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根岸のバレンタイン

作者: なしごれん


「とうとう明日はバレンタインだなぁ」




根岸へ続く坂を上りながら、幼馴染の森本司つかさは言った。




「バレンタインって言っても、俺たちはもう学生じゃないんだ。そんなに浮かれる行事でもないだろぉ?」




司の後ろで息を荒げながら、私は太ももの張った部分を軽くもんだ。





 二月十三日午後十時三十五分。日中は晴れてぽかぽかとした陽気が町を包んでいた横浜は、夜になると別の町のように寒風が強く吹き出して、坂を上る私たちの背中を冷やした。




もうこの坂を上るのも何回目だろう。私は毎週の恒例になった根岸での散歩を、その時初めて煩わしく思った。





 根岸とは、私たちの住む町から少し離れた丘の上にある、アメリカンな公園のことだ。近くに米軍基地と高級住宅街『山手』があるため、その一帯は猥雑な横浜の風紀や、下町の雰囲気などが一掃した、厳かで格式高い場所として地元では有名だった。





「おい頑張れよ。あと少しで着くんだから」





坂をまたぐようにして作られた、赤い鉄橋の下で司は言った。




「お前がもう少し歩くスピードを遅くしてくれれば、こんな事にはならなかった」




私は司を睨むようにしてそう言ったが、彼は私の声が聞こえないのか、スピードを緩めぬまま、上へ行ってしまった。




「クソっ。なんで今日に限って足が動かねぇんだよ」




私は固くなって震えている右足を強く掴んだ。突っ張ったこの足で坂を上るのは危険だろう。私はそのまま身体を縮ませて、アスファルトに腰を下ろした。




「坂の上で待ってろよぉ。俺は少し時間をかけていくから」




私は司の背中めがけてそう叫んだが、果たして、彼に私の声が届いているのだろうか。だんだんと小さくなる彼を眺めながら、私はふとなぜこのような事になってしまったのか考えた。






『根岸にいこうぜ』




机の上で転寝をしていた私の元に、司からのメッセージが届いたのは昼の二時だった。




『お前、夜勤はいいのかよ』




『あんなとこ辞めたよ。時給が高いから応募したけど、俺にはどうも単純作業は合わねぇえな』




 司は一昨年の春に入学した大学を一か月で辞め、今は起業するべく資金稼ぎに奔放していた。高校までバレーボールしかやってこなかった彼に、会社を立ち上げることなどできるのだろうかと不安に思いながらも、私は陰ながら彼のことを応援していた。




『お前こそどうなんだよ。最近めっきり連絡がないから、まだ落選したこに納得がいってないのかって、昨日蒼汰と話してたんだよ』




蒼汰とは、俺と司と同じ中学のバレー部に所属していた。背の低いぽっちゃりとした男のことだった。高校を卒業してからは地元の備品工場で、朝の八時から夜の六時まで仕事をしていた。




『なんだぁ。昨日は蒼汰といたのか』




『あいつ、また三キロ太ったって』




『マジかよ。懲りないやつだなぁ』




『夏休みに一緒に走った分がパァだな』




司のメッセージを読みながら、私は机に置いたパソコンを静かに眺めた。




「さぁて、今日は何について書こうかなぁ」




 大学入試に失敗した私は、一年間の浪人を決意して、実家近くのアパートを借りて、勉学に励んでいたのだが、予備校で出会った同い年の美野沢花澄かすみに一目ぼれしてしまい、大学に進学する熱意がふっと覚めてしまったのだった。




 彼女は持病の手術をするべくアメリカへ行き、その間私は、地域のディープな話題を取り上げる月刊誌『ハマンド』のライターと、週四日のコンビニバイトをかけ持ちしながら、小説家になるという夢を追って、日々原稿と格闘をしていた。





