時子と僕
2
僕は教室から溢れて流れる学生の波に乗って校舎から出た。上空はすっかり暗くなって星が二三見え始めていたが、地平には橙色の薄明が遠くの校舎を縁取るように垂れていた。月は夜空と薄明の間に挟まるように吊り上がっていた。
僕は両の手の平に息を吹きかけながら校門まで来た。校門の前は校舎に囲まれるように芝生の庭があり、そこでは、ダンス部がガラスの前で自らの動きを確認して、女子学生は芝生に座り会話に花を咲かせていた。
僕は煙るように充満する賑やかさが嫌いではなかった。目立ちたくない、面倒ごとが苦手な僕にとって、人がたくさんいる賑やかな場所は気楽にいることができた。
しかし、学校を背にして住宅街のほうへ歩いていくと、さっきまでの賑やかさが嘘のように音という音が聞こえなくなった。僕の足裏から発せられるコツコツという音だけが空気を震わせた。まるで、海上で漂流しているみたいだと思った。学校が大陸で住宅街は海である。僕は一人ぼっちで、周りにはひたすら同じ風景が広がっているのだ。
静寂は僕にとっては不快な音と同じだった。コツコツという時計の針のような一定のリズムの音からなる圧迫感から、僕はだんだんと不安で体中が湛えられてくるのを感じた。掴みどころがなく、目に見えない不安であった。何か悪いことが起こる気がしてならなかった。何の変哲もない住宅街に恐れることなどないはずなのに、吊り上げられた不安は僕の動悸を早め、鮮明だった思考の道筋に陰りを与えた。
不規則に点滅する街灯は、僕が通る時だけ余計に点滅しているような気がして、また、虫が這い上がってくるような感触がして何度も太ももを払った。立ち止ろうと思っても、僕の足は規則的に回り続け、コツコツという音を辺りに震わせ続けた。
時子の住んでいるアパートが見えると、僕は腕を思いっきり振ってエントランスに逃げ込んだ。自分が何から逃げているのかは分からなかった。
僕がエントランスに入るのと同時に、正面のエレベーターのドアがガタガタと音を鳴らして開いた。建付けが悪い網戸が開くときみたいな不快な音だった。エレベーターには誰も乗っていなかった。エレベーターの鏡に僕の姿が映った。しかし、鏡に映った自分は別の誰かのように見えて、エレベーターが僕を誘い出すために作った幻影のような気がした。
しばらくの間、僕とエレベーターは時間が止まったように、シーンと向かい合っていた。
大粒の汗が背中を割くようにして流れるのと同時に、僕の足裏は地面に接している感覚を呼び覚ました。すると、僕の思考の微かな揺らぎを読み取ったのか、エレベーターは、再びガタガタと音を鳴らしながらドアを閉め、上の階へ吊り上げられていった。エレベーターは僕のことを諦めてくれたようだった。
いつの間にか手は握りこぶしをして、汗でぐっちょりとしていた。
最近はこんな具合に何かに怯えてならなかった。形のない不安は確実に僕を蝕んでいるようである。
部屋に入ると、時子はベッドの上で布団にくるまりながらちんまりと座って、どこか存在しない場所を見つめていた。
時子はこんな風にボーっとしてしまうことがたまにある。どこを見るわけでもなく、体を丸めて深い思考の渦に飲まれて出られなくなってしまうのだ。整然と対になって並んでいる目に光はなく、口は微かに開き、中身がスカスカの抜け殻のようで、生きているようには見えなかった。
こうなっている時子を見ると僕はいつも胸が苦しくなった。彼女が僕を置いて一歩一歩歩みを進めているように見えるからだ。
「ただいま」
僕が少しだけ大きな声で言うと、時子は目の焦点を合わせて、僕の方へゆっくりと振り返った。彼女の目が瑞々しく潤んだ。照明の光が目の表面に反射して、鳥が帆翔したような模様を描いている。
「おかえりなさい」と、時子は息を吐くように言った。
「今日は寒かったしお鍋にしましょう」
時子はベッドから降りて、台所に向かった。
僕は上着を脱いで、絨毯がひいてある床に座った。
料理をしている時子の横顔を覗いた。腰を曲げて懸命に白菜を切っている。胸まである長い黒髪は小刻みに揺れる肩と照応して生きているかのように波打っていた。
