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死に戻り令嬢「パパが絶対助けてやるからな」

作者: くみの
掲載日:2026/10/06

膝の下で、石畳が冷たかった。


処刑台から見下ろす広場は、人で埋まっている。罵声。嘲笑。誰かが投げた石が、私の足元で跳ねた。


「公女イリーナ・ヴァルディアは、王太子殿下の婚約者でありながら数々の不祥事を重ね、王家に甚大な損害を与えた」


役人が罪状を読み上げる。


「ヴァルディア公爵家はその所業を黙認し、あまつさえ加担した。よって、連座を命ずる」


加担。


した覚えなど、ひとつもない。


右隣に、娘のイリーナがいた。背筋を伸ばしたまま、唇を噛んでいる。血が滲んでいた。左隣には妻のセレーネ。「氷の令嬢」と呼ばれた美しい顔は、最後まで崩れない。


私は何も知らなかった。


娘が何をしたことにされているのか。誰がこんな絵を描いたのか。


そして、なぜ私は、娘の顔を最後に見るのが、こんな場所なのか。


(娘なら大丈夫だ。公爵令嬢なのだから、自分で何とかするだろう)


そう思って、私は何年も、娘をちゃんと見てこなかった。


だから。


せめて、これだけは言わなければならなかった。


「おかしい! うちの娘がそんなはずない!」


「静粛に」


「あの子は、そんなことをする子じゃない! 調べ直せ! 私の娘を――」


刃の落ちる音がした。


そこで、私の世界は途切れた。


* * *


暗い。


その次に感じたのは、柔らかさだった。


背中の下に、やけに上質な寝具。頬に触れる、さらさらとした長い髪。


……髪?


「生きてる?」


声を出して、固まった。


高い。細い。私の声ではない。


見上げた天蓋には見覚えがあった。屋敷の、娘の部屋だ。


私は処刑されたはずだ。刃が落ちる音まで聞いた。なのに首はつながっているし、痛みもない。ただ、手が小さい。白くて細くて、爪の先まで手入れが行き届いている。


(……私の手ではない)


その時だった。


『わたくし、死んだんじゃ……』


頭の中で、声がした。


耳ではない。内側から響く声。十七年間、毎日聞いてきた声だ。


「イリーナ?」


自分の口から出たのは、やはり娘の声だった。


『お父様?』


間違いない。イリーナだ。


「イリーナ、どこにいる」


『どこって、ここですわ。お父様のお声が、わたくしの口から聞こえて……』


「落ち着け。私も落ち着く」


『お父様が落ち着いてください』


ごもっとも。


ベッドを降りて、姿見の前に立つ。


映っていたのは、母親そっくりの整った顔立ちの令嬢だった。ただ、目元だけは、どう見ても私だった。きつい。非常にきつい。


(……ああ、これは確かに「怖い」と言われる)


いや、今はそこではない。


「まさか私は娘の体を……奪った?」


『奪っ……!?』


「違う、そういう意味では」


『お父様、わたくしの身体は返していただけるのでしょうか』


「当たり前だ! いや、方法は知らんが!」


『知らないんですの!?』


どうしてこの状況で、娘のほうが冷静なのだ。


その時、扉が激しく叩かれた。


「お嬢様! お嬢様、起きていらっしゃいますか!」


執事のロウェルの声だ。いつも静かなこの男が、声を裏返している。


「旦那様が、書斎でお倒れに!」


私が、倒れた?


* * *


書斎のソファに、私が寝ていた。


自分の寝顔を見るのは、あまり気持ちのいいものではない。しかも目つきが悪い。眠っているのに悪い。


「先ほどお声をかけに参りましたところ、すでにこのご様子で。お医者様をお呼びしております」


ロウェルが早口で言う。


私は近づいて、襟元を覗き込んだ。


首に、一本。


赤い線のような痣が、ぐるりと走っていた。


処刑の刃が通った場所だ。


『お父様、それは……』


「ああ。思い当たる原因がある」


つまり、あの一周目の死が原因だ。私の意識が娘の身体にあるのは、おそらくこの痣と無関係ではない。


「どうやら私が原因か」


呟いたところで、扉が開いた。


セレーネだった。


走ってはいない。優雅な歩み。表情も崩れていない。さすがは氷の令嬢だ。


ただ、ソファの傍らに膝をついた時、私の手を取った彼女の指が、小さく震えているのが見えた。


「あなた」


低く、かすれた声だった。


「どうして」


……この人は、こういう顔をするのだ。

私の前でだけは。


(見ているのが私の身体でなければ、もう少しじっくり見ていたいのだが)


駆けつけた医者は、首をひねった。


「脈も呼吸も正常です。ただ、眠っておられるだけのようで」


「それは、いつ起きる」


「……わかりません」


役に立たない。


医者を返し、机に目をやる。開いたままの日めくり暦が目に入った。


数字を見て、息が止まった。


あの日まで、あと九十日。


処刑の日付を、私が忘れるわけがない。


(九十日。学園の三年目。確か、娘に関する妙な噂が出はじめた頃だ)