『夜の十一時に芝生広場入り口に集合な』




『蒼汰はどうするんだよ。アイツこの時間は携帯見れないだろ?』




『蒼汰には俺が後で電話しとくよ』




『本当に大丈夫なのかぁ?』




『大丈夫だ。明日は土曜で会社が休みだから、きっとアイツは来てくれるだろう』





 午後十時三十分。私は司と根岸へと続く坂道を上った。蒼汰は残業があるから遅くなると、あの後連絡が来て、私たちは先に根岸で蒼汰を待っていようということになったのだ。




「それで、彼女とはその後どうなんだよ」




坂の入り口にあるバス停を通り過ぎたところで、司が口を開いた。




「かすみは彼女じゃないって、俺が一方的に好きなだけで、アイツは俺の事なんてその辺の男としか思ってないよ」




「そんなことはないんじゃないか?帰国してまず第一に、好きでもない男の胸に飛び込んでくる女はそういないぞ」




 彼女は一昨年の秋に、自分が生まれつき子宮のない『ロキタンスキー症候群』という病気を患っていることを私に打ち明けてから、度々病気について報告してくれたり、帰国した後も何度か会っていた。




「明日も根岸で会う約束をしてるんだろ?デートじゃないのか」




司は、何やら面白いことが起こりそうだと言わんばかりに、私をじろりと覗いた。




「明日は、俺が次に応募する『羽地新人賞』の原稿を彼女に見せる約束をしてるんだ。二か月前からそのことについて話していて、出来上がったらまっさきに彼女が読むことになっているんだ」




 『羽地新人賞』は河喜多書房が主催している小説家の新人コンクールのことだ。私が昨年十月に応募し、見事に落選した『三宝賞』とその二つは、新人の中では作家の登竜門として知られている、歴史の長いコンクールだった。




「どうなんだ、次の作品は」




「前作よりいい出来だと思うよ。今回は主人公をドラゴンにしてみたんだ。人間とドラゴンのハーフ……その事実を知っているのは、四月に新しく転校してきた、イギリス人の女子生徒だけ……どうだ?読みたくなっただろぉ?」




「なんかありきたりな内容じゃないかぁ?どこかでそんな本読んだ気がするよ」




司は普段は漫画しか読まないのに、私が小説家になると言い出した頃から、月に二、三冊読書をするようになっていた。




「そのありきたりさがいいんだよ。今の作品は異世界へ行ってみたり、VRの世界へ行ってみたり、新しいものを求めすぎなんだよ。去年文学賞を受賞した佐久保洋一だって、新しい小説を作るなんて大きいこと言ってるけど、結局は十九世紀のフランス文学のオマージュじゃないか」




 その後、私は司に昨今の文学趣向やコンクールの歴史などについて、あますことなく語ったのだが、彼はやれやれまた始まったよと内心感じているのがまるわかりな、さして興味のなさそうな真顔を貫き、終いには私の話が鬱陶しくなって、歩くスピードを上げていった。




「おい待てよ。そんなに早く歩かなくったていいじゃないか」




息を荒げながらなんとか彼の後ろについてきた私は言った。




「お前、彼女の前でもそんな感じなのか?」




司は未だ歩くスピードを落とさず、呆れながらそう言った。




「別に彼女の前だからって、俺は特別変わらないぞぉ」




 実際、彼女は司と違って幼少期から読書の習慣があった。家が山手にあるということもあって、中学生の頃は『港の見える丘公園』の中にある、近代文学館に足を運んでは、阿部公房や大岡昇平などの文学作品を嗜んでいたと、予備校の帰り道で聞いた記憶があった。




「あぁそうかよ。それなら愛想がつかれるのも時間の問題だな」




「どういうことだよ」




「そんな有名どころを読むような奴が、お前の書く稚拙な文章に満足すると思うか?きっと前回読んだ時だって、本当は読むに堪えない文章だって思ったんじゃないのかぁ?」




 彼の口調から、多少なりとも私をいじるつもりで言ったということは理解できたのだが、確かに、私は彼女から原稿を読みたいと言われたことは一度もなかった。いつも私が一方的に、原稿が出来上がったから読んでくれと押し付けて、彼女は断るすべを知らないから、いつも読みたくもない文章を手にとっては、私が満足するようなことを述べているだけではないのだろうか。




「そんなわけ……ないだろ……」




私は小さくそう呟いた。司のからかいを本気で受け止めるつもりはこれっぽちもなかったのだが、彼女が内心どう思っているのかは、私には重大な問題だった。




「それより、明日はバレンタインだな。どうだ、彼女から貰える気はするのか?」




私が調子を落としていることに感づいたのか、司は話題を変えて


歩くスピードも少しだけ抑えた。




「そうか、もうそんな時期なのか」




「俺は貰う予定あるぜぇ」




「誰にだよ」




「彩乃からだ」




「あぁ伊藤か」




 伊藤彩乃は俺たちと同じ中学だった女子のことだ。背は低く童顔で子犬のように元気な性格なのだが、瞳の奥に女性特有の利発的な部分が潜んでいた。雨の日に、肩まで伸びた髪を揺らしながら、いつも上履きをキュッキュと鳴らして歩く癖があって、私たちが廊下でトレーニングをしている時に、司はその足音が聞こえると、真っ先に顔を伏せて耳まで赤くするのだった。




