1. 相応の対処をさせていただきます
「思うに恋に落ちると正常な判断ができなくなるのは、繁殖が安全を脅かす行為であるからではないか」
その日に限って、ウィンダムがタインを助けようとした。結果、共に崖から転げ落ちて谷底である。ウィンダムはペンと弁舌をふるう時間の長い文官である。身体能力が足りなかったのだ。何故こんなことを、大した高さではないのだから私一人なら問題はなかったのにと、ウィンダムの傷の手当てをしながら窘めたタインへの返事がこれである。
タインはウィンダムの頭を調べようと手を伸ばす。
「頭は打っていない」
ウィンダムはその手を避けた。
「これが最後になるかもしれないのだから言わせてくれ」
「諦めないでください。この程度の怪我で人間は死にません」
ウィンダムの怪我は打撲と木の枝や尖った岩の作った擦過傷や裂傷で、出血は既に止まっている。綺麗な水で洗い消毒になる薬草の汁を塗り込んだので、感染症の心配は一先ずはないとタインは説明する。
「まあ聞いてくれたまえ」
ウィンダムは頷いたが話を続けた。
「女性は子を宿すと思うように動けなくなるだろう。出産も命懸けだ。男には支障はないように思えるが、生殖行為そのものが無防備な状態になり、外敵に対することができなくなる危険な状況を作ることなのだ。それでも生きとし生けるものに繁殖しないという選択肢はない。生殖行動を終えれば寿命を迎える生物や、雌に食されると判っていても挑まずにいられない雄がいる程に、繁殖は生物にとって死を凌駕する絶対の使命なのだ。いや、死が絶対であるからこその使命。繁殖の為にその生があると言ってもいい。だが知性と想像力を持った人類は、繁殖以外の生に価値を見出してしまった。よって、リスク回避として本能が知性によって抑えこまれ、繁殖が制限されることを防ぐ為に、恋というものが生まれたのではないかと私は思うのだ」
「……生きて帰って、何らかの学術論文を発表したいということですね。良いことです。そのまま士気を保ってください」
矢張り頭を打っている。そう判断して、タインは下手に刺激するよりもと適当に話を合わせた。
「そういう話ではない。もっと身近な話をしている」
ウィンダムは不愉快そうに眉を顰めた。そうすると気難しげな印象がより深まる。
「私は合理的で利己的な人間なのだ。この島に人間は二人きりなのだから、貴女が怪我や病気で動けなくなった時に備えて、私が健康を保つことの重要性は理解している。あの時、私では貴女を助けられないことなど承知していた。にも拘らず咄嗟に手が出て、このようなことになってしまっている。これが何を示しているのかというと、要するに私は貴女に恋をしているのだ」
タインは何度か瞬きをする。耳を素通りしようとする言葉の群をなんとか拾い、先のタインの問いに詳しく答えたのだということに漸く行き着いた。それから内容を理解して、遅れて驚いた。だが。頭を打っていなくても、これは真に受けてはいけないと思った。
「気の迷いです。きっと無事に帰ったら一気に冷めるので早まらないでください」
それこそ本能が呼び起こされた結果だろうと判じた。きっと危機的状況に置かれて、子孫を残したいという欲求が動き出したのだ。若しくは自身の異常行動に混乱し、自らの精神の脆弱さを認めたくなくて、それらしき理由をつけたくなったのだ。そう結論付ける程、ウィンダム・ラザフォードは理知的な男だった。漂着したこの場所が無人島だと判った時も、取り乱すこともなく適切に状況を呑み込んでいた。そして漂着から二十日程の時が経っているが、貴族にありがちの傲りを見せず、かといって、女性なのだからといった優しさという名の侮りもなく、野営の心得があるタインの指示に従ってきた。川を探し当て食料を確保し、安全な日陰を拠点として整備するといった全てのことに協力的で、整合性を欠く言動は全く見られなかったのだ。
「そんなことはない。貴女に見つめられるとどうにも落ち着かなくなる。火の番をする凛々しくも憂いを帯びた貴女の横顔を見ていると、そんな場合ではないというのに胸が高鳴るのだ」
「……むらむらしているだけでは」
タインは健康な成人男性の生理的事情に思い至った。
「なっ!? なんてことを言うんだ。女性がそんなことを…っ」
ウィンダムは衝撃を受け、狼狽えた。
「騎士団で揉まれればこうもなります。苦情ならそちらへどうぞ」
タインは澄まし顔である。
タイン達の属するユールガル王国に於ける女性王族の身辺警護は、長らく男性では入れない場所が弱点であった。それでもなんとか護身術に長けた侍女で補っていたのだが、ある時、男子禁制の場所で王女が害される事件が起こった。これを機に、それまでも度々議題に上がっていた女性騎士の養成が決定し、王族の身辺に侍るのだからと貴族の娘が対象となった。信頼のおける家から見目麗しい次女以下が選出され、男性騎士と同等の過酷な訓練をやり抜いた一部の者が、その任に就けるのだ。つまり、タイン・スウェイズは騎士服を着た貴族女性なのである。ウィンダムは、本来ならば男の事情など知らないはずだと思っていたのだ。
「まさか彼らは女性の前でそんな話をするのか」
「平気でしますよ。入りたての頃は驚いたり恥ずかしがったりするのを面白がっているだけでしたが、その内筋肉が付き強くなると、お前じゃ勃たないと貶しだすまでが様式美として」
「待て、やめてくれ、どこに美があるんだ。聞くに堪えない」
ウィンダムは俯いた顔を片手で覆い、片手を制止の為に上げた。無知で無垢な令嬢を想定していたのなら、百年の恋も冷めるだろうと思って話したタインは、思った通りの反応に満足した。
「なんて劣悪な環境なんだ」
ウィンダムは怒りからか厭わしさからなのか、微かに震えていた。
「そういうわけで、それは溜まっているだけでしょうから、早急に処理してきてください。向こうで」
「そういう状態にはなっていない!」
ウィンダムは怒鳴った。直後、はっとして口を噤む。
「すまない、女性に声を荒らげるなど」
ウィンダムの顔を覆う手が増えた。自己嫌悪に陥っているのがタインには手に取るように判った。ウィンダムは良識ある貴族なのだと、理解ある人間であるかのようにタインは頷く。
「いえ、怒声には慣れておりますので、お気になさらず」
ウィンダムは手から顔を浮かせ、弱ったような目を向けた。貴族女性としてそれは如何なものかと思うものの、騎士団の環境や職務を思えばそういうものなのかと納得せざるを得ない。だが納得してはいけない気もする、という煮え切らない感情を持て余してなんとも言えなかったのだ。そんなウィンダムにタインは優しく微笑む。
「ですから遠慮せず向こうで」
騎士団という男社会で揉まれれば、そういったことにも寛容に対処できるのだ。タインは一般的な貴族女性にはない包容力を見せた。
「わかった。帰ってから、日常に戻ってから改めて考えるから、頼むからその認識から離れてくれ」
ウィンダムは再び顔を覆って悲痛に呻いた。