02. 熊さんに~、出会った~
やや遠回りしながらも、音をたてないように慎重に現場へと近づく。
遠回りした甲斐も有り、狙い通り風下に身を隠すことができた。
茂みからその先をこっそり窺う。
そこには巨熊と戦うヒトがいた。
(うわぁ…………)
単身生身で大型の獣と。
婉曲に言って自殺行為。率直に言うならだだの阿呆だ。阿呆の前にドを付けた方がより正確かもしれない。
だがしかし、なぜかデジャブ。
「――――」
あーるぇー? まさか記憶を失う前の自分はもしかしてドの付く阿呆だったりしたんだろうか。
(いやいや、まさかまさか)
もしかしてこのまま記憶を失っていた方が俺、幸せなんじゃね?
脳の半分を使い真剣に今後の身の振り方を悩みながら、もう半分で目の前の戦闘の推移を観察する。
熊が突進をかける度にヒトが避け、すれ違いざまに剣を突き立てる。
だがその刃でダメージが通っているようには見えない。
腕と剣が鈍らなのか、それとも毛皮や肉が硬いのか。
ヒトの動きを見る限り恐らくは後者。
熊の動きはその巨躯に似合わず素早くそして鋭い。
それを堅実に躱し続けているヒトの技量は決して低くない。
黒い小山が突進を繰り返す度に、金糸が揺れる。
暴力の支配するこの空間にはあまりにも場違いで。そのヒトが女性だと後から気付いた。
「…………」
手助けは必要だろうかと、冷静に思案する。
べべべ、別に女性だから手助けを考えた訳じゃ無いんだからね!!
(…………)
何か薄ら寒いものを感じた。どうしてこうシリアスになり切れないと言うか寒いと分かり切っているのに小ネタを挟みたがるのか。
阿呆なのではなく莫迦なんじゃなかろうか。知りたくも無い。
息を殺したまま溜息を吐いて、逸れた思考を戻す。
目の前の女性は決定打が無いだけで、戦えてはいる。
そこに実力も素性も分からない住所不定、無職(推定)の男が出て行っても足を引っ張るだけだ。
戦闘下での意思の疎通は困難を極め、連携などは言うに及ばず。颯爽と登場してピンチを救えるのは正しく正義の味方くらいだろう。一朝一夕でそれができたら苦労はしない。
だが
(マズイな)
繰り返される突進に女性が慣れてきてしまっている。
鋭い突進に少しでも引っ掛かれば質量差故に大打撃を食らう緊張感。
その一方で単調で直線的な動きは見切りやすく、次の動作を先読みしやすい。加えて有効打にならない反撃。
その結果、場が停滞してしまっている。
油断している訳では無い。打開策を見つけようと立ち回っている。だがそれを見つけ出すまでの時間が意図せずに長過ぎる。
そんな状況を記憶は無いが蓄積された知識が、次に場がどう動くかを教えてくれる。
毛皮と肉だけで刃を通さないような常識外れの獣が、何も考えずただ闇雲に突進を繰り返すだろうか?
答えは目の前で展開される。
突進に見せかけて今までより短い一歩を跳ぶ。半呼吸にも満たないテンポのズレ。
女性は既に回避行動に入っており、表情が驚きに歪む。
一瞬だけ早く着地した熊は女性が回避した方向に飛びかかる。
体勢を崩しながらも強引にサイドステップを踏み、運動のベクトルを女性が変える。
咄嗟の動きが幸いして直撃は回避できた。だが細い体に太い腕が伸ばされ、かすり、吹っ飛ばされる。
「ァ…………」
声にならにならない声。その衝撃に肺から空気が漏れる。
獣は直撃しなかったことを不満に思いつつ、これから獲物に止め刺せることを無邪気に喜んだ。
だから気付けなかった。
眼前を横切る影。そして絶叫。
グともガとも聞こえる痛みの叫び。
熊の左目からはナイフの柄が生えていた。
突然の痛みに錯乱する熊。更に右目に向かって土を投げつける。
今度は痛みこそ与えられなかったが、視界を封じるには十分だった。
一瞬、撤退の二文字が頭をよぎる。だが最初の計画通り女性の持っていた剣を拾い、構える。
左目は完全に潰したが、右目は一時的なもの。今は混乱していているが、冷静になれば嗅覚を使い追跡されるのは必定。
手負いの獣は生存競争の中で淘汰されやすい。だが何らかの理由で生き残ったら。
その方が危険度は激増する。もしここで逃げればその危険に晒されるのは高確率で見知らぬ他人だ。
だから殺す。
混乱の極みで暴れる熊を視界に収める。
個人的な恨みは無い。狩猟のためでも無い。
それでも命を奪うと決めてこうして対峙しているのに、胸の奥がざわつく。
迷いは無い。迷えば迷う分だけ自分の死が近くなる。
だが割り切れない。
即断で殺すことを決められるのだから、お優しい性格では間違ってもない。
生きている限り他者の命を多かれ少なかれ奪っているのだから、今更だ。
ただ無益な殺生を楽しむような性格ではない事を祈るくらいは許されるだろう。
ああ、無理に割り切る必要はないのだと思い直す。
望んで血に塗れたいと望む奴の方が稀で、そんな奴はイカレてる。
誰だって汚れているよりは綺麗な方がいい。例えそれが文字通り綺麗事だとしても。
だから殺すと決めた割に、手が汚れるのが嫌だと甘えたことをぬかす自分はどこまで行っても人間だ。
でもそんな人間でも失われる命に対し何かを思うことは許されるだろう。
奪われる側にはなんの慰めにもならないなと唇を歪める。
痛みか暴れた疲れからか、熊は大人しくなっている。だがその内に溜めこんだ感情は先程までの比では無い。
濁りの無い憎悪、痛みを与えた者に対する恨み、明確な殺意。
改めて自分の意思をアジャストする。
そすることで不思議とどう剣を構えるのが最適なのか意識せずに体は動き、雑念は排除される。
暴力の権化か叫びながら突っ込んでくる。
空気が震え、耳を痛めるが、冷静に。
体の奥から何かが溢れ、身を包み、剣に透る。
刃が銀線を描く。
慣性の法則に従って黒い小山が横を通り過ぎていった。
「――――」
再び動く様子の無い、その結末。
命を奪ったという穢れよりもまず先に、今起こった不可思議な感覚に納得がいかず呆然とする。
動きを止めたままの小山と自分の手の平を交互に見遣る。
「何が――――」
どうして?
どうなった?
「痛っ!?」
不可思議な現象を追及しようとした瞬間、脳に激痛が奔る。
痛みに耐えることも出来ず蹲る。そのまますぐに意識を失ってしまう。
頭の奥でファンファーレが鳴り響いたのには気付かなかった。