 昨年、伊勢佐木町のクラブで偶然嬢として働いていた伊藤と再会した司は、中学時代の想いを酒の酔いに任せてぶち明けて、その後店を出禁になったらしいという噂が私の耳にも入ってきていた。




「なんだ、お前と伊藤はもうそんな仲なのかよ」




「俺だってこの一年間、何もしていなかったわけじゃないんだぜぇ。彩乃は四月に夜職を辞めて、自動車販売店の受付嬢になるんだ。クラブ時代の金は奨学金に充てたから、四月からまたコツコツお金を貯めて、来年から一緒に暮らす資金に充てようってことになってるんだ」




「あの伊藤が今度は受付嬢になるのかぁ」




「そうだ。外から盗み見るくらいなら、許してやってもいいぜ」




「なんで俺が伊藤の顔を盗み見なきゃなんねんだよ」




「あいつはとにかく可愛いからなぁ。テレビに出てくる千年に一度の誰彼なんかより、彩乃の方がよっぽど魅力的に見える」




 司はそれから伊藤について存分に語り、それに飽きたかと思えば、今度は同級生の進路の話をしだし、そしてその話がまたバレンタイの話に変わって、今の私の悲惨な現状にたどり着くというわけだった。


 


「バレンタイン……か……」




 私は突っ張った足を延ばしながら、山を崩して作られた坂特有の、崖の上にそびえる家々を眺めた。彼が先ほど言っていたように、彼女はもしかすると私の小説を読むことに乗り気ではないのかもしれない。それならば彼女に直接、本心を聞いてみればいいというだけではないか。頭ではそう思っているのに、私はなぜだかそんなことを聞ける勇気がなかった。




“千年に一度の誰彼なんかより、彩乃の方がよっぽど魅力的に見える”




 司の言葉が頭によぎった。俺にアイツみたいな芯の強さがあればなぁ……私は以前蒼汰から聞かされた、司が伊藤を手に入れるために講じた策の数々を思い出し、女性をものにするには、生粋の頑固さと根性が必要なんだという著名人の言葉を何度も呟いては、果たして、私はそんなことができる性分なのだろうかと不安になった。未だ止みそうにない冬の夜風に当たりながら、私は司が元へ戻ってくるのを持った。






 翌日、私は原稿をカバンに入れ根岸へと向かった。昨晩の彼らとの散歩は、夜中の三時まで続き、もう少し話そうと司が本牧にある居酒屋『蜂わ』に行くために車を出したのは、朝の四時の事だった。




「アイツらの体力はお化けだな」




 高速道路の下を流れる中村川に架かったコンクリートの橋を渡り、数時間前に上った坂道を歩いて、昭和の匂いが色濃く残る山元商店街を抜けると、米軍基地の青い看板が見えてきた。




 そこから先は緩やかな坂が続いていて、花屋やパン屋の店先には、出来立てのパンやブーケなどが、プレハブテントに並ばれていた。昼下がりの陽光を存分に浴びた道路沿いのツツジは、バスが通るたびに大きくなびいて、歩く私の元へ爽快な香りを運んだ。




その通りを抜けて、街路樹が多く生い茂る区画へ入ると、もう根岸はすぐそこだった。私は腕時計を眺めた。まだ待ち合わせまで十分時間はあったが、早く到着することに悪いことはないだろうと思って、ケヤキの枯葉が積もった公園入り口に足を入れた。





「水木さん」




裸になった大木の下で、彼女は静かに立っていた。




「なんだぁ、今日はやけに早いじゃないか」




「いつも待たせてもらっているので、今日は私の番ですよ」


 


