第二章 夜会 3
サリティがレントを軽く肘でつついて言った。
「見ろよ。ナッシュの奴が来てるぜ。」
レントが見ると、なるほどナッシュが怯えた表情でうつむいて居た。
自分のした事も広まってるだろうし、レントのこの村での噂も聞いて知っているのだろう。それでものこのこやって来るのはこの会場で殺される事はないと思ったからだろうか。
レントはその甘い考えに殺意を持った。
さっきからの体の震えやざわつく気持ちがナッシュに対する殺意で消えた。
一気に駆け出せば届く、レントは跳躍のために姿勢を低くした。
その瞬間肩に手を置かれた。驚いて振り向くといつの間に来たのかそこにはアイリスが立っていた。
「レントさん、それイリアシンドロームッスよ。」
アイリスの言葉に会場がざわついた。
「お前ら死にたくなかったら黙るッス、少しでも気に障ることをしたらこの人は躊躇いなくそいつを殺すッスよ。1人殺したらもう止められないッスからね。」
鎧の騎士に式の一時中断を告げるとアイリスは泉から水を汲んできた。
「さぁ、レントさん泉の水を飲むッス、これで落ち着くッスから。」
「ねえアイリス、イリアシンドロームって何?」
水を飲みながらレントが尋ねた。
「まれに精霊の気に当てられて極度に凶暴になる人が出るんスよ。で、そういう人は例外なくひときわ大きな精霊を宿すんでイリアシンドロームって言われてるんス」
水を飲むレントの耳元で小さな声で付け加えた。
「実はフェイ姉さんもイリアシンドロームに罹ったんスよ。」
「それはまた・・・凄かったんだろうなぁ。ともかく僕が唯一の例外にならないように頑張るよ。」
レントが落ち着いたのを確認してアイリスは儀式の継続を鎧の騎士に促した。騎士は咳払いをすると泉の前の小さな階段の前に立った。
フェイの横に戻ったアイリスにドルテが声をかけた。
「お前さんがあんなふうに世話を焼くなんて珍しいの。」
「フェイ姉さんの大事な人だし、私もああ言う人嫌いじゃないッスから。」
アイリスの言葉にフェイが微笑んだ。
「ありがとうアイリス。あなたが止めてくれなかったらきっとレントは躊躇いなく殺戮者になってたわ。」
「フェイや、そう言うお前さんは何で止めなかったんじゃね?」
一瞬言葉に詰まったフェイが恥ずかしそうに言った。
「レントが格好良くて見とれてたの・・・・ドキドキして止めるとかそういう事が頭から消えていたんです。」
フェイの言葉を聞いてドルテは呆れ顔になり、アイリスは苦笑いをした。
「それではこれより儀式を執り行います。まずは権利者アレックス、前に出なさい。」
呼ばれて前に出てきた若者から竜の牙を受け取ると、その右手の甲に深々と突き刺し、牙に付いている紐で縛って固定した。
アレックスは階段を上り、泉の前まで来るとその手を水の中に入れた。
流れ出す血が1本の糸のように螺旋を描いて泉の中央へと伸びて行き、中央に達すると今度は四方八方へ放射状に伸びていった。まるで投網か蜘蛛の巣のように水面を覆う。
それに誘われるように水底から黒いモヤがゆっくりと浮いてきた。
モヤは試すように、確かめるように水面を漂っていたが、次の瞬間血と共にアレックスの手の中へ飛び込んでいった。
吸い込まれたのではない。モヤが自ら飛び込んでいったのだ。
アレックスの手に結ばれていた紐が粉々に切れ、牙が手から抜け落ちた。
血が流れていないどころか疵痕さえ無い。
モヤはアレックスの体の表面を走り回り、やがて刺青状の模様となった。
「見事だアレックス。」
鎧の騎士に声をかけられたアレックスが嬉しそうに階段を下りてきた。
次に呼ばれたナッシュがおどおどとレントを見ながら青ざめた顔で階段を上り、牙の突き刺さった手を泉に入れる。
