死に戻り令嬢「パパが絶対助けてやるからな」
膝の下で、石畳が冷たかった。
処刑台から見下ろす広場は、人で埋まっている。罵声。嘲笑。誰かが投げた石が、私の足元で跳ねた。
「公女イリーナ・ヴァルディアは、王太子殿下の婚約者でありながら数々の不祥事を重ね、王家に甚大な損害を与えた」
役人が罪状を読み上げる。
「ヴァルディア公爵家はその所業を黙認し、あまつさえ加担した。よって、連座を命ずる」
加担。
した覚えなど、ひとつもない。
右隣に、娘のイリーナがいた。背筋を伸ばしたまま、唇を噛んでいる。血が滲んでいた。左隣には妻のセレーネ。「氷の令嬢」と呼ばれた美しい顔は、最後まで崩れない。
私は何も知らなかった。
娘が何をしたことにされているのか。誰がこんな絵を描いたのか。
そして、なぜ私は、娘の顔を最後に見るのが、こんな場所なのか。
(娘なら大丈夫だ。公爵令嬢なのだから、自分で何とかするだろう)
そう思って、私は何年も、娘をちゃんと見てこなかった。
だから。
せめて、これだけは言わなければならなかった。
「おかしい! うちの娘がそんなはずない!」
「静粛に」
「あの子は、そんなことをする子じゃない! 調べ直せ! 私の娘を――」
刃の落ちる音がした。
そこで、私の世界は途切れた。
* * *
暗い。
その次に感じたのは、柔らかさだった。
背中の下に、やけに上質な寝具。頬に触れる、さらさらとした長い髪。
……髪?
「生きてる?」
声を出して、固まった。
高い。細い。私の声ではない。
見上げた天蓋には見覚えがあった。屋敷の、娘の部屋だ。
私は処刑されたはずだ。刃が落ちる音まで聞いた。なのに首はつながっているし、痛みもない。ただ、手が小さい。白くて細くて、爪の先まで手入れが行き届いている。
(……私の手ではない)
その時だった。
『わたくし、死んだんじゃ……』
頭の中で、声がした。
耳ではない。内側から響く声。十七年間、毎日聞いてきた声だ。
「イリーナ?」
自分の口から出たのは、やはり娘の声だった。
『お父様?』
間違いない。イリーナだ。
「イリーナ、どこにいる」
『どこって、ここですわ。お父様のお声が、わたくしの口から聞こえて……』
「落ち着け。私も落ち着く」
『お父様が落ち着いてください』
ごもっとも。
ベッドを降りて、姿見の前に立つ。
映っていたのは、母親そっくりの整った顔立ちの令嬢だった。ただ、目元だけは、どう見ても私だった。きつい。非常にきつい。
(……ああ、これは確かに「怖い」と言われる)
いや、今はそこではない。
「まさか私は娘の体を……奪った?」
『奪っ……!?』
「違う、そういう意味では」
『お父様、わたくしの身体は返していただけるのでしょうか』
「当たり前だ! いや、方法は知らんが!」
『知らないんですの!?』
どうしてこの状況で、娘のほうが冷静なのだ。
その時、扉が激しく叩かれた。
「お嬢様! お嬢様、起きていらっしゃいますか!」
執事のロウェルの声だ。いつも静かなこの男が、声を裏返している。
「旦那様が、書斎でお倒れに!」
私が、倒れた?
