11. そう簡単に出る尻尾はない
微笑みを浮かべたリガラド侯爵がゆっくりと歩み寄ってくるのを、タインとウィンダムは並んで迎えた。
「久しいな、ラザフォード卿」
「お久しぶりです。ご壮健で何よりです」
ウィンダムは警戒するでもなく、そつのない受け答えをする。
「卿こそ無人島帰りとは思えないほど壮健ではないか。もう職場に復帰していると聞いているぞ。若さというのは武器だな。喧嘩相手の健在を嬉しく感じるとは、老いを感じるよ。私のような歳になると、噛み付いてくる相手は中々見つからなくなるものだからな」
黒髪や口髭に白いものが混じるリガラド侯爵は、五十を超えている。加えて政敵を次々と打ち負かし、或いは懐柔していれば、自然と噛みつく者はいなくなるものだ。胴の厚みは不摂生の現れというより、貫禄を醸し出すのに一役買っていて、品も損なっていない。恰幅が良いと言うに相応しい。深みのある声には嫌味がなく、目は鋭いが柔和に微笑むことで友好的であるように見える。一見して魅力的に映る人物だ。
「光栄です。並居る重鎮を差し置いて、喧嘩相手に数えていただけるとは」
「はは、謙虚ぶるな。此度の件で遣り込められた人間が、どれほど悔しがっていると思っている」
「敵を作らぬ立ち回りというものを学んでいる最中です」
「そうだな、それは研鑽した方が良い。卿はまだ尖りが目立つ。向こうでミラド子爵が睨んでいるぞ」
リガラド侯爵が軽く体を開いて目線で示した先で、ウィンダムよりも年若く見える青年が、険のある目で此方を見ていた。
「あれはただの嫉妬ですね」
ウィンダムには直接見覚えのない顔であった。つまり仕事上の関わり合いはないから、負かしてもいない。素っ気なく判じたウィンダムに、リガラド侯爵は愉快そうに笑った。
「そうだ、卿は妬まれているぞ。そのような興味のない顔をするな。妬みというのも馬鹿にならんものだ。もう一人だけの体ではなくなるのだろう、つまらぬことで命を散らしている場合でもあるまい」
リガラド侯爵の視線がタインに流される。
「其方が希望を繋いだ騎士か」
忠告とも警告とも捉えようがあるリガラド侯爵の言葉に、タインは探るような目になりかけていた。気取られないように目礼の形で目の表情を隠す。
「エグランデ侯爵の次女、タイン嬢です」
タインはウィンダムからの紹介を受けて膝を軽く折った。
「お初にお目に掛かります。社交の場は不慣れですので、無作法はご容赦いただきたく」
タインの話し方には淑女のたおやかさがなく、滑舌の良さに職種が滲み出ている。
「なに、近衛騎士ではドレスを着る間もあるまい。そのお陰で我が国は優秀な外交官を失わずに済んだのだ。煩くは言うまいよ。貴女のような娘を持って、エグランデ侯爵も鼻が高かろう」
リガラド侯爵は鷹揚に笑った。
「恐れいります」
「生還しただけでなく、有能な妻まで得るとは、卿には幸運の女神でもついているかのようだな。私からも婚約を祝わせてもらおう」
リガラド侯爵は一度グラスを掲げて祝意を表すると、立ち去っていった。
それを皮切りに様子見をしていた人間が、一人、二人と近付き始めた。応対は主にウィンダムが行う。タインは紹介に従って二言三言挨拶をするだけにとどめ、密やかな観察、警戒に徹した。タインに対して好奇の目を向ける者もいたが、隣には常にウィンダムがいて、ナディーンの祝辞、リガラド侯爵の祝意と続いた為か、公のこの場で貶めるような発言をする者はいなかった。
「リガラド侯爵は随分と友好的でしたね。対立しているのではなかったんですか」
帰りの馬車にウィンダムと二人きりになると、タインは早速接触してきた人物を振り返る。
「ああ。あれは政策で対立しても、私個人に含むところがあるわけではないとの対外アピールだな」
ウィンダムはあっさりとした解説をした。
リガラド侯領は元々はザムルと国境を接しており、五十年前の戦での一番の功労者が当時の当主である。ゴルデアがユールガルに与し、辺境伯という新たに創った爵位を授けられた際に、国境を護る役目を譲っている。だが代替わりした今でも軍事力を削ることはなく、万一ゴルデアがザムルに靡いたとしても、抑えられるだけの力を保持していた。リガラド侯爵がゴルデア辺境伯に含むところありと勘繰られると、内乱の種になりかねないのだ。