血が蜘蛛の巣状に延びて行くが水底のモヤが浮かんで来る事は無く、やがてゆらゆらとぼやけて消えて行った。
両脇の騎士が手から竜の牙を抜いてナッシュに手渡した。
不思議な事に手には傷も無く血も流れていない。
牙の効力なのか泉の効力かは分からないが、続く若者たちも同じように手に傷が付く事は無かった。
精霊を宿せた者、また来年に持ち越す者と様々である。
「それではサリティ、前に出なさい。」
呼ばれたサリティが不安そうに石段を上っていったが、ほどなく精霊を宿して戻って来た。
「まぁ心配はしてなかったけど、ちょっと緊張しちまったぜ。」
「おめでとうサリティ。」
「俺の事よりもレント、フェイが懸かってるんだから気合い入れてけよ!」
「いや、気合いで何とかなる物じゃないだろこれ。まぁともかくやってみるしかないないって感じだなぁ・・・」
「まぁ、最悪精霊が宿らなかったら直接泉に飛び込んで食っちまえよ」
「あー、それ実は僕も考えた。邪魔する奴はどんどん・・・・」
話しているレントに精霊の騎士が割って入った。
「お願いですから不穏当な発言は控えて下さい。それと、最後になりました。レント・・・・さん。前に出て来て下さい。」
イリアシンドロームに罹ったレントが躊躇いなく人を殺すと言ったアイリスの言葉が、精霊の騎士を怯えさせたのだろう。
言葉使いが他の者に対するのと明らかに違っていた。
見ていたアイリスがフェイに囁く。
「レントさんはフェイ姉さんと同じ事考えて居たッスね。」
「私は・・・そんな事を考えたりしなかったし、何よりもあんな大きな声で言ったりしないぞ。」
「そうじゃよアイリス、フェイは最初っから飛び込もうとして身構えていただけじゃよ。」
ドルテの言葉にフェイが赤くなった。
「だが心配は要らんじゃろう。レントは水面を真っ黒に染め上げるじゃろうて、おまえさんのようにのう。」
「私もそう思います。それにもし精霊が宿らなくてもいいんです。その時は私は村を捨ててレントに付いて行くだけの話ですから。それももうレントには伝えてあります。」
「ほっほ、そりゃレントも男冥利に尽きるのう。」
レントは牙の突き刺さった手を祈るように泉の中に入れた。蜘蛛の巣状に広がった血にモヤが掛かってくれと心の底からレントは祈った。
だがモヤは水面に上がってこない。
次第に血がぼやけてくる。
(これはやっぱり飛び込んで喰らうしかないか)
レントがそう思った時、両脇に控えている騎士がつぶやいた。
「泉の水の色が変わっている!」
見ると透明だった水が薄紫色に変わっている。更に色が濃くなって行く。紫に、そして濃紺に、やがて水は真っ黒に染まり、レントの血だけが赤く蜘蛛の巣状に広がっている。
「あれは・・・なんじゃ?」
「わからない、私の時とは違う。一体何が起こっているの?」
水の色は更に黒さを増し、ねっとりとしたスープのようにうねる。
うねりの波間から黒い柱や禍々しい生き物の像が突き出してくる。
水面が地面のように固まり、ひび割れ、中央に四角く大きな門が隆起した。
「これは・・・なんだ?」
「これは・・・門か?」
「気をつけろ、開くぞ!」
騎士達や村人が戸惑い騒ぐ中で、レントはじっと門を見つめた。
開く門の隙間から光が差し込み、光の中から小さな人影がレントを目掛けて一直線に飛び出してきた。
「きゃっほーーーい。」
そう叫んでレントに抱きついてきたのは小さな女の子だった。
油断なく身構えていたレントがあっけなく抱きつかれて倒れた。
呆然としているレントに乗っかったまま少女がにっこりと笑う。
麻の短衣を着た赤い髪の、10歳ぐらいだろうか。
もちろんそれが見た目だけだと言うのもレントは承知している。
「私はカルビ!よろしくね・・・ええと・・・?」