* * *
書斎のソファに、私が寝ていた。
自分の寝顔を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。しかも目つきが悪い。眠っているのに悪い。
「先ほどお声をかけに参りましたところ、すでにこのご様子で。お医者様をお呼びしております」
ロウェルが早口で言う。
私は近づいて、襟元を覗き込んだ。
首に、一本。
赤い線のような痣が、ぐるりと走っていた。
処刑の刃が通った場所だ。
『お父様、それは……』
「ああ。思い当たる原因がある」
つまり、あの一周目の死が原因だ。私の意識が娘の身体にあるのは、おそらくこの痣と無関係ではない。
「どうやら私が原因か」
呟いたところで、扉が開いた。
セレーネだった。
走ってはいない。優雅な歩み。表情も崩れていない。さすがは氷の令嬢だ。
ただ、ソファの傍らに膝をついた時、私の手を取った彼女の指が、小さく震えているのが見えた。
「あなた」
低く、かすれた声だった。
「どうして」
……この人は、こういう顔をするのだ。
私の前でだけは。
(見ているのが私の身体でなければ、もう少しじっくり見ていたいのだが)
駆けつけた医者は、首をひねった。
「脈も呼吸も正常です。ただ、眠っておられるだけのようで」
「それは、いつ起きる」
「……わかりません」
役に立たない。
医者を返し、机に目をやる。開いたままの日めくり暦が目に入った。
数字を見て、息が止まった。
あの日まで、あと九十日。
処刑の日付を、私が忘れるわけがない。
(九十日。学園の三年目。確か、娘に関する妙な噂が出はじめた頃だ)
ひとまず、状況は把握した。
私は戻ってきた。娘の身体とともに。そして私自身の身体は眠ったまま。
自分の身体を取り戻す方法を探している時間は、ない。
「だが、このままでは時間がない」
私は決めた。
「イリーナ。パパが絶対助けてやるからな」
『……お父様、今、パパって』
「聞くな」
『はい』
そこは、素直なのだな。
* * *
セレーネに話をするため、人払いをして、彼女の私室に入った。
二人きりになったところで、私は切り出した。
「セレーネ。私だ。アルヴァンだ」
セレーネの眉が、ぴくりと動いた。
「イリーナ。冗談にしては、趣味が悪くてよ」
「冗談ではない。この身体はたしかにイリーナのものだが、今、動かしているのは私だ。ソファで寝ている私は抜け殻だ」
「……お母様をからかうものではありませんわ」
声は完全に娘のものなのに、口調が夫のものだ。聞いている側は混乱するだろう。わかる。
だが、時間がない。
「証拠が要るのだな」
「ええ」
彼女は扇を開いて、冷たい目で私を見た。
さて、何を言えば信じてもらえる。二人だけの秘密。他の誰も知らないこと。
私は覚悟を決めた。
「……君へのプロポーズは、浮かれすぎて、会ったその日に、庭の花を手折って渡した」
扇が、床に落ちた。
セレーネは固まっていた。
娘の顔で、父親が妻に昔のプロポーズを暴露する。字面だけで相当にひどい。
しかし、これが一番確実だった。
「あれは……誰にも、話したことが……」
「ない。私も君も、誰にも」
「本当に、あなたなの?」
「ああ」
セレーネは、しばらく動かなかった。それから、そっと扇を拾った。
やがて、小さく息をついた。
「あなたの浮かれ方は、今思い出しても……」
「その話はいい」
「……ええ。本当に、あなたなのですね」
信じてもらえた。助かった。
その時、頭の中で、イリーナが遠慮がちに口を開いた。
『お父様。お二人は、仲が悪かったのでは……? お花のお話なんて、わたくし、初めて……』
……何だと。
「セレーネ。イリーナが、私たちの仲が悪かったのではないか、と言っているのだが」
セレーネが、目を逸らした。
耳の先が、ほんのりと赤い。
「だって……恥ずかしくて」
「恥ずかしい?」
「人前でお話しすると、どうしても……素っ気なくなってしまって」
私は、仲が良いつもりだった。
「私は、君と仲が悪いとは一度も思っていなかった」
「わたくしもです」
「……では、なぜ娘に伝わっていないんだ」
二人揃って、黙った。
『お父様もお母様も、似た者同士ですわ』
イリーナの声には、笑いが混じっていた。
仲は悪くなかったのだ。夫婦も、親子も。ただ、言葉が足りなかっただけで。
(三人とも、同じ顔をして黙っていたのか)
それを知るために、一度死なねばならなかったのかと思うと、やるせない。
「セレーネ。落ち着いて聞いてほしい」