目が線になるように笑って見せた彼女は、ベージュのニットの上に黒のロングコートを羽織り、手には高級雑貨屋の紙袋が握られていた。




「何時から待っていたんだ?」




「待ち合わせの二十分前からです」




彼女は私の驚いた顔を見て、また少女のように笑った。




「そんなに早く待っていたって暇だろう?」




「そんなことないです。公園の新鮮な空気を吸いながら太陽を浴びるのは、とても気持ちがいいことですし、それに何よりも、わたしは水木さんの原稿を楽しみにしていましたから。次のお話はどんな内容なのかとずっと考えながら時間をつぶしていたんです。わたし早く新作が読みたくて、昨日からあまり眠れていないんですよぉ」




ケヤキの枝先に止まったヒヨドリの親子が、信号機の音響で飛び出していった。





 根岸森林公園から道路沿いを少し歩いて、不動坂の入り口までたどり着くと、カフェレストラン『デルフィーノ』の看板が見える。




 イタリアンのその店は、数十年前に大物芸能人がテレビで紹介したことから火がついて、現在でも県外からわざわざ店へ赴く者も少なくはなかった。




 私は浪人時代、一度彼女と来てみようと思って、誘うタイミングを見計らっていたのだが、彼女が手術でアメリカへ行ってしまい、ようやく店の予約が取れたのは、原稿が完成する三日前のことであった。




「このお店、早く中に入ってみたかったんです」




 二階へ続く階段をのぼりながら、彼女は嬉しそうに私を見つめた。


彼女の家は山手の真ん中に位置しているため、行こうと思えばいつでも行ける距離なのだが、彼女は、以前私が行きたいと言っていたのを覚えていたらしく、それまで店に入らず待っていてくれていたのだった。




「大学は順調なのか?」




白のレースが掛かったテーブル席に腰かけて、私はメニュー表を開いた。




「はい。今は入学試験期間なので、それほど厳しくはないですが、とにかく課題の量がとても多いんです」




昨年大学に合格した彼女は、都内の郊外に位置する六年制医学部に在籍していた。前期はアメリカで手術を行っていたため、秋からの彼女の大学生活はまさに多事多端という言葉そのものだった。




「朝から晩までみっちり講義が入っていて、それが終わったら復習と課題をやらなければならないんです。あっちのレポートが終わったかと思えば、今度は別のレポートの期限が迫ってきて……時間がいくらあっても足りないですよぉ」




 彼女はそう言って、目下のくぼみを軽く触った。肌が白く、化粧をしているので、その黒さはさほど目立っていなかったが、肌のちょっとした張りや、彼女の舌足らずな話し方は、医学生の過酷さを物語っていた。




「そんなに忙しいなら、何も今日会わなくたって良かったんじゃないのか?」




中央に置かれたグランドピアノを眺めながら私がそう言うと、




「どんなに忙しい医学生にだって息抜きは必要ですよ。それに、書き終わったら真っ先にわたしに見せるって、最初からそう約束してくれていたじゃないですか」




と彼女は言った。




 二階の窓から差し込ん午後の陽光が彼女の目元を美しく光らせた。店内はガラス窓で囲まれているので、太陽に照らされた根岸湾の海が、真ん中の席に座る私たちからも一望できた。




「今回はファンタジー寄りの学園ものにしてみたんだ。前作は現実的過ぎて、読者の共感を得られなかったから、今度は十代の学生でもわかりやすいように、文体を変えてみたんだ」




「どんな人が出てくるんですか?」




「まず主人公は、人間とドラゴンのハーフなんだ。東北地方の山奥に代々存在する『サエワタノヒゲモノ』と主人公の祖父が出会うところから物語が始まるんだ」




 私は茶封筒から紐でくくった原稿用紙を取り出して、彼女の前に置いたが、その時ちょうど彼女の注文した生ハムのサラダとアサリのスパゲッティが運ばれてきて、彼女はそれを受け取ると静かにカバンの中に入れた。




「今回も面白そうな内容ですね」




「あぁ。何てったって自信だけはあるからなぁ」




 そう言った私は、未だテーブルに運ばれないオムライスのことを考えながら、「お先に失礼します」と言って、上品にサラダを頬張る彼女の口元を薄ら眺めていた。







「少し歩いただけで汗ばんできたなぁ」




『デルフィーノ』で昼食ランチを済ませた私たちは、根岸森林公園の芝生広場を歩いた。




「食後一時間以内の運動は、血糖値を下げるのに効果的なんですよ」




梅が咲き誇る花木園の前を通り過ぎたところで彼女は言った。




「糖尿病って……まだそんな年でもないだろぉ」




私が笑いながらそう言いうと、




「若いうちから意識することが大切なんです」




と彼女は言った。




「今は若くて多少不摂生でも元気でいられますが、年を取るごとに負債が積み重なって、病気に気づいた時にはもう手遅れになってしまいますよぉ。日頃からデスクワークをしている私のお父さんなんて、この前医師の方に高血圧が改善されていないって、怒られたばっかりなんですから」