「レントだ。それでカルビ、君は僕を食い殺すのかな?それとも願い事でも叶えてくれるのかな?」
レントの問いに笑いながらカルビが答えた。
「壺に閉じ込められたチンケな魔神じゃあるまいし、そんなことしないわよ。そんな事より旦那様がお待ちです。レントさん、一緒に来て下さい。」
言うが早いかカルビはレントの手を取って門の中に駆け込んだ。
抵抗する間もなく力任せに引きずられて地面の突起に体をぶつけながらレントも門の中へと消えた。
誰もが呆然と見守るしかない状況でただ1人フェイだけが行動を起こした。
剣をかざして門へ駆け寄り、閉まる扉に剣を突き入れて肩を滑り込ませる。
そのまま強引に中に入ったフェイが門の反対側から転がり出た。
呆然と膝をつくフェイに崩壊した門の破片が降り注いだ。
「レント?レント!レントはどこ?」
レントの姿もカルビの姿も、もうどこにも見当たらなかった。
★
地平線のその先が霞んで見えるほど広大な草原にレントは居た。
カルビの手を離して立ち上がり空を見上げる。
空には巨大な丸い光が浮かんでいる。その光の中で見た事のない文字のような物が互い違いに幾重にも並んで交互に回っている。
2つの渦巻きを互いに逆方向に回していると言えばいいのだろうか。
「なぁカルビ、もしかしてあれ・・・太陽か?」
「うん。そうだよ」
「あの文字みたいなの、何て書いてるんだ?」
「あれは文字じゃなくて世界のことわりが生まれて燃えて消えて、そしてまた生まれるのが目に見えるだけだよ。」
「んんん?ごめん、君の言ってる意味が全然わかんない。」
「普通ニンゲンの目にはあんな風に見えないから理解できないのは仕方ないですよ、さぁそれよりも早く行きましょう。」
そう言ってカルビが指差した先にはさっきは無かった瀟洒な家がぽつんと1軒だけ建っていた。
歩いて行くと玄関の所に熊のように大きな男が立っていた。
一目見るなりレントは不快な気持ちになった。
値踏みするように、挑発するようにこちらを見てニヤニヤ笑っているのだ。
実はレントはこのタイプの人間をよく見知っていた。
礼節や謙虚さを教わらずに自分の生まれ持った大きな体と力に過信した巨人族の若者。傲慢で腕力に物を言わせて押し通す図々しい生き方。
戦場で、また街中で見かける度にレントは同族である事に恥を感じさせられたものだった。
「カルビ、お前の言ってた旦那様ってあいつか?だとしたら俺は帰らせてもらうよ、あいつを殺してしまう前にな。」
振り向いたレントだったが既に扉は消え失せていた。
「なぁカルビ、ここの扉だけど・・・・」
そう言って前を向き直したレントの目に写ったのは、大男を殴り飛ばすカルビの姿だった。
「トロ、あんたふざけた真似してると殺すよ!」
トロと呼ばれた大男はふてくされたように舌打ちをしてレントを睨みつけると家の中に入っていった。
「レントさんごめんなさい。弟のトロは躾がなってないもんだから許してやって下さい。」
「あ、ああ。まぁでもやりすぎじゃないか?」
「いいんですよ、たまには身の程を知るぐらい殴らないとすぐにいい気になっちゃうんですから。」
つまりカルビはトロと呼ばれた男より格段に強いと言う事なのだろう。
「そんな事よりもレントさん入って下さい。旦那様もお待ちしています。」
「ん・・うん。わかった。」
カルビに促されて扉を開けると、外観よりも遥かに広い部屋があった。
広い空間に大きく重厚なテーブルとイスしかない。
そのイスに座りコーヒーを飲んでいる男の後ろ姿がレントに言い様のない懐かしさを感じさせた。
「私たちは世界の片隅に居るが、それはまた世界の中心に居ると言う事でもあるのだ。白く発光する太陽の、その光に照らされる事象の何と言う色彩を放つ物であるか。緑の牧場に我らを・・・・」