私は、一周目のことを話した。
九十日後に、家族三人が処刑されること。罪状が、イリーナの不祥事と、公爵家の加担だったこと。
セレーネは、一度も口を挟まなかった。話し終えると、静かに言った。
「……わかりました。信じます」
「疑わないのか」
「あなたが、わたくしの前で嘘をつける方でないことは、存じております」
そう言って、わずかに口元を緩める。
「それに、花を手折って差し出す方は、そう何人もいませんもの」
その話はもういい。
* * *
次は、一周目に何があったのか知る番だった。
私も、セレーネも、肝心なことは何も知らない。表向きの罪状を聞かされただけだ。
「イリーナ。話せるか」
『……はい』
娘の言葉を、私が口に出してセレーネに伝える。
王太子の周りに、いつの間にか令嬢たちが集まっていたこと。
学園で、「イリーナにいじめられた」と訴える生徒が出はじめたこと。
「公爵令嬢は気に入らない者を追い出す」という噂が、広がりはじめたこと。
『最初は、気にしないようにしていました。でも、そのうち、本当にそう思っている人が増えて……』
「ふむ」
『それと、王妃様のお稽古が……』
イリーナの声が、わずかに沈んだ。
『礼の角度が一度違うだけで、何時間も同じ動きを繰り返しました。「お母様のような令嬢にはならぬように」と言われて……』
セレーネの扇が、ぱきり、と音を立てた。
私は、深く息を吸った。
「どうして耐えていた?」
こんなことが続いていたのなら、一言でも、私たちに言えばよかった。
そう言いかけて、私は口を閉じた。
違う。言えなかったのだ。
『迷惑はかけられないと……』
『王妃になるのだから、これくらいは自分で耐えなければと思って……』
ああ。
そういうことか。
娘は、私たちに愛されていなかったのではない。愛されていることを、うまく受け取れなかったのでもない。
「迷惑をかけたくない」と思うほどには、私たちを大切に思っていた。
そして私は、それに気づかないまま、「娘なら大丈夫だ」と見送った。
私は、父親として何も分かっていなかった。
……だが、後悔している時間はない。
後悔は、行動に移したあとですればいい。
私は立ち上がった。
「所詮、学園のガキどもが……」
我ながら低い声が出た。娘の声帯でも、威圧感は出るものだ。
『お父様、お口が』
「パパに、任せなさい!」
『お父様、そのお顔は、わたくしの顔です!』
セレーネが、ゆっくり立ち上がった。
扇は、半分に折れている。
「あの王妃……うちの娘になんてことを」
低く、静かな声だった。
「こんなの、嫁いびりじゃない」
「セレーネ、言葉が」
「ママに、任せなさい!」
優雅に微笑んでいる。微笑んでいるのだが、背後に冷気が立ちのぼっていた。
『お二人とも、落ち着いてください……!』
イリーナのツッコミが、頭の中に響いた。
そうだ。一番冷静なのは、いつもこの子だったのだ。
* * *
その夜、もうひとつ、確認しておくことがあった。
「イリーナ。そもそも、王太子……好き……なのか」
聞くのが怖かった。
『いえ。政略結婚だと……』
即答だった。
私は、肩の力が抜けた。
「そうか。そうか!」
『お父様?』
「ならば、好きでもない相手のために耐える必要はない。せめて好きな人と結ばれて! なんなら、お嫁に行かなくてもいい!」
『お父様、飛躍しすぎです』
「いいや、ずっと家にいてもいい」
『それは、それで困ります……!』
* * *
「調べたら出てきた」で済む話は、さっさと済ませるに限る。
私は、書斎で報告書を広げていた。
執務は、公爵家の印章と、家の者たちと、情報網がやってくれる。私に必要なのは、指示を出す声と、サインする手だけだ。
手が小さいのが難点だが。
『お父様の字、お父様の字のままですね』
「手が小さくなっても、癖は変わらん」
ロウェルが震える手でお茶を置いた。
「旦那様……いえ、お嬢様。報告書が、三日で揃ったのですが」
「普通だろう」
「普通ではございません!」
そうなのか。
書類を一枚ずつめくる。
学園のいじめの訴えは、五件。うち三件は、イリーナがその時刻、王宮で王妃教育を受けていた。つまり、王妃本人が、娘の無実の証人になっている。皮肉なものだ。
訴えを出した生徒たちには、共通点があった。
「ふむ」
六人の令嬢たちは、それぞれ別々の家の者だ。明るく健気な男爵令嬢。ドジを演じる子爵令嬢。眼鏡の委員長。騎士の家のボーイッシュな娘。ツンとした伯爵令嬢。そして、色気を漂わせた令嬢。
