第10話
その日の仕事は全くといっていいほど、手につかなかった。朝起こった交通事故は、苅
部の瞳には惨劇のように映っていた。未来の蛍光球に赤色を点していたサラリーマンがあ
んなことになり、普通でいられるわけがない。自分の頭の上の未来の蛍光球が赤であるこ
と、それが意味することを考えるとマイナスにしか物事を考えられなくなる。
僅かな望みを託して、さっき会社のトイレに行って鏡を見てみたが希望は一瞬にして打
ち砕かれた。自分も近い未来にあのサラリーマンのようになるのか、そう思うと頭がパニ
ックを起こしそうになる。赤色の未来に待ち受けるもの、その正体を知りたくてたまらな
くなり、同時に知ってしまったときのショックに目と耳をふさぎたくもなった。
「・・・・・・さん、苅部さん」
ふと自分の名前が呼ばれていることに気づく。現実世界から逃避するように思考を続け
ていて、周囲に気を向ける余裕がなかった。
「はい、なんでしょう」
弱々しい声で、隣のデスクの女性社員に返答する。
「顔色悪いですよ、大丈夫ですか?」
なんとなく耳に入ってきた程度だった、正直今は身体の活動は正常には働いてくれてな
い。自分の顔色が悪いということも、彼女に言われて初めて認識した。
「汗も出てますよ、早引きした方がいいんじゃないですか?」
それも言われて初めて気づいた、額にはいつのまにか冷や汗が滲んでいる。目先にある
かもしれない惨劇を思うと、身体が異常反応を示していた。
具合が悪いわけではなかったが、体調不良という理由付けで会社を早退した。
会社を後にしてからも、苅部は己を正常に保つことが出来なかった。まるで当て所のな
い旅に出てるように、お先は真っ暗だった。街灯の光もない黒の道を命綱なしで歩いてる
ような、一歩でも踏み外せば崖から落下していくような感覚だった。
そんな停滞のない暗闇に入り込んで15分ほどが過ぎた頃、携帯が揺れる感覚が伝わる。
「体調、大丈夫ですか? さっき会議が終わったんですけど、苅部さんがデスクにいなか
ったから気になって。そしたら体調不良で早退したって聞いて、心配で・・・・・・。も
しかして、昨日も体調悪かったんじゃないかって思って・・・・・・」
馬瀬からのメールだった。自分の偽りの体調不良を心配してくれている、申し訳なく感
じた。
いつもなら喜んでいるはずのメールだったが、今はそれどころじゃなかった。適当に返
信のメールを送り、苅部は先を歩いていく。
もう15分ほど歩くと目的地に着く、正確に言うなら目的地なのかどうかの確証はなか
った。
建っているだけで威厳に満ちてるような外観の大病院、今の彼にそれを感じてる余裕は
ないが。ここを訪れたのは自分の診察をしてもらうためじゃなく、朝の交通事故に遭った
サラリーマンがどうなったのかを知るために。事故が起こった場所から1番近い病院に搬
送されてるだろうと、ここを訪れた。
彼の予想は当たった、あのサラリーマンはこの病院にいた。しかし、まだ手術中という
ことで詳細を知ることは出来なかった。
彼の結果がイコールで自分の未来、いつしかそう思うようになっていた。手術の終了時
間は未定と聞き、苅部はそこに留まることを諦める。あれだけの大事故だ、只事では済ま
ないはずだ。重傷、重体、最悪は・・・そう考えると、頭を何度も振った。
手術の結果を聞くのが怖かった、もしもを考えると聞けなかった。その結果を知ってし
まったら、自分の未来には絶望しかなくなる。そうなってしまうのが怖くてたまらない、
逃げるように苅部は病院を後にした。
それからの帰り道は困難を極めた、一瞬の油断も許されなくて。どこにどんな事故の可
能性が潜んでるか分からない、そう思うと何もかもが危険に見えてくる。周りにいる全て
の人間が敵に見え、全ての物が襲い掛かってくるような気になる。
