第1話 無題.txt
2020/11/23 Mon 05:09:33
世の中は休日だ。勤労感謝の日だそうだ。俺は出勤だ。感謝しろってか。
休日ダイヤのせいでいつもより早く家を出た。
先週土曜、夕方に早退したから仕事が残っている。ちょうどいい。
新宿の職場への通勤電車に揺られながら、スマホにメモを残すことにした。
少し思うところがあったからだ。
日記というわけではない。書ける時に書く。そんなゆるい気持ちでいこう。
2020/11/24 Tue 05:49:27
車窓の向こうは暗い。真っ暗だ。すっかり夜明けが遅くなった。真夜中みたいだ。
景色なんて見えるわけがない。まっ黒な車窓はぼやけた鏡のようだ。つり革に引き回され電車に揺られる俺がぼんやり映っている。
このメモは日記ではない。毎日書く義務もない。仕事に追われ続けているのにこれ以上追われる物を増やしてたまるか。
でも、タイトルくらいは付けるべきだろう。無題のままというわけにもいかない。
2020/11/25 Wed 0:42:12
今日も疲れた。つり革にゆられている。座ると寝てしまうから。いっそ終着駅ならよかったのに。
車窓は真っ黒だ。当たり前だ、真夜中だから。
10年近くこの電車で通勤しているがどんな所を走っているか知らない。朝は真っ暗。夜も真っ暗。
このメモのタイトル、何にするかな。
2020/11/25 Wed 05:36:22
もう書くことがなくなった。世の32歳は何をしているんだろう。
2020/11/26 Thu 00:42:58
疲れた。なんかあったかな。
2020/11/26 Thu 05:35:58
眠い。
2020/11/27 Fri 00:40:12
日付が変わる前に帰りたい。
2020/11/27 Fri 05:59:33
不思議な事があったので書き留める。
いつものようにほとんど人が乗っていない通勤電車に揺られていると、一人のおばあさんの姿に気が付いた。
本当になんの気なしだった。寝不足でぼやけた頭をふと起こすと、誰も座っていない長シートの先のドア横に立っていた。
ここからは背中しか見えない。
きれいな白髪。少し丸めた背。俺の身長の半分くらい、小さく軽そうな姿。
驚いた。
なんだかお袋の雰囲気に似ている。
記憶にあるお袋の姿を思い返す。あんなに小さかったか? だいぶと会っていないから記憶もあいまいだ。
そろそろ乗り換え駅だ。降りなければ。
おばあさんはまだ降りないようだ。
2020/11/28 Sat 05:10:27
今日は会議だ。土曜日だからじっくり時間を取れるということで会議だ。居眠りしないようにせねば。乗り換えまで寝よう。仕事を始めてからつり革にぶらさがったまま寝られるようになった。
昨日見かけたお袋の雰囲気に似たおばあさんの姿はなかった。寝ぼけていたのか。
2020/11/30 Mon 05:42:12
相変わらず窓の外は暗い。あのおばあさんは乗っていなかった。
先週土曜はお袋の初七日だった。
実家の法事には戻らなかった。
先々週、21日の土曜にお袋が亡くなった。66歳だった。
前日までは元気だったのに突然倒れたらしい。
実家から俺のスマホに何度か電話がかかってきたが会議中だからと放っておいた。
いつもの「元気にしとるんね?」という電話だと思っていた。
「たまには実家に顔を出しぃね、結婚は考えとらんね」と、毎度のお節介がウザくて生返事をしてすぐ切るのがお決まりだった。正直出る気もなかった。
その時に出てすぐに実家に急げば、お袋の意識のある間に会えた。
仕事に追われて再び思い出したのが夕方だった。8回電話がかかっていた。
電車とタクシーを乗り継いで3時間。急いで実家に向かったが、お袋の意識はもうなかった。そのまま息を引き取った。
家族だけの通夜。親父はうつむいたまま微動だにしなかった。3歳違いの妹は、なんですぐに来なかったのかギャンギャンと責め立てた。わかってるよ、お前の言い分はもっともだ。
お袋に最期の一言を伝えられなかった。悪いことをした。
十分すぎるほど悔やんでいるからもう少し静かにしてくれ。頼む。
何も変わっていなかった。
お袋が死んでも変わらない。
東京の大学に行きそのまま就職した。実家がうっとうしくて正月くらいしか戻らなかった。
妹とは顔を合わせるとすぐケンカになる。それにイライラした親父とも言い争いになる。
そんな時はいつも俺は黙り込んでいた。何かを言うと傷口が広がる。俺が我慢さえすれば大丈夫。家族仲良くするにはイライラさせる火種を作らなければいい。
俺は徐々に実家に戻らなくなった。
お袋だけはメールや電話をかけてきてくれた。
今年の正月は帰ってこらんのか?