まあ、見事にタイプが分かれている。偶然にしては、できすぎだ。
そして彼女たちの背後に、同じ名前があった。
グランディア公爵。
直接名は出していない。だが、金も、手紙も、運び屋が同じ男だ。
「手紙は、これか」
六通の手紙を並べる。
「君こそ、王太子妃にふさわしい。私が後ろ盾になろう」
文面は、六通とも、ほぼ同じ。
違うのは、宛名だけだ。
『六人とも、同じことを言われていたのですか……』
「しかも、お互いが知らない」
『それは、あまりにも……』
「小賢しいな」
一人ひとりに「君だけだ」と囁いて、互いに潰し合わせる。その勝者を、自分の養子として王家に送り込む。実に、よく考えたものだ。
そして、うまくいかなかったら、全員を切り捨てるつもりでいる。それができる下位の令嬢たちを選んでいる。
『お父様。あの方たち、悪い人たちではないのです』
イリーナが、静かに言った。
『みなさん、家の事情があって……利用されているだけなのです』
「知っている」
『お怒りは、解けませんか』
「解けない。だが、それとこれとは別だ」
私は、ペンを取った。
六つの家の当主に、同じ書状を送る。手紙の写しと、グランディアとのつながりを示す証拠、それに一文を添えた。
「このまま続ければ、家ごと王家に潰される。今、静かに身を引くならば、この件は公にしない」
脅しではない。親切だ。
「そのうち一家には、借金の整理先も添えておいた」
『お父様、意外とお優しい』
「優しくはない。借金で縛られた人間は、また誰かに利用される。再発防止だ」
『……そういうところが、「冷静な暴走列車」なのですね』
「何だ、それは」
『なんでもありません』
数日で、返事が届いた。
令嬢たちは、一人、また一人と、王太子の周りから姿を消していった。
* * *
王宮の大広間は、華やかだった。
私はイリーナの姿で、会場の隅に立っていた。
『お父様、お顔がきつくなっています』
「元からだ」
『それは、そうなのですが……』
周囲の囁きが、耳に入る。
「ヴァルディア公爵が倒れたとか」
「あの冷血公爵も、人の子か」
「氷の令嬢の一家でしょう? 笑った顔を見たことがないわ」
冷血公爵。氷の令嬢。恐ろしい一家。
外から見れば、そうなのだろう。
(まあ、さすがに娘にも、夫婦仲を疑われているとは思わなかったが)
ふと、広間の中央に目をやって、私は小さく息をついた。
王太子が、ひとりでいた。
あれほど周りに群がっていた令嬢たちも、取り巻きも、誰もいない。広い床の真ん中に、ぽつんと立っている。
『殿下……』
「同情するな」
『しておりません。でも、少しだけ……なんというか……寂しそうで』
それが同情というのだ。
だが、王太子を哀れんでいる時間はなかった。
「イリーナ」
背後から声がした。王妃だった。
扇の陰から、じろりと私を見る。
「あなたの周りには、誰もいないようね」
ああ、これは王妃の悪い癖だ。獲物を前にした猫の目だ。
「殿下の周りも静かになりました。ならば、あなたの王妃教育を倍にします。殿下に逆らわぬよう、徹底的に」
『お父様……』
「待て。私に任せろ」
私が王妃を詰めようとした、その時だった。
大広間の扉が開いた。
空気が、変わった。
会場のざわめきが、波が引くように止んでいく。
入ってきたのは、セレーネだった。
銀糸の刺繍を施した、深い青のドレス。背筋はまっすぐ、歩みは静か。扇を持つ手の角度まで、完璧だった。
かつて社交界の頂点にいた、氷の令嬢の帰還。
「セレーネ様……?」
「氷の令嬢が……?」
人々が、道を開ける。
セレーネは、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
王妃が、口元を歪めて笑った。
「あら? お一人で来たの?」
「ええ」
セレーネは、優雅に微笑んだ。
その「ええ」を聞いた瞬間、私は夫として、全てを理解した。
扇の閉じ方。口角の上がり方。視線の角度。
あれは、こう言っている。
――テメーをぶっ潰すためにな。
『お父様、お母様の心の声が聞こえるんですか』
「いや、勘だ」
『勘ですか』
「二十年近く連れ添えば、わかる」
王妃は気づかない。
セレーネは、そのまま王妃の前に進み出て、娘の腕に、そっと手を添えた。
「娘が、お世話になっております」
声は、あくまで柔らかい。
「王妃教育のこと、よく伺っておりますわ。ぜひ一度、わたくしも見学させていただきたいものです」
王妃の笑みが、固まった。
「それは……」