ひとまず、状況は把握した。


私は戻ってきた。娘の身体とともに。そして私自身の身体は眠ったまま。


自分の身体を取り戻す方法を探している時間は、ない。


「だが、このままでは時間がない」


私は決めた。


「イリーナ。パパが絶対助けてやるからな」


『……お父様、今、パパって』


「聞くな」


『はい』


そこは、素直なのだな。


* * *


セレーネに話をするため、人払いをして、彼女の私室に入った。


二人きりになったところで、私は切り出した。


「セレーネ。私だ。アルヴァンだ」


セレーネの眉が、ぴくりと動いた。


「イリーナ。冗談にしては、趣味が悪くてよ」


「冗談ではない。この身体はたしかにイリーナのものだが、今、動かしているのは私だ。ソファで寝ている私は抜け殻だ」


「……お母様をからかうものではありませんわ」


声は完全に娘のものなのに、口調が夫のものだ。聞いている側は混乱するだろう。わかる。


だが、時間がない。


「証拠が要るのだな」


「ええ」


彼女は扇を開いて、冷たい目で私を見た。


さて、何を言えば信じてもらえる。二人だけの秘密。他の誰も知らないこと。


私は覚悟を決めた。


「……君へのプロポーズは、浮かれすぎて、会ったその日に、庭の花を手折って渡した」


扇が、床に落ちた。


セレーネは固まっていた。


娘の顔で、父親が妻に昔のプロポーズを暴露する。字面だけで相当にひどい。


しかし、これが一番確実だった。


「あれは……誰にも、話したことが……」


「ない。私も君も、誰にも」


「本当に、あなたなの?」


「ああ」


セレーネは、しばらく動かなかった。それから、そっと扇を拾った。


やがて、小さく息をついた。


「あなたの浮かれ方は、今思い出しても……」


「その話はいい」


「……ええ。本当に、あなたなのですね」


信じてもらえた。助かった。


その時、頭の中で、イリーナが遠慮がちに口を開いた。


『お父様。お二人は、仲が悪かったのでは……? お花のお話なんて、わたくし、初めて……』


……何だと。


「セレーネ。イリーナが、私たちの仲が悪かったのではないか、と言っているのだが」


セレーネが、目を逸らした。


耳の先が、ほんのりと赤い。


「だって……恥ずかしくて」


「恥ずかしい?」


「人前でお話しすると、どうしても……素っ気なくなってしまって」


私は、仲が良いつもりだった。


「私は、君と仲が悪いとは一度も思っていなかった」


「わたくしもです」


「……では、なぜ娘に伝わっていないんだ」


二人揃って、黙った。


『お父様もお母様も、似た者同士ですわ』


イリーナの声には、笑いが混じっていた。


仲は悪くなかったのだ。夫婦も、親子も。ただ、言葉が足りなかっただけで。


(三人とも、同じ顔をして黙っていたのか)