なるべく危険性の低い、道の端に寄って少しずつ進んでいく。前後を何回、何十回、何
百回、気が遠くなるほどに細心の注意をはらいながら振り返る。近くにいる人たちにどう
思われようが気にしない、気にしてる余裕がない。
そんなふうにして、1時間の道のりに2時間をかけて家まで辿り着いた。
それからは毛布を被って、ただひたすら過ぎてく時間を遣り過ごすだけだった。体はい
つまでも震えていた、何が起こるかも分からない事に怯えていた。もちろん、自分の部屋
にいたところで助かる保障なんかない。それでも、今は微小でもいいから安全性のあると
ころにいたかった。安全という言葉のブランドにすがりつきたい気持ちでいっぱいだった。
そんな心持ちを5時間も続けてると神経が参りそうになった。
ガチャッという物音に体がビクリと過剰に反応する、ただ康恵が帰ってきただけだった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
体調が悪いと偽りの理由を康恵にも言う。心配してくれたがそれどころじゃなく、適当
に返事をしていた。
このまま、時間が過ぎていくのを待つしかなかった。ここにいれば、大地震で家が崩壊
したり、強盗犯が侵入したりでもしなければ、なんとかなると自分に言い聞かせながら。
また2時間ほどが経った頃、康恵の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、遥ちゃんが来てくれてるよ」
馬瀬が?
「ここ、入るからね」
こちらの返答を待つこともなく、この部屋の戸が開けられる。暗闇だった部屋の明かり
もつけられ、いくつかの足音が耳に入ってくる。
「お兄ちゃん、薬買って来るからね」
そう言って、康恵はそそくさと出て行った。自分と馬瀬に気を遣ったのだろうことは分
かった。
「苅部さん、大丈夫ですか?」
馬瀬の声が届く、気持ち程度だが強張る心内の和らぎを感じた。
同時に気づく、ここにいさせては馬瀬や康恵も危険なのではないかと。
「はい、ちょっと気分が悪くなっただけですから」
まずい、このまま彼女と近くにいたら。
「そうですか、なら安心しました」
まずい、なんとかしないと。
「何回かメールしたんですけど、返信がなかったから心配になって来ちゃいました」
嬉しいはずの言葉に嬉しさが湧かない、そんな余裕が全くなかった。早くここから馬瀬
を出さないと、彼女まで巻き添えになってしまうかもしれない。自分が出ていくことも考
えたが、この状況では不自然に違いないし、なにより外出を止められることだろう。
「何も食べてないって康恵ちゃんから聞いたんですけど、軽いものなら作ったら食べてく
れますか?」
どう返事していいか迷った、「はい」と言ったら彼女が長居してしまうし、「いいえ」と
言うのは失礼に思って。
だが、この状況下において、迷いは命取りになりかねない。
「・・・すいません、食欲がないんです・・・」
申し訳なさでいっぱいになる、折角の好意に対して。
少しの間があり、馬瀬が言う。
「じゃあ、何か作っておきますから、食欲が出てきたら食べてください」
違う、そうじゃないんだ。
食欲の問題じゃない、ここにいない方がいいんだ。
彼女の生命の危険に関わる、そう自分の決意に火をつける。
「・・・帰ってもらっていいですか・・・」
「・・・えっ?・・・」
苅部の声は震えるようだった、彼が言うには勇気のいる言葉だった。
「・・・馬瀬さんに具合悪いのがうつるといけないし、明日も会社あるから・・・」
「・・・このぐらい大丈夫ですよ、遠慮しないでください・・・」
ダメだ、もっと強く言わないと。
これは彼女のためなんだ、彼女を救うためのことなんだ。
「・・・帰った方がいい!・・・」