レントとカルビに気付く事無く深い思いに耽っている
「え、えーと、旦那様、思索の最中で申し訳ないのですがお客様をお連れしました。」
「え?ああ、待っていたよ。さぁ、そこの椅子にかけたまえ」
振り向いた男は30歳ぐらいだろうか。とても穏やかな目をしている。
レントはやはりどこかで出会った事があると確信した。
だがどこで会ったのかがさっぱり思い出せなかった。
ただこの人には逆らいたくないと思った。怖いとかではなく、子供が親を慕うように従順でありたいと思わせる眼差しなのだ。
椅子に座ったレントの前にカルビがコーヒーを置いた。
「さて、自己紹介をしなくてはいけないんだが私は名前が多くて何と名乗ったらいいか迷うし意味がないような気もするんだ。」
「あなたが人間ではない事だけは僕にもわかります。何と言うか、上の次元の存在なのでしょう?」
「そうだね。監視者、いや、管理者と言ったほうが良いかも知れない。」
「僕たちは会った事がありますよね?」
「うん。何度も会っているよ。別の世界の別の時間にも、人ごみの中にも、そして夢の中でもね。」
男はコーヒーを飲み干し、テーブルにカップを置くとレントを見据えた。
「さて、本題に入ろうか。君たちが精霊と呼んでいる物の説明をした後で泉にある全てを君に渡さなくてはならないからね。」
「それは・・・なぜです?」
「君の魂に全てが反応し、呼応したからだよ。」
「反応・・・ですか・・・・」
「あれは人の魂の一部が凝縮されて物質化した物なんだ。魂と言うのはね、大きく分けると2つ、いや、3つになってるんだよ。」
「初めて聞きますが、あなたが言うのなら本当・・・なんでしょうね。」
「1つは核になる主魂、そしてそれを補佐する2つの従魂がある。片方は慈愛や道徳心、もう片方、君に手渡す方は衝動や義侠心だね。君たちの世界での悪い言い方をすれば善と悪、と言えるかも知れない。」
男の話を聞いていたレントがたじろぐ。
「つまり僕は悪魔や悪霊の化身となるわけですか?」
「それは君の考え方次第だが天使も悪魔も本質は同じようなものだよ。」
「なるほど。」
「それからもう1つ君に言わなければいけない事がある。」
男は立ち上がると窓辺に向かい外を眺めた。
「正直ね、私は全ての魂が呼応共鳴する者がこんなに早く来るとは思ってなかったんだよ。例えば1人の人間が10人の魂と交わったとしよう。その10人がさらにそれぞれ10人の魂と交わると合計で100人になる。その100人がさらにそれぞれ10人の魂と交わると・・・・そうやって10倍ずつ呼応する魂は増えるのだが、どこかでそれは途切れるんだよ。」
「は、はぁ・・・」
「これはね、大陸規模あるいは世界規模で君がどこかで何かをやったと言う事なんだ。そしてこれは今の君の人生でも起こるだろう事なんだ。」
「何かをって・・・・一体どんな事をするって言うんです?」
「おそらくは大量虐殺、または大規模な人災だと思う。」
男の言葉にレントは慄然とした。
「まぁ驚かせても仕方ない。さて、では説明も終わったし君に黒い従魂を全て授けよう。」
不意に殺気を感じたレントが身を伏せた。
レントの頭の上でトロが打ち下ろそうとした棍棒をカルビが止めていた。
「邪魔すんなよ姉ちゃん、俺はコイツが気に入らねえよ。」
「だから旦那様の客人に害を成すって言うの?トロ、お前思い上がるのもいい加減にしなさい。」
「まあ2人ともやめなさい。」
男は穏やかに言うとレントに詫びた。
「申し訳ない。どうもトロは人見知りな上に気が短くてね。」
その言葉にトロが横を向いて舌打ちをした。
「そうか、君の今の名前はレントと言うのか。」