 彼女の父親はみなとみらいに本社を構える断熱材メーカーの社長で、平日はめったに家へ帰らないのだと、昔彼女が言っていたことを私は思い出した。




「そんなこと言ったってなぁ……作家は書くのが仕事なんだから、運動不足になるのは職業上仕方のないことだろぉ?」




「私と一緒になったらそうはさせませんよ」




彼女はまたいたずらっぽく笑った。





 土曜の公園は以外にも子連れが少なく、若いカップルやお年寄りが多かった。根岸森林公園はドーナツ広場と芝生広場の二つに分かれており、バスケットコートなどの遊具のあるドーナツ広場は小学生や親子連れが多く、そこから少し離れた場所にある芝生広場は、元が競馬場だったこともあり、広大な芝生の周りには桜や梅などの木々が何千本と植えられていた。現在私と彼女が並んで歩いている石畳の遊歩道からは、芝生の真ん中にテントを張って、日光浴をしている外国人や、犬と散歩している家族の姿がよく見えた。





「ここにしましょう」




 彼女はそう言って、木陰にあるベンチに腰かけて茶封筒を取り出した。


芝生から逸れた、木々が密集していて少し暗くなっているその場所は、カルガモの親子が泳いでいるスイレン池があって、木製の欄干が池を囲むようにして付けられていた。




「鯉、それにカメもいる」




彼女が池を指さして言った。スイレン池の周りにはベンチが一台しかなく、遊歩道から一段低い場所にあるため、休日でもあまり人はいなかった。




「本当にここで読むのか?」




「はい。空気もいいですし、人も少なくて静かです」




彼女はそう言ってから、大きく息を吸い込むと、そのまま手元の原稿に目線を注がせて読み始めた。




私は彼女の隣に座り、しばらく原稿を読む彼女を眺めていたのだが、あまりにも彼女がその場から動こうとせずに、原稿を読み入っているので、何だかその場にいるのが恥ずかしくなって、私はベンチから離れて池の周りを歩くことにした。




まとまって甲羅干しをしているカメを眺めながら、私は昨日の司の言葉を思い出した。




“本当は読むに堪えない文章だって思ったんじゃないのかぁ?”




 私は未だ、彼女の本音がわからないでいた。前作を彼女に見せた時も、読み終わった後彼女は「おもしろかった。よくここまで書けた」と褒めるばかりで、話の内容や文体について深く掘り下げて語ろうとはしなかった。小説を書き始めてまだ二年もたっていない私にとってその言葉は、それが本音ではないことを示す十分な材料でもあった。しかし、何もそう焦ることではないだろう。彼女は私の原稿を読み合えたら、きっと何もかも隠さず話してくれるだろう。そう頭では思っているものの、もし彼女がつまらないと言ってきたらどうしよう。そうなってしまえば、私は明日からの原稿がすべて白紙になってしまうくらい、落ち込んでしまうのではないかとも思って、やはりこのことは聞かないでおこうと、私はまた目線を池に戻した。




 四十分ほどたっても、彼女はその場所から動こうとはしなかった。途中話しかけて、どこまで読み進めたのか聞こうとも思ったが、彼女は読み始めたら一気に突き進むタイプかもしれないと思って、私は欄干に凭れながら、未だ原稿を読み続けている彼女を眺めた。




 ベンチ上の樹木からの木漏れ日が、彼女の細く透明な黒髪を照らしていた。その光を、彼女はさほど気にしていないだろうと思って、私はそのまま様子を窺っていると、彼女がページをめくるたびに、異なった表情をしていることに気が付いた。


裸木の下にたたずむ彼女は、丁寧に両足をそろえ、姿勢よくベンチに腰かけて、その場所から一度も動こうとはしなかったが、原稿を見る彼女の表情からは、若干の変化が見えていた。ある時は目を大きくして口元を少しだけ開けていたり、それが次のページになると、何やら難しそうに口をつぐんで、瞬きもせずにいる時もあった。