「見られては困ることでも?」
周囲の貴族たちが、息を呑む。
セレーネは、それ以上、何も言わなかった。言う必要がなかった。
氷の令嬢が帰ってきた。かつての社交の花が変わらぬままに。
その事実だけで、広間の空気は、もう決まってしまっていた。
『お母様、すごい……』
「ああ。さすがは私の妻だ」
『お父様、今、嬉しそうなお顔をされました』
「娘の顔でするな、とは言うな」
* * *
翌日。王宮の応接室。
王太子は、ひとりで私たちを待っていた。
向かいに座る彼は、どこか疲れているように見えた。ほんの少しだけ、痩せた気もする。
『お父様。ここからは、わたくしが言いたいことを、お父様の口で……お願いします』
「ああ」
イリーナは、自分で言いたいのだ。ただ、一人では緊張が過ぎるらしい。
内側から、静かに言葉が届く。
『「政略結婚をしなくて良くなったので、婚約解消してください」と』
私は頷き、そのまま口にした。
「政略結婚をしなくて良くなったので、婚約解消してください」
王太子は、瞬きをした。
それから、困ったように笑った。
「イリーナ、また、そんな冗談を。私のこと好きなのに?」
『?』
「?……いいえ?」
イリーナの戸惑いが、頭の中で響く。私の声にも、そのまま出た。
王太子は、まだ笑っている。
「強がらなくていい。最近、私の周りに令嬢たちが集まっていたから、妬いているんだろ?」
私の中で、何かが静かに切れた。
「はぁ?」
低い声が出た。娘の声帯を通しても、威圧感が出るものだと、あらためて思った。
王太子が、笑顔のまま凍りつく。
「イリーナ? 口調が……」
「解消で済ませてやるって言ってんだ、証拠はなんぼでもあるんだぞ」
『お父様! 言い過ぎー!』
イリーナの悲鳴が、頭の中で弾けた。
「……失礼。言い過ぎました」
私は咳払いをして、座り直した。
「殿下。あなたの周りにいた令嬢たちは、全員、同じ人物から金を受け取っていました」
「え」
「あなたに近づくよう、指示した者がいます。誰の差し金かも、すべて調べがついています」
王太子の顔から、血の気が引いていった。
私は、続けた。
「あなたはあの令嬢たちに、好かれていたと思っていたのでしょう。ですが彼女たちが見ていたのは、あなたではありません。王太子妃という立場です」
「……そんな」
「それから、うちの娘のことですが」
「は?娘?」
私は、はっきり言った。
「イリーナは、あなたに恋をしたことなど、一度もありません。最初から、一度も」
沈黙が落ちた。
王太子は長い間、何も言えなかった。やがて、小さく言った。
「……そうか」
そこで、ようやく彼は理解したらしい。
自分が好かれていると思っていたのは、自分だけだったのだと。
悪い人物ではないのだ。ただ、人を見る目がなく、思い込みが強いだけで。
その分、悪意に簡単に利用された。
「婚約解消を、受け入れよう」
彼は、静かに頭を下げた。
『お父様』
「何だ」
『ちゃんと、伝えられました。ありがとうございます』
「……君が決めたことだ」
私は言わなかった。
あの子が、心の底から安堵しているのが、全身を通して伝わってきたことは。
* * *
その夜。
王都の外れ、グランディア公爵家の裏門。
「こんなはずでは……」
馬車の扉を開けながら、そんな独り言を呟いた男がいた。
グランディア公爵だった。
計画は完全に崩れている。六人の令嬢は消え、王太子は孤立し、ヴァルディア家は社交界に返り咲いた。
思いがけず大事になってしまった。こうなれば国外へ逃げるしかない。
馬車に足を掛けたところで、中に誰かが座っているのに気づいた。
「ごきげんよう、グランディア公」
馬車の座席に座っていたのは、年若い令嬢だった。
隣には、優雅な貴婦人も座っている。
「ヴァルディア公爵家の者です」
グランディア公爵の口が、ぱくぱくと動いた。
「な、なぜヴァルディアが」
「夜分に失礼。道中、お供いたしましょうか」
私は、娘の声で、できるだけ丁寧に言った。
「六通の手紙は、すべて拝見しました。そのうち一通は、宛名の綴りを間違えておいででしたね」
「…………」
「お逃げになるなら、正門からどうぞ。裏門に続く道は、すでに封じてあります」
扉の外から、衛兵が現れた。公爵家の私兵と、王家の使者も一緒だ。
すでに、全部掴んでいた。見逃すはずないだろう。
グランディア公爵は、がっくりと膝をついた。
大悪党でもなんでもない。他人の野心を、自分の都合のいいように並べようとした、小賢しい男だった。
