配になってしまったんですよ。ウェンが怖い人だから、って」
「……逆効果だったか」
ウィンダムは視線を宙に浮かせ暫し考え込んだ。
「それで? 多少ということは、他に心当たりが?」
問いには矢張り、とタインは少しばかり緊張する。
「言わなければなりませんか」
「対策を考えたいからね」
ウィンダムの言葉は尤もだ。だがタインは言い難い。
「……私の気持ちを正直に答えてしまって」
「ベアード君への?」
「………いえ」
「タイン?」
ウィンダムの促す声は穏やかだから、タインは尚のこと言い難くなる。疚しいことはないのだが、傷付けるか、そこまでいかずとも落胆させるかもしれないことを告げねばならないのだ。
「………貴方に惚れているかを訊かれたんです」
ウィンダムは得心が行ったように頷いた。
「なるほど。もうそれはベアード君が納得するのを待つしかないな」
あまりにもあっさりとしていて、タインは肩透かしを喰らったような気分になった。どう答えたのかさえ訊かれず物足りなさを感じて、そう感じたことに戸惑う。
「貴女はいつも通りでいれば良い。強硬手段に出られるようなことがあれば、報告して欲しいけれどね。……聞いたよ、初めて動物を捌いた日は、吐きながら無理矢理肉を食べたんだってね」
「そんな恥ずかしいことを話したんですか!?」
話の結論は出たとばかりに変えられた話題に、タインはぎょっとした。
「恥ずかしいことではない。貴女が努力をしてきた話だ」
「それは、そうかもしれませんが」
それでも吐いた話など態々知られたくはない。羞恥を逃しきれなくて、タインは片手で額を押さえる。瞑目したタインの隣で、ウィンダムは吐息した。
「嗚呼、悔しいな。どれも知らない話だった。落ち込んだ日の貴女の、悔しくて泣いた日の貴女の傍にいてあげたかった」
「いえ……その、ありがとうございます」
タインは両手で顔を覆った。クレイグは何故そんな話ばかりしたのか、若しくはウィンダムが聞き出したのか。恨めしくなりながらも、辱める意図はないのだからと何とか礼だけは絞り出す。
「その日の貴女ごと、今抱きしめてもいいかな」
タインは手から顔を上げ、丸くなった目でウィンダムを見た。
「ごめんなさい。今、暑いので」
何よりも先に思ったことが口から出た。羞恥の分、外気の所為だけではなく熱が内にこもっている気もする。
「……………………そうだな。今は暑苦しいか」
ウィンダムは言葉の意味を熟考するように数秒固まっていたが、眼鏡を指で押し上げ、気を取り直したように頷いた。
「次は寒い場所に漂着しようか」
「……露骨ですね」
趣旨が丸分かりだと胡乱な目でタインが指摘すると、ウィンダムは正面を見て腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「過去などという変えようがないことで悔しいなどと、馬鹿馬鹿しいとは思う。そのようなことに拘る時間があるのなら、未来設計の一つや二つ議論する方が有意義だ。ベアード君が貴女とどれほど濃い時間を過ごしたところで、貴女に対するその特権は私が有しているのだ。だが悔しいのだから仕方がないではないか。貴女がベアード君に許さないことを私に許してくれたら、少しは収まるかと思ったのだ」
気難しげな横顔に拗ねたような色が隠れているのを見つけて、タインは仕方のないものを見るような眼差しになった。指先への口付けなどクレイグに許したことはないのだが、半分以上嵌めたようなものだと自覚があるからきっと、数にいれていないのだ。そう思うと本格的に仕方のない人に思えてきて、タインの口は自然と動いていた。
「遭難なんかじゃなく、旅行を希望します」
遭難にしろ旅行にしろ、暫くは無理な話だ。それでも旅行ならタインの意思は含まれている。ウィンダムは虚を衝かれたようにタインを見た。ウィンダムがあまりにも凝視するので、タインは怯んで距離を取るように上体を傾ける。
「なんですか。死ぬような目に遭わなきゃ駄目なんですか」
「いや、そんなことはない。貴女が望むなら、それが一番良い」
ウィンダムの声は少々ほうけていた。何か衝撃を与えるようなことを言っただろうかと自分の言を振り返ってみて、タインは動揺した。
タインはただ、そんなことの為に身を危険に晒すのはどうなのかと言いたかっただけだ。だがこれではまるで、危険がないと抱きしめてもらえないのかと言っているようにも受け取れてしまう。未熟であった過去の話を知られた時とはまた別の羞恥で体温が上がった気がした。
「…嗚呼、そうだな。旅行か。そうしよう。それがいい」
ウィンダムは噛み締めるように何度か頷き、そうしている間に気難しげな空気は解けてゆく。目元もすっかり緩んで、タインが直視するのが恥ずかしくなるような甘やかさを含んでいた。タインは何を言っても墓穴を掘りそうで、口を引き結んで正面を向く。噴水を見ている間に熱が引くことを願ったが、落ち着きを取り戻す前に、頬にかかる頭巾の布がウィンダムの手で背中に流される。
「矢張り今、抱きしめたいのだが」
「暑いからやめてくださいと言ったでしょう」
「そうだな。暑いからな」
タインは睨んだのだが、ウィンダムの緩みきった顔は元には戻らなかった。