ゴルデア周辺の込み入った事情を頭の中で復習って、タインは考え込む。ならば先のリガラド侯爵の言は忠告の方か、と。
「では貴方の命を狙うほど、脅威には感じていないということでしょうか」
「どうかな、あの辺になると簡単には腹の底が見えないからな。リガラド侯爵はグルバハルから謝罪を引き出せれば、いくらかの譲歩は考えるという立場だ。それを額面通り受け止めるなら、交渉は一先ず静観すると思う。そうでなかったとしても王女殿下を害するような、賢くないやり方はしないだろう。だから怪しいのは他の、譲歩のじの字もない連中だと私は思っている」
ウィンダムはそういった話を一通り捜査部に話しているという。タインにも今回の夜会で警戒すべき主な人物は事前に知らされていて、それにはウィンダムの話を参考にした部分もあるようだ。ただ、名が挙がっていた人物は、リガラド侯爵の他は一人も近付いては来なかった。今日のところはウィンダムの所感を一通り聞いて、接触してきた人物とその様子、その他の会場の様子と共に報告を上げることでタインの仕事は終了する。
「貴女には苦労をかけるな」
一息つくと、ウィンダムが言った。
「任務ですから」
タインは簡潔に頷く。ウィンダムは片頬で僅かに苦さの混じる笑み方をした。
「反対の声を上手く宥められていれば、そもそもその任務がなかったのだ」
ウィンダムは、現在の状況は説得しきれなかった自分の力不足からだと言う。犯人がユールガルの人間であるならば、そういう側面もあるのだろうとタインはその言を受け入れるが、その場合でもそれだけではないだろうとも思う。要注意人物に挙げられた反対派の人物の中には、ザムルの血が混じるウィンダム自身に反感がある者もいるのだ。
「血が気に入らないだけの人もいるのでしょう。能力は関係ないのでは」
「……そうだな。そういったものは、端端に見られる。まったく、人間というものは合理的にはできていない」
ウィンダムの苦笑いには疲れのような、諦めのようなものも混じっていて、苦労の影が垣間見えた。ウィンダムは窓の外に流れる景色に視線を向ける。落ち込んでいるようではないから、タインはそうですねと、ただ相槌を打って同じように窓の外を見た。街灯に照らしだされる建物と薄闇が交互に過ぎてゆく。
「貴女にも、この手の嫌な思いをさせてしまうかもしれない」
「なんですか、今日は弱気ですね」
タインがウィンダムを見ると、その顔はまだ外を向いていた。その眉間には僅かに皺が寄っている。
「守る気ではいるが、気概だけで全ての悪意から守れるわけではないからな」
ウィンダムの妻になるということは、ウィンダムが受けてきた理不尽を、共に受けるということでもある。タインは婚姻を受け入れたばかりでそこまで思い至ってはいなかったが、然程重大なこととも思えなかった。それよりも、自分に向けられるものとしては珍しい言葉が普段と同じ調子で紡がれて、不思議な気分になる。ウィンダムがこうしたことを言うのは二度目だ。ウィンダムは普段のタインは知らなくても、無人島でのタインを知っていて、その逞しさは十分理解している筈である。守ろうなどという発想がよく出てくるものだと思うのだが、どういうわけか、同僚に言われていたら顔を出していただろう反感を、全く感じない。
「生まれついたものによる否定なら、私も覚えがあります。女というだけで正当に評価されないことは、ままありました。ウェンの受けてきたものとはまた違ったものでしょうけれど、少なくとも、耐性はありますよ」
「…そうだったな」
ウィンダムは注意深い眼差しをタインに向けた。
「だが慣れているからといって、何も感じないわけではないだろう」
「そうですね。腹は立つでしょう。でも。傷つく必要のないことだと、解っていますから」
侮りからではない純粋な心配が伝わってきて、タインは自然と微笑んでいた。ウィンダムの眉間の皺が、目元を緩めるのに合わせて消える。
「頼もしいな」
そのまま口元が滲むように笑みを形作った。
「リガラド侯爵は一つ、間違っていたな。幸運の女神がついているのではない。貴女が私の幸運なのだ」
タインは虚を衝かれて、暫く二の句が継げなかった。