私はその彼女の表情とたたずまいが、何かおとぎ話に出てくる、無邪気な少女のように見えた。その姿は、生まれつき子宮の障害を持ち、その手術のためひとりアメリカへ行ってきた、十九の淑女とは到底思えない、根岸に現れた冬の妖精のようにも見えた。彼女の凛とした表情とつぶらな瞳は、私にそれまで以上のときめきを与えて、目を離せなくさせていたのだった。






気が付くと、辺りは暗くなり、欄干横の街灯が光っていた。




私が驚いて身体を起こすと、心配そうに私を眺める彼女の顔があった。




「そんなに気持ちよさそうに寝ていたら、今日の夜眠れなくなっちゃいますよぉ」




彼女は驚いている私の顔を覗くようにして言った。




「ごめん俺……」




そこまで口にした俺は、胸の上に彼女のロングコートが掛けられていることに気が付いた。




「昼間は暖かかったですけど、夜の公園はまた一段と冷たい風が吹きますねぇ」




胸上にかぶせられたコートは、ほのかに甘い香りがして、二月の風にさらされた私の体の一部分を燃えるように熱くさせた。




「これ、ありがとう」




早口でそう言った私は、慌てて彼女にそれを返した。まさか、彼女が原稿を読んでいる間に眠ってしまうとは……私は恥ずかしくて、彼女の顔をまともに見ることができなかった。




「途中まで読んだんですけど、気が付いたら辺りが暗くなっていて……冬は日が暮れるのが速いですねぇ」




彼女は原稿の四分の三ほど読み終えていて、茶封筒を私に返してきた。




「それ、あげるよ。コピーはもう取ってあるし」




「いいんですか?」




「あぁ。推敲はパソコンで済ませるし、今日中に最後まで読みたいだろ?」




きっと彼女のことだから、私が言わなくても持ち帰りたいと言い出すだろうと思った。




「いらないなら持ち帰るけど」




「いえ、貰います」




彼女はそう言って、大事そうに茶封筒をカバンにしまうと、ベンチの下に置いてあった紙袋を持ち上げた。




「俺にくれるのか?」




「はい。今日はバレンタインですからね」




彼女は微笑みながらそれを渡してきた。私は先ほどのこともあり、恥ずかしくて伏し目がちに




「ありがとう」




と言って、ピンク色の紙袋を手に握った。




 その後のことはあまりよく覚えていないのだが、私は彼女の話す事柄に「うん」とか「そうだね」などと軽い返事をして、いつもの坂道で別れた。坂道を下りながら、だんだんと羞恥や後悔が込み上げてきて、私は紙袋を強く握った。なぜ私は帰り際に、次に会う約束をしなかったのだろう。それ以前にも、私は自分の原稿を真面目に読んでいる彼女の前で、昼寝をかましてしまった。私は彼女に対して最低な振る舞いをしてしまったのではないだろうか。そして帰り際になってそれに気が付いて焦りだし、私の小説についての本音も、聞きそびれてしまったではないか。結局私は彼女とのこの時間、自分のことしか頭になかったじゃないか。私は自分の行動を振り返る度に怒りが湧いてきて、坂道を走った。彼女のコートの匂いは、いまだ私の身体に染みついて、冷えと汗が混じった私の身体を包んだ。






「名前が違うってぇ?」




パソコンで推敲作業をしていた私の携帯に、司の声が流れた。




「そうなんだよ。貰った紙袋には確かにチョコが入っていたんだけど、包み紙を止めるところに『和樹へ』って書いてあるんだ」





 私は机横の紙袋を手で探り寄せて、名前の書かれた袋の写真を司に送った。




「こりゃお前……別の男だな」




「やっぱりそうだよなぁ」




 私は両手で頭を抱えた。考えてみれば、彼女は都内の医学部に通っているのだ。あの容姿と中身であれば、先輩や同級生の男たちに声を掛けられるのは当然ではないか。そう思って、私は深いため息を吐いた。