ああ、コロナをそっちに持ち込めんだろ。
俺はコロナをダシにした。
ほうか、何年顔を合わせとらんかね。
ごめん、休み時間終わるから。
これがお袋との最期の会話になった。
2020/12/1 Tue 05:57:03
今日も居なかった。でも、お袋に似ている人がこの沿線に居るというだけで、なんだか嬉しい。また会えるかな。
2020/12/2 Wed 05:58:12
居なかった。偶然乗り合わせただけだろうか。全然似ていない人だったのかもしれない。寝不足だし目の錯覚だったのか。
2020/12/3 Thu 05:58:55
居ない。じろじろ見たのを気づかれたのか。不審に思われたか。別の車両に乗っているのか。明日は別の車両に乗ってみるか。いや、この車両に乗ってきたらどうする。
2020/12/4 Fri 05:59:21
いた。
よかった。
いた。
もう会えないかと思った。
ちょうど一週間ぶりだ。毎週金曜日に用事がある人なんだろうか。
背中越しだが本当にお袋によく似ている。
でも様子がおかしい。先週、あんな感じだったか?
そうか白髪じゃないのか。染めたのかも。
俺が学生の頃のお袋みたいだ。ぼんやりとした記憶。お袋の事、ちゃんと覚えていない。ごめんな。
あの人はどこまで行くんだろう。どこで降りるんだろう。もうすぐ駅だ。乗り換えなければ。
2020/12/10 Thu 05:32:10
今日もいない。でも明日は金曜だ。
そういえば俺が勝手に金曜に会えると思っているだけだ。会えるかな。
顔が見てみたい。お袋なら左の目じりにほくろがある。さりげなく近寄ってみるか。
馬鹿か。何考えている。
そもそもお袋に似ているだけだ。見ず知らずの女性だろう。完全に不審者だ。
2020/12/11 Fri 05:45:46
いた。
よかった。
お袋だ。
お袋だよな?
ひょっとして若返っている?
そんなわけあるか。あのおばあさんの娘さんだろうか。
お袋っぽいが若い。40半ばくらいに見える。遠い記憶の中、俺がガキの頃に見たお袋の背中だ。卒業式で見た背中だ。でもしっかり思い出せない。
写真は何枚か撮っているはずだけど、家を出た時に一枚も持って出なかった。
俺は家族の写真を一枚も持っていないのか。
2020/12/18 Fri 05:58:10
金曜日だ。あの人はいつの間にか乗っている。
先週からおばあさんの代わりに娘さんが乗ってきているようだ。おばあさんを若くしたらあんな感じだろう。
もっとよく見たい。長シートに座るか?
でも今まで座っていなかったのに突然座るのもおかしく思われないだろうか。しかも近くに。
よし、作戦だ。
さりげなくスマホを両手で握ってつり革から手を放す。電車に揺られるタイミングに合わせて、よろけたふりをする。立っていると危ないと思った俺は座ることにする。
これなら自然だ。遠くもなく近すぎもしない辺りに座らねば。
うまくいった。気づかれていない。よし、次からこの場所に座っていても不自然じゃないな。
少し先にあの女性の横顔が見える。
30半ばか? 俺と同い年くらいか? 先週は少し年上に見えたけど。
それにしてもキレイな人だ。
目鼻立ちがハッキリして凛とした表情をしている。ほのかに笑みを浮かべているようにさえ見える。スッと前を見て活き活きとした魅力にあふれている。
以前、親父からお袋はかなりの美人だったと言われたことがある。しょせんド田舎の話だろうと思って話半分に聞いていた。
お袋も若い時はこんな感じだったんだろうか。お袋の若い頃の写真があれば見ておきたかった。
俺の記憶にあるお袋の表情は
……表情は思い出せない。
俺はお袋の事を覚えていないのか。記憶にあるのは左の目じりにほくろがあった事くらいだ。そのせいか笑っても怒っても少し泣いているように見えた。あの女性も
え
ほくろ!
ほくろがある!
なんで?
2020/12/25 Fri 05:30:10 【最終更新】
一週間が経った。
あの女性は、俺が乗る時にはいない。だけど気が付くとドアのそばに立っている。途中の駅で乗ってくるはずなんだがその瞬間をどうしても思い出せない。
目じりにほくろがある。ということはお袋か? いや、お袋は死んでいる。
でもあんなに似ているんだぞ?
幽霊?
そんなわけあるか。
大体、一週間ごとに若くなる幽霊なんて聞いたことがない。
でも今日会うかもしれない姿が先週より若かったら? 俺より年下に見えたら?
いつの間にかドアの所に気配がしている。
[EOF]