こんな夢を観た「πを計算するおじいさん」
最近、そのおじいさんとよく出会う。ぼさぼさに伸ばした髪も、胸もとまで届きそうな髭も真っ白で、これで杖でも握っていたら、きっと仙人じゃなかろうか、と信じてしまいそうな風貌である。
おじいさんは杖の代わりにそろばんを持ち歩いていた。そして、どこだろうと構わず、ぶ厚い大学ノートを広げ、ぶつぶつ言いながら何か計算しているのだった。
ある時はファミレスで、また別の日には駅のホームで、わたしはおじいさんを見かけた。かしゃかしゃとそろばんを弾き、計算結果を素早くノートに書き記している。
晴れたある日、近所の噴水公園のベンチで、わたしはおじいさんに会った。コンビニで買ったパンを食べている。傍らに、大学ノートと愛用のそろばんが置かれていた。
いつも忙しそうだったので声をかけそびれていたが、滅多にない機会だから、と話を聞いてみることにした。
わたしはとなりに座ると、遠慮がちに挨拶をする。
「こんにちは」
おじいさんは振り返り、にこっと笑いかけてくれた。
「はい、どうも」
「町で、よくお見かけします」
「ええ、わたしも覚えていますよ。ファミレスやホームでもお会いしましたね」物静かな、落ち着いた声で言う。
「いつも何か計算してらっしゃいますけど、失礼でなければお聞きしてもいいでしょうか?」わたしは言った。
「ああ、これですか」おじいさんは大学ノートに手を載せ、ぽん、と叩く。「円周率の解を求めているんですよ」
「3.14159……って続く、あれですか?」
「はい、それです。つい今しがた、11兆桁を計算し終えたところです」何でもないことのように答える。
「11兆桁っ!」わたしは目まいがしてきた。「それって、何か意味のあることなんですか?」
「意味ですか。さあ、どうなんでしょうね。最後の数字がわかると、さらにその次が知りたくなる。わたしがこれを続けるのは、そうした理由なのですが、意味があるとして、それが何なのか考えたこともありませんねえ」
「小学校の時、桁を覚えさせられたことがあります。と言っても、小数点以下5桁だけですけど」クラスメイトと一緒に、一生懸命復唱したことが、懐かしく思い出された。
「ははは、わたしもやりましたよ。あれは、語呂で覚えるとわかりやすいんですよ。『産医師異国に向かう 、産後厄なく 、産婦みやしろに、虫散々闇に鳴く』」
「何ですか、その漢詩みたいなのは?」わたしは聞いた。
「数字を言葉に置きかえたものです。3.14159265、358979、3238462、643383279。ほら、これだけで30桁も覚えましたね」おじいさんは面白そうに言う。
「 『産医師異国に向かう 、産後厄なく 、産婦みやしろに、虫散々闇に鳴く』……。すごいっ。ちゃんと意味になってるし!」わたしは心から感嘆した。
おじいさんはパンを平らげ、短い昼休みを終えた。
「さて、失礼して、また計算の続きを始めさせていただきますよ」おじいさんは言い、そろばんを手にする。
わたしは、しばらくその場に留まって眺めることにした。それまで、数字などというものは、何かと頭痛の種でしかないと思い込んでいたのだが、にわかに興味を持ち始めたのだ。
おじいさんのそろばんは、それこそ指の動きすら読めないほど速かった。神業と言ってもいい。電卓で、イコールを押してから表示が出るより、なお早かった。そうでなければ、11兆桁などという結果が出せるはずもない。
どれだけの間、そろばんを見つめ続けていたろうか。
おじいさんは、ペンをころん、とノートの上に転がせた。
「今日はもう、おしまいですか?」わたしは尋ねる。
おじいさんはゆっくりと首を振った。
「やっと、すべて計算し終わりました」そろばんを振って、ご破算にする。
いつの間にか「永遠」の時が経っていた。