「おい、そんなに落ち込むなって、俺が彩乃に言って、お前の分も作っといてやろうか?」




「悪いなぁ。今はお前の戯言に反論する気にもなんねぇよ」




 そう言って私は、今日起こしてしまった失態の数々を司に語った。


最初はふざけて聞いていた司も、私の口調があまりにも冴えていないので、途中から励ましの言葉をかけていた。





「なぁつかさ」




「なんだ?」




「男ってのはどうして好きな女子の前では、こうも自分を出し切れないんだろうなぁ」




「そりゃあ、嫌われたくなって想いが強いからだろう。女は一度異性を嫌いになったら、二度と振り向いてくれないからなぁ」




一度好きな人をものにした司の言葉には、やけに説得力があった。




「それじゃあ俺は、かすみに嫌われたのかなぁ」




「そんなのわからんよ。ただ、今日のお前の行動を聞くに、嫌われたとしてもおかしくはないな」




 その司の言葉を聞いて、私はもう一度大きくため息をついた。そうか、俺は彼女に嫌われてしまったのだ。けど、考えてみればそうだよなぁ。頭良くて家柄もいい医学部の学生と、いつまでもくすぶっているフリーターの俺とでは、もはや同じ土俵にすら上がっていないだろう。そうなると、彼女が私にくれた名前の違うこのチョコは、一種の戦力外通告とでも言えるのではないだろうか。




「失恋は飲んで忘れるのが一番だぞぉ」




司の声が聞こえたその時、




彼女からメッセージが届いた。





『原稿、読み終わりましたよ』


『感想を言いたいので、今から坂の上に来れますか?』





 私はメッセージを読んだ途端、身体が玄関に向かっていた。




「おい、どうしたんだよ。急に黙って」




「悪いなつかさ。どうやら俺の勘違いだったみたいだ」




靴のかかとを踏んづけながら外に出た私は、階段を下りるなりそう言った。




「何が起きてるかわからんが、調子を戻したようで良かったよ」




と言った。




「あぁ、お前のおかげで助かったよ。ありがとな」




私は近いうちにまた電話すると括って、坂に続く大通りを全速力で駆け抜けた。






 根岸へ続く坂道の上で、彼女は私を待っていた。


私は息を切らしながら坂を上りきると、彼女の目の前で、膝に手をついて深呼吸をした。




「大丈夫ですか?」




心配そうに私を眺める彼女は、昼よりもラフな格好をしていた。




「あぁ。大丈夫だぁ」




私は息を吸ったり吐いたりしながら、何とか呼吸を落ち着かせた。




「原稿、全て読みましたよ」




彼女は袋から茶封筒を取り出して、私の前に差し出した。




「どうだった?」




「はい。今回もとても面白かったです」




彼女はいつものにこやかな笑みを向けそう言った。




「……つまらなかっただろ」




「はい?」




「俺の小説、つまらなかっただろ?」




私は声を荒げて言った。下を向いていても、彼女の驚いている表情は容易に想像ができた。




「自分でもわかってるんだ。あぁまた今回もダメだってね。俺は年齢も経験も浅いから、創り出す世界観がいつも狭いんだ。キャラクターや設定もありきたりで……でもそんなこと、書いている本人が一番わかっているんだよ。だから面白かったなんて、そんな嘘つかないでくれよ。この小説は誰がどう読んだって駄作だ」




 暗くなった坂の上は街灯が少なく、日中に店を開けていた商店の数々はシャッタが―降りていて、周りには静かな住居と、道路を走り去っていく自動車の排気音しか聞こえなかった。




「水木さん」




「なんだ?」




「わたしの将来の夢って覚えていますか?」




しばらく間を開けて、彼女が私に言った。




「医者になって、自分と同じ病気の人々を助ける。だろ?」




 私は未だうつむいて、静かに言った。




「そうです。わたしは医者になりたいんです。自分と同じ『ロキタンスキー症候群』を患っていて、生まれつき子宮のない人々が、少しでも安心して暮らせるような……そんな世界にしていきたいんです」




 彼女は力強くそう言った。その口調は、自らアメリカへ行き手術を受けてきたからこその、自信と希望に満ち溢れた物だった。




「わたしはまだ医学部の一回生、医者のたまごです。そして水木さんも、作家のたまごです」




彼女は指で円を作って私の前にそれを持って行った。




「たまごは一年二年とかけて生まれ、やがて成長して大人になります。生まれる前の段階の卵は、何度も風に揺られ、転がって、ぶつかって……それでも決して割れることはないんです。なぜだと思いますか?」




