10. 卵が先でも鶏が先でも
────何故それを公言してしまうんだ。
タインは敬愛する王女から祝辞を受けたというのに、呆然とした。
タインはウィンダムの同伴で、ナディーンが参加する夜会に出席していた。
ナディーンの予定は一年先まで立てられていて、警護計画が予め練られている。この夜会はその年に功績のあった者達を労う目的で催されているものの一つで、ナディーンも公務を担うようになってから毎年出席していた。今年はグルバハルへの派遣があって欠席の予定だったが、再派遣の目処が立たずまだ国内にいる為、出席の運びとなっている。ウィンダムは功労者として招待されていて、タインは特別任務中であるから、ナディーンがいてもドレスを着てウィンダムの傍にいた。ここまではいい。任務である。
「長年閉ざされていたグルバハルへの道を開いたウィンダム・ラザフォード男爵、そして不幸な事故に遭った男爵を助け、我が国に希望を繋いだタイン・スウェイズ。この二人が絆を育み、縁を結んだことは大変喜ばしいことです。この婚約をわたくしは心から祝福します」
主催者に続いて挨拶に立ったナディーンが、心の底から喜びを溢れさせて祝辞を述べた。
大々的に紹介される形になったウィンダムとタインに視線が集中し、拍手が送られる。ウィンダムは表情を強張らせているタインの手を取り、礼を執る。
「タイン。笑って」
小声で促すウィンダムは至って冷静である。婚約に言及する祝辞があることを知っていたのだ。タインはウィンダムを反射的に睨みそうになったが、眉間の力を無理矢理抜き微笑みを浮かべる。片手でスカートを摘み膝を折る、淑女の礼を執った。
「どうして教えてくれなかったんですか」
「教えたら、殿下に直訴しなかったと言えるかい」
それは待ってくださいませんかと、一言申し上げたくはなったかもしれない。解消予定のものに、王族のお墨付きをもらっては困る。ただ、訴える相手はロチェスターだ。王女が個人的に気にかけてくれているのだとしても、直接相談されたわけでもないのに、一介の近衛騎士が意見するものではない。それにロチェスターに訴えたところで、その時点で言いくるめられたのではないかと思う。若しくは伝えておくと、頷いておきながら伝えないかである。
「外堀、埋めようとしていますね」
タインは対外用の微笑みを保ったまま唸った。
「とっくに埋まっているのだが、強固になるなら好都合だ」
「正直すぎますよ」
本来ならば、男爵と侯爵家の次女との婚約など、公の場で王族に祝辞を受ける程のことではない。
ナディーンは純粋に、タインを守ろうとしてのことだと理解できる。王族の喜ぶ婚約だと示すことで、心無い者の口を、ある程度塞げるのだ。一度喪に服しているから、生還者である二人を特別気にかけていたともとれて、不自然ではない。だからナディーンが自発的に行ったことだとも思えるが、この様子では、ウィンダムも無関係ではない。どころか、ウィンダムが唆したようにすら思えてくる。恨めしさから思考が傾いたが、待てよ、とタインは持ち直した。真相は兎も角、ナディーンは立場を弁えており、公の場で国王の意に反することはしない。つまりこれは、国王にとっても喜ばしい婚約だということだ。
ユールガル貴族の婚姻には、国王の承認が必要になる。王家にとって望ましくない婚姻というのは確実にあって、その場合はなかなか承認が下りない。タインの場合は侯爵家の娘故というより、現役の近衛騎士であるからといった意味合いで目が厳しくなる筈だ。王家に対して二心を抱く家とつながりを持った者を、一時とはいえ王族の身辺に侍らせるわけにはいかないからだ。その点、こうしてナディーンに祝福される程なのだから、ウィンダムは問題がないと見做されているのだろう。それに万一ラザフォード家にザムルへの復帰を願う気持ちが隠されていても、王家に寄り添う侯爵家を思い止まらせる重石にできる。
そもそも、ウィンダムの叙爵も単純な褒賞の意味合いだけではない。国王にとってはこの婚約も、国交交渉に向けてウィンダムをユールガルに雁字搦めにする手段なのだ。