「はい、レント・オルフィスと言います。」
レントの言葉に男が黙りこんだ。
「どうかしたんですか?」
「ああ、いや、そうか。君はそう言う名前なのか。」
怪訝そうな顔をしているレントに男が提案した。
「そうだ、せっかくだからこの2人を君の従者としてしばらく面倒を見てやってくれないか?きっと役に立つよ。」
「え?ええと・・・・」
戸惑うレントにカルビが言った。
「いいんですか旦那様?喜んでレント様の従者になります。」
「せっかくだから俺も行こうかな。こいつの恋人を目の前で・・・がふ!」
トロが話してる途中でレントが座ってた椅子でアゴを突き上げた。
そのまま何も言わずにイスを振り下ろす。
5回、8回、、、、12回目でイスがバラバラに壊れた。
口から大量の血を流し、かつ血だらけになって倒れてるトロの傍に寄ると無造作に耳を掴んで引きちぎった。
叫び声をあげて身をよじりながら逃げようとするトロの頭を蹴り上げる。
身動きさえ出来なくなったトロの襟首を掴んで持ち上げるとレントはその顎と喉仏を掴んだ。
地の底から湧くような低い声でレントが誰にともなく言う。
「たとえ生き返っても、生まれ変わっても俺は何度でもおまえを殺す。絶対にだ。わかったか。」
「あああ、いやだ。許して。死にたくない死にたく・・・・」
レントは命乞いをするトロの喉を無造作に引き裂いた。
全身に鮮血を浴びてレントの体が真っ赤に染まる。
崩れ落ちたトロの体が不意に跳ね上がった。引き裂かれた喉の中から野獣のような顔が飛び出しレントに襲いかかった。
レントは両手でその顔を押さえるとそのまま握り潰した。
2つの顔に死が訪れた。
レントの怒りの形相がゆっくりと冷静さを取り戻して行き、やがて沈痛な表情に変わった。
「俺は・・・何をしたんだ?いや、なぜ俺はこいつを殺してしまったんだ?殺すつもりなんて無かったはずなのに・・・・」
泣きそうな顔でカルビにつぶやく、
「なぁカルビ、こいつはお前の弟だろう。俺を殺したいよな?」
「私はついさっきレント様の従者になりました。従者が主人を殺すなどとんでもございません。それに正直言ってむしろ感謝しています。」
「そんな、カルビ・・・・でも俺は気持ちの整理すら出来ない。こんなむごい殺し方をするなんて、殺してしまうなんて・・・」
動揺するレントに男が近づくと悲しそうに言った。
「レント君、それが君の背負った運命なのだよ。君はいま不在の神々の代理をさせられたのだよ。」
「不在の神々の代理?」
「そうだ。幾度となく繰り返される神話、その選択肢の可能性の中に君は立ち会う運命を持っているんだ。そしてその運命は恐らくこれで終わりではない。」
「言っている言葉の意味がよくわかりません。」
「君が私にここで出会ったのも、黒い従魂を受け取るのも、トロを殺したのも全て神話を再現し、なぞった結果だと言う事だ。」
呆然と聞き入っているレントに男は続けた。
「君が今殺したトロの、一般に人の耳に入る名前を伝えよう。」
「名前?ですか?」
「そうだ。彼の名前はオルトロス、そして姉のカルビの名前は・・・」
「ケルベロスですご主人様。よろしくお願いします。」
そう言ってカルビはレントに微笑んだ。
レントは血にまみれた体のままヨロヨロと椅子に座り込んだ。
「家よりも中の部屋の方が広いとかそういうのはまぁいいよ。目の前に扉が現れてさらにそこから女の子が飛び出してくるのもまぁいいよ。」
大きくため息をつくと途方に暮れたようにつぶやいた。
「でも神や魔はいけない。僕のようなただの人間が関わったら触りがあるし
災いが降りかかる。何よりも僕は神を恐れる。」
レントの言葉に男とカルビが目を見合わせた。
「あの、ご主人様はただの人間じゃないですよ。」