彼女は私に近づいてそう言った。その問いに、私は




「たまごを割るのは自分だから……違うか?」




と返した。




「あたりです。ヒナの最初の試練は、自力で自分の殻を割ることなんです。それを超えたものたちだけが、成長して大きくなることができるんです」


「ヒナは自力で殻が割れるようになるまで、卵の中で自分の身体を強化します。それは殻が割れて生まれた後も、厳しい自然界で生き抜くためにはとても重要な事なんです」




彼女はそこまで口にすると、再び私に近づいて、じっと目を向けてきた。




「水木さん。私たちはたまごです。まだ生まれる前のたまごです。生まれる前のたまごは無力です。それは水木さんだけではなく、私だってそうです。まだ実習もしていない医学部の一回生が、人を救うなんて出来ないですもの」




「けれど卵は、努力すれば必ず割れるようになります。それは努力だけではなく、時間もそれと同じように必要になってくるんです。だから焦ってはいけません。少しずつ、ゆっくりと、自分の殻を割っていけばいいじゃないですか」




 彼女は何もかもを包み込んでしまうような笑顔を私に向けて言った。そこには昼間の幼い姿からは考えられない、清らかで勇敢な瞳が、私を覗いていたのだった。





「俺の小説、どこが悪いと思った?」




私は先ほどより穏やかな口調で言った。




「まず、登場するキャラクターが少なすぎます。ストーリーが単調だと、読者が飽きてしまいますよ」




「他には?」




「そうですね……結末があれだけ作られていますから、もう少し伏線を張ってもいいんじゃないでしょうか?」




私は差し出された茶封筒を眺めた。わたしも水木さんもたまごか……私はその時、創作意欲を掻き立てる、新しい言葉に出会った感動が、ぐっと胸に押し寄せてくる不思議な感覚になった。




 そうか、私は焦っていたのか。去年からのブランクも、やはり心の焦りから生じた、必然的なものだったのか。私はすべてのわだかまりが消えていくような気がした。


少しずつ、ゆっくりと―   作家になるという夢。そして彼女との関係も、何も焦らなくたっていいではないか。私は心の奥底がすっきりとした気持ちになって、彼女に




「ありがとう」




と言った。







「あぁ。すっかり忘れてました」




夜も遅いからと、私が家まで送っている道中で彼女が言った。




「まだ今日はバレンタインですよね」




「そうだな。あと二時間で終わるけど」




腕時計を眺めながら、私は言った。




「これ、水木さんへのチョコレートです」




そう言って彼女は、カバンから昼間より大きい紙袋を取り出した。




「これ。本当に俺になのか?」




「はい。そうですけど」




 彼女は何がおかしいのかと言わんばかりに、私を見つめてきた。


私は昼間貰ったチョコの札に、「和樹」と書かれていたことを彼女に話すと、




「あぁ。じゃあわたし間違えていたんですね」




と微笑みながら言った。




「それで、和樹って誰だよ」




「和樹は私の甥っ子です。来年から小学校にあがるんですよ」




「なんだよ。びっくりさせやがって」




 笑いながらそう話す私に、彼女はチョコを食べてみてほしいと言ってきた。




「本当はケーキを作ろうと思ったんですけど、時間が足りなくて……でもこのチョコレート、カカオから作ったんですよ」




昼間渡したものよりも、三倍ほど大きいそのチョコは、わたしひとりで食べられる大きさではなかった。




「味見してないんだろ?だったらかすみも食べればいいよ」




「でもこのチョコ、どうやって食べましょうか」




ハート形のそのチョコは手のひらよりも大きく、素手で割れるようなものではなかった。




「じゃあこうしよう」




私はハートの片方の先端を咥えて、彼女の口に向けた。




「いいですね」




彼女は反対型の先端を咥え、落ちないように手を添えた。目線でタイミングを合わせて、私たちは一緒にチョコレートを口に入れた。






ガリっ






「あ、ちょっと苦いな」




「砂糖の分量、間違えたみたいですね」




「かすみは医者のたまごでもあり、パティシエールのたまごでもあるわけだな」





私たちは顔を見合わせて笑った。




横浜の乾いた夜空に、私と彼女の笑い声が、根岸までの一帯に大きく響いていた。





おわり

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