改めて思い返してみると、タインの静養中にロチェスターが根回しをしていたのだとしても、あんなに早く婚約が調ったのは、事前に承認が出ていたとしか思えない。つまり。ロチェスターから話が上がらずとも、侯爵家に婚姻の命が下っていておかしくなかったということではないか。
誰が主導で誰が動いたにしても、醜聞の当事者がウィンダムとタインであったが為に、ごく当たり前の解決法に意味が生まれた結果だ。おそらくウィンダムは、タインよりも早くそれらのことに気付いていた。
ああだから、とタインは改めて納得する。外堀はとっくに埋まっていた。だからウィンダムは改めての婚約申し込みを諦め、宣言に切り替えた。この件に関してはウィンダムを詰るのは筋違いなのだろう。
拍手が収まる頃合いを見計らって、ナディーンは別の人間に話題を移し、周囲の人間はそちらに意識を向ける。視線から解放されて、タインは諦めたように吐息した。
「でも、正解でした」
ウィンダムは間違ったことはしていない。少なくとも、ウィンダムの気持ちを疑う機会は一度も訪れなかった。
「この婚約は、初めから解消できないと決まっていたんですね?」
「……それはまだ気付かずにいて欲しかったな」
タインが何故と目で問うと、ウィンダムは目立たない場所へと誘うようにタインの腰を支えて歩み出す。ナディーンの話が終われば興味本位の人間達の相手をせねばならないから、二人で話せるのはそれまでの短い間だ。ウィンダムがすっかり隠れてしまう場所を選ぼうとするので、タインが目立ちはしないが招待客の視界からは消えていない、警備の目の届く場所に誘導し直す。
「諦めではなく、納得して受け入れて欲しいからだ。私は貴女と、心を交わしたいのだから」
壁際で向かい合うとウィンダムが言った。タインの片手を取っているが、掌に乗せているだけで握ってはいない。一瞬握りかけて開いているから、手を塞がれることを避けたいタインへの配慮だと判った。ウィンダムも、タインを伴うことの意味を忘れてはいないのだ。
こういうところだとタインは思う。私情に訴えようとする行為は迷惑でも、この任務に苦を感じないのは、ウィンダムがタインの立場を適切に尊重しているからだ。困った男だと思う。とても、困った男だ。
「私は公私を分けたいんです」
タインはそのウィンダムの手を見ながら呟いた。
「どんなに優秀な騎士でも、私情が絡めば判断力が鈍るものです」
そうだな、と話を滞らせない程度の相槌がタインの耳に入り込み、ウィンダムの顔に目線を上げる。
「私は貴方の命を預かっているんです。───もし。もしもの話です。もし、万が一。今私が貴方との恋に溺れるようなことがあったら、任務に綻びが出るかもしれません。私はそれを、許容できません」
恋にはタインも少し、覚えがある。嘗て抱きかけていた淡い想いがそのまま育っていたら、おそらく今のタインはない。クレイグに異性として見てもらいたくて、鍛錬が疎かになっていたのではないかと思う。男と肩を並べていたら、そういう目で見てもらえないのだと思い知らされていたからだ。あの時はまだ若く、一つ一つのことに律儀に傷ついていて、辛い時期だった。騎士としても未熟で、そういった危険性を孕んでいたのだ。
今のタインは騎士としての誇りが確立できている。だからこそ、恋だの愛だので浮かれて思考が削がれたが為に危険の予兆を見逃し、ウィンダムに怪我でもさせようものなら、自分を許せないだろう。
「婚姻はすることになるのでしょう。ならば逃げたりはしません。だからこの任務が終了するまで待ってください」
「わかった」
予めそうすると決めていたかのような自然さで、ウィンダムは頷いた。
「私の気持ちは疑われていないようだから、待てるよ。……その。生理的なあれではないからね」
ウィンダムはタインと目を合わせていたが、最後は目が泳ぎ、少し言い淀んだ。タインは吹き出しそうになったものを呑み込んだ。
「いえ、もうそれは……あの時はすみませんでした。特殊な状況下でしたので」
扇子を開き口元を隠しはしたが、タインの肩は震えた。
「笑うことはないだろう」