「ただの人間だよ。買いかぶらないでくれ。」
2人の会話に男が割り込んだ。
「レント君は巨人族ですよね。神々が巨人族のいち種族だと言うのをご存知ないんですか?」
「え?いや・・・まぁ聞いたことはありますが・・・・」
「だったらわかるでしょう。君は巨人族だと言うだけで既に神の眷属なんですよ。ただの人間じゃないんです。」
「そ、そんなこじつけ言わないで下さいよ。」
「まぁ起きてしまった事はどうしようもないですから諦めてください。そして今後も続くであろう神の代理に対しても仕方ないと諦めてください。」
そう言うと男はニッコリと笑った。
「それが人生を楽しむコツです。」
「・・・・はぁ。」
カルビが嬉しそうにレントに擦り寄ってきた。
「ご主人様、私人間の住む世界って行くのがすごい久しぶりなんで楽しみです。おいしい物をたくさん食べたいです。」
もうすっかりレントに付いて行くつもりらしい。
「いや、君のような小さな女の子を連れて行けないし、ケルベロスが従者だなんてとんでもないよ。」
「えーっ、じゃあどんな姿ならいいんですかご主人様?」
「そのご主人様ってのやめてくれるかな。そう、犬とか猫とか小型の竜とか・・・いやいや、連れて行くの前提で話しないでくれよ。」
「竜なんてイヤです。わたし幼児性愛趣味無いですから。」*1
そう言うとカルビはくるりと宙返りをして硬外殻を纏った巨大な黒い獅子に姿を変えた。獰猛な3つの頭と背中に黒い翼を備えた禍々しい姿である。
「これでどうですか?」
「どうもこうも・・・・あなたからも何とか言って下さいよ。」
男は楽しそうに笑っていた。
「いや、失礼。カルビ、レント君はもっと小さくてかわいい方がいいそうだ。頭も一つの方が良いらしいよ。」
その言葉にカルビがまた宙返りをして姿を変えた。
黒地に黄色の柄の入った猫、ただし外殻と翼は付いたままだった。
「どうだろうレント君。カルビとしても最大限の譲歩をしていると思うのだが連れて行ってくれないだろうか。」
「え?ええっと・・・・ケルベロスだってバラさなければ、あとちゃんと言うことを聞いてくれるなら・・・・いいです。」
「きゃっほーーーい。」
カルビが叫びながら抱きついてきた。
それを満足そうに見ていた男がレントに言った。
「これから先、君の住む世界以外で何か困った事があったら私を呼んでくれて構わないよ。その時はアマイモモと叫んだらすぐに駆けつけるよ。」
「あ・・・甘い桃・・・ですか。」
「そうだ。だがこの名前をあまり人に言わない方がいい。知ってる人が聞いたら卒倒してしまうかも知れないからね。」
「そ、そうなんですか?」
疑わしそうにレントがつぶやいた。
カルビにトロに甘い桃と聞かされたら誰でも妙だと思うだろう。
「旦那様は甘い物が好きですからね。」
「こらこら、それとこれとは話が違うぞ。付いた名前だから仕方なかろう」
「でもこれでひとまずお別れですね旦那様。」
「そうだな。私も少し寂しいよ。」
「人の世界では最後までご主人様に尽くします。それからまた旦那様にお会い出来るのを楽しみにしています。」
アマイモモは優しくカルビの頭を撫でるとレントを見た。
「ではレント君、そろそろお別れだ。カルビをよろしく頼む。」
そう言うとテーブルの上にあるコーヒーポットの蓋を開けた。
中から黒いタールのようなものが溢れ出してテーブルに、そして床に広がった。やがてそれは深さを増してレントを飲み込んだ。
なかば溺れるように闇の従魂の中を漂いながら、レントは遥か上方にアマイモモを見た。白く輝く姿と翼が見えた気がした。
*1 竜は『かわいい子供』の守護者になることや自分の身と引き換えに
絶大な力を授ける事に喜びを感じる魔獣とされている。