「・・・でも・・・」
苅部の強い言葉に、馬瀬の言葉が弱くなっていくのが分かった。
「・・・帰ってください!・・・」
振り絞るぐらいの声で言った、自分が嫌なやつに思えて仕方なかった。
そこからの空白は僅かなものだったが、彼女のことを思うとやりきれなくなった。
「・・・私じゃあ・・・力になれませんか?・・・」
細い声だった、馬瀬の心情がそこにままに出ていた。
苅部はだんまりを決め込む、やがて馬瀬は何も言わずに帰っていく。さすがに良心の呵
責に苦しみ、布団を取って彼女の後ろ姿を目にする。
ハッとした、まさかの状況がそこにあったから。
去っていく馬瀬に点っていた未来の蛍光球が赤になっていた。どういうことだ、どうし
て彼女に赤が・・・・・・。あまりにもの展開に頭がパニックになる、整理しようにも縦
横無尽に飛び回る疑問符を容易につかむことが出来ない。
ただ、あれこれ悩んでる時間はなかった。馬瀬が危ない、この状況で外を歩かせるのは
危険すぎる。
まだ感情のまとまらない心内のまま、苅部は外に飛び出る。とにかく彼女を探さないと、
その意思だけで足を走らせていく。
馬瀬はすぐに見つかった、家から2分ほどのところにある交差点付近を歩いている。彼
女の姿を視界にとらえ、苅部はスッと胸を落ち着ける。よかった、そう思ったのは束の間
だった。
馬瀬が赤信号の交差点に入っていこうとしているのが分かった。どうして・・・どうし
て、止まろうとしないんだ。
苅部は全速力で交差点に走っていく、身体が自然とそうしていた。夜風を切るような走
りだった、運動音痴とは思えない疾走感を出して。
右からワゴン車が迫っている、馬瀬は下を向いたままで気づいていない。彼女の体が交
差点に入る、ワゴン車はすぐそこまで来ている。
キキ〜ッ、けたたましいブレーキの音が鳴り響く。その音でようやく彼女は現実に戻る、
しかし今頃そうなったところで遅かった。
瞬間、世界がスローモーションになる。全ての動きが水中を泳いでるように、ゆっくり
と流れるように為されていく。これが映画のワンシーンだとしたら、きっとBGMには優
美なオーケストラが流れていることだろう。
我に返った馬瀬はカーライトの強い光を浴びながら、金縛りにあっているように立ちす
くんでいる。
ワゴン車を運転していた男性は急ブレーキをかけながら、神に祈るように両目をつむっ
ている。
苅部の手が馬瀬に伸びる、ワゴン車も確実に彼女に近づいていく。ビーチフラッグのよ
うな感覚、どちらが馬瀬に早く届くか。
苅部の手が先に馬瀬に届く、そして体ごと抱えて思いきり前に突っこむ。
間一髪だった、自分以上の力を出した苅部は間に合うことが出来た。
目を開く、意識がある、体が動く、助かったんだと分かった。
抱えていた馬瀬も同様だった、それにようやく息をつくことが出来た。
「・・・よかった・・・」
心の底から出た言葉だった。
「・・・苅部さん・・・」
馬瀬が言う。まだ金縛りのような緊張感が持続してるのか、身体は硬くなっている。
「・・・無事でホントによかった・・・」
そう言い、馬瀬の体を引き寄せる。
もしかしたら彼女を失っていたかもしれない、そう思うと愛しさが溢れてきた。馬瀬も
ゆっくり苅部の背中に腕をまわす、次第に涙で鼻をすする音が聞こえてきた。
「・・・怖かった・・・怖かったです・・・」
かすれるほどの涙声だった、感情の昂ぶりを示すように背中にあった彼女の腕に力が込
められる。
苅部と馬瀬の未来の蛍光球は銅に変わっていた、自身と恋先の未来を変えることが出来
たのだ。
もう大丈夫だろう、彼はきっと強く生きていけるはずだ。
今作はこれで最終話となります。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。