眉間に皺を寄せ、不服そうな声を出すウィンダムの耳がほんのりと赤い。日頃はタインが聞き流しそうになるほど小難しく理屈をこねるのに、物慣れなさが顔を出すと途端にそこらの青年と変わりがなくなる。タインの知っているウィンダムは、ずっとこうだ。イーノックが何を怖がっているのかは判らないが、少なくともタインには、親しみやすさが浸透している。
タインは扇子を閉じ、その指先をそっと胸元の蒼玉に添えて示した。
「遅くなりましたが、ありがとうございました」
ウィンダムは今日の為のドレスを贈ろうとしていたが、タインは武器を仕込む為に特別な誂えをしたいからと、断っている。代わりというわけではないが、言いそびれていた礼を言う為に、婚約式の際に贈られた蒼玉を身につけていた。婚約解消時に返却を考えているとはいえ、何も言わないのはいくらなんでも礼を失していたと反省したのだ。迎えに来たウィンダムがそれを見て判り易く上機嫌になったので、もしかしてこれは期待を持たせてしまう行為だったのではと、その時は罪悪感と共に礼を呑み込んでしまっていた。
今ならば、少なくとも婚姻が避けられないことは受け入れた。本物の婚約者からの贈り物を返す不義理もないだろう。笑って気持ちも解れた流れで、タインは複雑な気持ちを幾らか取り払った礼を口にすることができた。
「ああ、うん。贈ったものが貴女の意思で身につけられると、嬉しいものだな。その」
ウィンダムの落ち着きがなくなった。口を引き結び、視線がウィンダムの手に残っているタインの片手、壁、タインの目、招待客達、そしてまたタインへ、と彷徨う。
「どこまで許されるものかな」
「何がですか?」
「口付けたいのだが」
ウィンダムの視線がタインの唇に注がれて、タインはぎょっとした。
「今、待つと言ったばかりでは!?」
「気持ちを表現するのはまた別の話だ」
「そんな勝手な!?」
「私は利己的な人間なのだ」
「そういえばそんなことも言ってましたね!?」
「そんな人間が恋をすれば、よりその傾向は強まらざるを得ないのだろう。愛とは利他的なものであるそうだから、この気持ちが愛に変わるまでは容赦してほしい」
「間違えようもなく利己的!」
「あまり声を上げると、痴話喧嘩のように見られるのではないだろうか」
流れるように指摘されて、タインは不服を訴えようとする口を閉じた。ウィンダムと向き合ってはいても、人の気配から注意を逸らしてはいないから、いくつかの視線が二人に注がれているのはずっと感じていた。
「もう誤解されているかもしれない。それを払拭するにはどうしたら良いと思う」
「……狡いです」
抵抗を封じられる形になって、タインの声は絞り出すようになった。ウィンダムは熱に浮かされたような目をしていながら、状況を利用する頭の切れを鈍らせていないようで、戦慄もした。
「恋をしているのだから仕方がない」
そういうものだろうかとタインは内心首を捻る。恋は人を愚かにするものだとは思うし又、タイン自身が愚かになりかけた覚えはあるが、狡くなった覚えはないから納得はいかない。だがタインの知っていることが全てではないのだろうとも思うから、煮え切らない顔になった。
「どこならいいかな」
「ゆ、指先でいいのでは」
兎も角この状況を、不和と認識されないように乗り切らねばならない。タインはいつもの場所を指定した。ウィンダムは素直にタインの手を持ち上げる。タインがほっと気を緩めてそれを見守っていると、指先にウィンダムの唇が触れて、え、と声を上げかけた。今までは仕草だけであったから、失念していた。はっきりと口付けたいと言葉にされていたことを。ウィンダムは口付けたまま、タインの唇を見た。本当はそこに口付けたいのだとでも言うように。タインは顔が熱くなるのを自覚して、狼狽える。
「ウ、ウェン」
手袋越しとはいえ、なかなか離れない指先の感触にいたたまれなくなって声をあげた時、視界の端の気配が動いた。条件反射のように意識が切り替わり、タインは口にしようとしていた言葉を変える。
「ウェン、リガラド侯爵です」
ナディーンの話が終わり、人々が動き出したのだ。