『お父様、少しは、お優しい言葉を』
「優しくする理由がない」
『そうですけれど』
隣のセレーネが、扇の陰でそっと微笑んだ。
「お疲れさまでした、あなた」
「ああ」
終わった。
あとは、あの日を越えるだけだ。
* * *
処刑の日の朝は、驚くほど静かだった。
食堂で、みんな揃って朝食を取った。
テーブルの上には、いつものスープとパン。セレーネは優雅に紅茶を飲んでいる。
私は、落ち着かなかった。
正午の鐘が鳴る時間が、近づく。
娘の身体で、カップを持つ手が少し震えた。
『お父様』
「何だ」
『大丈夫です。わたくしたち、ここにいます』
「……ああ」
鐘が、鳴った。
一度。二度。三度。
十二回。
何も、起こらなかった。
外では、鳥が鳴いている。窓から射し込む光は、あくまで穏やかだ。
「……生きてる」
『はい。生きてます』
セレーネが、ティーカップをそっと置いた。
何も言わず、手を伸ばして、私の手を握る。
イリーナの手のひらは、私が思っていたよりずっと小さかった。
* * *
その後、私たちは私の寝室に集まった。
ベッドの上には、まだ眠ったままの私の身体がある。首の痣は、そのままだ。
「さて。次は、こちらの問題だ」
私は、自分の身体を見下ろして言った。
「処刑の日は越えた。次は、元の身体に戻る方法を探さねば」
「文献を当たってみましょう。王宮の書庫なら、何かあるかもしれません」
セレーネが頷く。
「必要なら、わたくしが王妃様に……」
「それは最終手段にしておこう」
話しながら、私は何気なく、眠っている自分の手に触れた。
その時だった。
視界が、ふっと暗くなった。
『お父様?』
イリーナの声が、遠くなる。
次に目を開けた時、見えたのは、見慣れた寝室の天井だった。
「あれ?」
声が、低い。
慌てて起き上がると、大きな手が、自分のものとして動いた。首に触れても、痛みも違和感もない。
隣で、セレーネとイリーナが、目を丸くしていた。
イリーナが、自分の足で立っていた。
「お父様……?」
今度は、耳から聞こえた。
「イリーナ!」
「わたくしの身体、戻りましたわ!」
「私も戻った!」
セレーネが、私の首元に視線を落とした。
「痣が、消えていますわ」
役目を終えたのだろう。そう思うことにした。細かい理屈は、考えないことにした。
三人で顔を見合わせて、そして、誰からともなく、笑った。
* * *
三人揃った翌朝の食卓は、いつもよりずっと賑やかだった。
もっとも、声を出していたのは主にイリーナだ。
ふとイリーナは、私を見つめた。
「お父様が冷血公爵って、本当だったんですね」
「……え?」
私は、フォークを持ったまま固まった。
「冷静な暴走列車。怖いです」
「何?」
「証拠を集めるのが速すぎます。判断が早すぎます。やると決めたら、止まらないんです」
「私は効率的に処理しただけだ」
「それが怖いんです」
致命的な一撃だった。
私は、静かにフォークを置いた。
隣で、セレーネがティーカップを傾けながら、淡々と追撃した。
「お顔が怖くなっていますよ、あなた」
「セレーネまで」
「ええ。昨日もずっと、怖いお顔でしたわ」
私は、娘の隣で、妻の隣で、しばらく何も言えなかった。
三人の沈黙が、ひどく懐かしく思えた。
その沈黙を、イリーナが破った。
「でも」
彼女は、少しだけ笑った。
「すごく頼りになります。かっこいいです」
その一言で、私の中の何かが、ぐらりと揺れた。
「イリーナァ……」
我ながら情けない声が出た。
「お父様、泣かないでください」
「泣いてない」
「泣いていらっしゃいます」
セレーネが、扇で口元を隠している。肩が震えていた。笑っているのだ。
私は娘の頭に、そっと手を置いた。
「イリーナ」
「はい」
「今度は、何かあったら、ちゃんと言ってくれ。迷惑だなんて、思うな」
「……はい、お父様」
「私も、ちゃんと聞く。ちゃんと見る。今度こそ」
「はい」
「そして」
私は、一周目に言えなかったことを、ようやく言った。
「いつだってパパが絶対助けてやるからな」
イリーナは、少しだけ目を潤ませて、それから、まっすぐに微笑んだ。
「はい、お父様」
窓の外で、朝の鐘が鳴った。
外からは「冷血公爵」「氷の令嬢」と恐れられる、ヴァルディア公爵家。
けれどその食卓は、不器用な三人が、遅ればせながら互いに言葉を交わす、温かな場所だった。
一度は救えなかった娘を、今度は家族三人で守り抜いた。
私たちの新しい人生は、ここから始まる。