時子は切り終わった白菜を水を張った鍋の中に入れ、鳥の手羽元と豆腐を冷蔵庫から取り出してそれも入れた。腰を曲げて覗き込むようにして火の出所を確認して鍋に蓋をした。
僕はこの光景に長い年月の厚みを妄想したが、僕と時子の関係の不安定さが取り繕われることはなかった。時子にとっては誰かが自分の近くにいてくれることが重要で、僕が特別というわけではないのだということを、僕は心の底では理解していたのだ。
時子は僕の隣まで来て、柔らかく座った。時子はいつも僕の隣にいて、僕が見る時子はいつも横顔だった。向かい合って彼女を見ることはほとんどなかった。
目の下に隈ができていた。目尻が普段より垂れているような気がする。
「体調が悪いの?」
「体調は悪くないわ。これくらいならまだまだよ。落ち着きすぎてて気持ち悪いくらい」
時子は僕の方を見ることなく言った。
黙っていると、鍋の水が沸騰してぐつぐつと音が鳴っていた。
時子はフフッと笑うと、台所からお鍋を持って来て、ちゃぶ台の上に置いた。ふたを開けると、鋭利な豆腐の角は丸っこくなり、白菜は艶やかにぷっくらとしていた。
「冬は鍋にポン酢だよ、菊名くん!」と、時子は語尾を可愛らしく吊り上げて言った。「体が温まりそうだし、健康にもよさそうだな」
「健康とかそんなこと考えない方がおいしく食べれるんだから、そんなこと言わんといて」
時子はそう言うとお椀一杯に具を入れて、ポン酢を雑にかけると、次々と口の中に放り込んでいった。
僕はそんな時子を見て、おかしくって絨毯の上で笑い転げた。
時子はそんな僕を見て、訝しい顔をしながらも黙々と白菜を口に運んでいった。
食後はいつもウイスキーを飲む。時子がソーダ割で、僕がストレートだった。
時子は酒が好きだが、酔いやすい。一杯飲むと、白粉を塗ったように真っ白だった顔は、頬は果物みたいな瑞々しい赤色に染まってしまう。
「今年はスキーでも滑りに行く? 確か去年、スキーしたいって言ってたよね」
「そうだったかしら」
「ああ、確かに言ってたよ」
僕の言葉を聞くと、時子は立ちあがって窓の前まで行った。窓の霜をはらって、外に目をやった。
「長野は雪が降っているかしら」と、時子は呟くように言った。立ち尽くしている足は生まれたての小鹿の様に弱弱しく、何かに怯えて震えているように見えた。
「小さい頃、一回だけ両親と長野にスキーをしに行ったのよ、確か、私が小学校二年生の頃だったかしら。これが両親が連れていってくれた初めての旅行だったのよ。だからうれしくってね、父が運転する車の中で少しはしゃいじゃったの。そんな私に父が怒ってね、車を止めて助手席にいた母の頬を殴ったのよ。『運転してやってるんだから子供くらい静かにさせとけよ』て、言ってね。結局そのまま引き返して家に帰ったわ。まあ、あの人はよく癇癪を起す人だったからしょうがないことなんだけどね」
時子は僕の隣に座ると、くしゃりと笑った。
「こんな話しちゃってごめんね」
僕は悲しくも少しうれしい気持ちになった。
「長野には行こう? 俺は殴ったりしない」
時子はスッと僕の顔を凝視した。瞬きをすると俯いて、右手で左手を揉みだした。時子の眼は長野の雪景色を見ているか、それともその奥に佇む父の姿を見ているように冷ややかだった。口元が緩んで少し笑ったかと思うと、下唇をかんで泣き出した。
僕は驚いた。
押し殺した声はバラの花弁の様に表裏がなく、彼女の実体を現実に具現化させたものであるように思えた。
「そんな真剣に考えなくていいよ。行きたくなったら一緒に行こう」
ごめんごめんと時子に謝った。
時子に僕の言葉が届いているかは分からなかった。僕はおそらく届いていないだろうと思った。なぜだか分からなかったが、僕の言葉は彼女には届いていないことが分かったのだ。
彼女の背中をさすりながらふと天井を仰ぐと、僕はまた不安な気持ちに湛えられた。胸がふっと無重力になったかと思うと、次の瞬間には、全身に痺れる様な気持ち悪さが走った。僕はこのまま時子と一緒に、この世界からいなくなるのではないかと思った。
時子のすすり泣く声は一身に僕に向けて放たれ続けていた。
背中をさすりながら、僕は携帯で長野の雪景色を長い間調べていた。