それを知るために、一度死なねばならなかったのかと思うと、やるせない。


「セレーネ。落ち着いて聞いてほしい」


私は、一周目のことを話した。


九十日後に、家族三人が処刑されること。罪状が、イリーナの不祥事と、公爵家の加担だったこと。


セレーネは、一度も口を挟まなかった。話し終えると、静かに言った。


「……わかりました。信じます」


「疑わないのか」


「あなたが、わたくしの前で嘘をつける方でないことは、存じております」


そう言って、わずかに口元を緩める。


「それに、花を手折って差し出す方は、そう何人もいませんもの」


その話はもういい。


* * *


次は、一周目に何があったのか知る番だった。


私も、セレーネも、肝心なことは何も知らない。表向きの罪状を聞かされただけだ。


「イリーナ。話せるか」


『……はい』


娘の言葉を、私が口に出してセレーネに伝える。


王太子の周りに、いつの間にか令嬢たちが集まっていたこと。


学園で、「イリーナにいじめられた」と訴える生徒が出はじめたこと。


「公爵令嬢は気に入らない者を追い出す」という噂が、広がりはじめたこと。


『最初は、気にしないようにしていました。でも、そのうち、本当にそう思っている人が増えて……』


「ふむ」


『それと、王妃様のお稽古が……』


イリーナの声が、わずかに沈んだ。


『礼の角度が一度違うだけで、何時間も同じ動きを繰り返しました。「お母様のような令嬢にはならぬように」と言われて……』


セレーネの扇が、ぱきり、と音を立てた。


私は、深く息を吸った。


「どうして耐えていた?」


こんなことが続いていたのなら、一言でも、私たちに言えばよかった。


そう言いかけて、私は口を閉じた。


違う。言えなかったのだ。


『迷惑はかけられないと……』


『王妃になるのだから、これくらいは自分で耐えなければと思って……』


ああ。


そういうことか。


娘は、私たちに愛されていなかったのではない。愛されていることを、うまく受け取れなかったのでもない。


「迷惑をかけたくない」と思うほどには、私たちを大切に思っていた。


そして私は、それに気づかないまま、「娘なら大丈夫だ」と見送った。


私は、父親として何も分かっていなかった。


……だが、後悔している時間はない。


後悔は、行動に移したあとですればいい。


私は立ち上がった。


「所詮、学園のガキどもが……」


我ながら低い声が出た。娘の声帯でも、威圧感は出るものだ。


『お父様、お口が』


「パパに、任せなさい!」


『お父様、そのお顔は、わたくしの顔です!』


セレーネが、ゆっくり立ち上がった。


扇は、半分に折れている。


「あの王妃……うちの娘になんてことを」


低く、静かな声だった。


「こんなの、嫁いびりじゃない」


「セレーネ、言葉が」


「ママに、任せなさい!」


優雅に微笑んでいる。微笑んでいるのだが、背後に冷気が立ちのぼっていた。


『お二人とも、落ち着いてください……!』


イリーナのツッコミが、頭の中に響いた。


そうだ。一番冷静なのは、いつもこの子だったのだ。


* * *


その夜、もうひとつ、確認しておくことがあった。


「イリーナ。そもそも、王太子……好き……なのか」


聞くのが怖かった。


『いえ。政略結婚だと……』


即答だった。


私は、肩の力が抜けた。


「そうか。そうか!」


『お父様?』


「ならば、好きでもない相手のために耐える必要はない。せめて好きな人と結ばれて! なんなら、お嫁に行かなくてもいい!」


『お父様、飛躍しすぎです』


「いいや、ずっと家にいてもいい」


『それは、それで困ります……!』


* * *


「調べたら出てきた」で済む話は、さっさと済ませるに限る。


私は、書斎で報告書を広げていた。


執務は、公爵家の印章と、家の者たちと、情報網がやってくれる。私に必要なのは、指示を出す声と、サインする手だけだ。


手が小さいのが難点だが。


『お父様の字、お父様の字のままですね』


「手が小さくなっても、癖は変わらん」


ロウェルが震える手でお茶を置いた。


「旦那様……いえ、お嬢様。報告書が、三日で揃ったのですが」


「普通だろう」


「普通ではございません!」


そうなのか。


書類を一枚ずつめくる。


学園のいじめの訴えは、五件。うち三件は、イリーナがその時刻、王宮で王妃教育を受けていた。つまり、王妃本人が、娘の無実の証人になっている。皮肉なものだ。


訴えを出した生徒たちには、共通点があった。


「ふむ」


六人の令嬢たちは、それぞれ別々の家の者だ。明るく健気な男爵令嬢。ドジを演じる子爵令嬢。眼鏡の委員長。騎士の家のボーイッシュな娘。ツンとした伯爵令嬢。そして、色気を漂わせた令嬢。


まあ、見事にタイプが分かれている。偶然にしては、できすぎだ。


そして彼女たちの背後に、同じ名前があった。


グランディア公爵。


直接名は出していない。だが、金も、手紙も、運び屋が同じ男だ。


「手紙は、これか」


六通の手紙を並べる。


「君こそ、王太子妃にふさわしい。私が後ろ盾になろう」


文面は、六通とも、ほぼ同じ。


違うのは、宛名だけだ。


『六人とも、同じことを言われていたのですか……』


「しかも、お互いが知らない」


『それは、あまりにも……』


「小賢しいな」


一人ひとりに「君だけだ」と囁いて、互いに潰し合わせる。その勝者を、自分の養子として王家に送り込む。実に、よく考えたものだ。


そして、うまくいかなかったら、全員を切り捨てるつもりでいる。それができる下位の令嬢たちを選んでいる。


『お父様。あの方たち、悪い人たちではないのです』


イリーナが、静かに言った。


『みなさん、家の事情があって……利用されているだけなのです』


「知っている」


『お怒りは、解けませんか』


「解けない。だが、それとこれとは別だ」


私は、ペンを取った。


六つの家の当主に、同じ書状を送る。手紙の写しと、グランディアとのつながりを示す証拠、それに一文を添えた。


「このまま続ければ、家ごと王家に潰される。今、静かに身を引くならば、この件は公にしない」


脅しではない。親切だ。


「そのうち一家には、借金の整理先も添えておいた」


『お父様、意外とお優しい』


「優しくはない。借金で縛られた人間は、また誰かに利用される。再発防止だ」


『……そういうところが、「冷静な暴走列車」なのですね』


「何だ、それは」


『なんでもありません』


数日で、返事が届いた。


令嬢たちは、一人、また一人と、王太子の周りから姿を消していった。


* * *


王宮の大広間は、華やかだった。


私はイリーナの姿で、会場の隅に立っていた。


『お父様、お顔がきつくなっています』


「元からだ」


『それは、そうなのですが……』


周囲の囁きが、耳に入る。


「ヴァルディア公爵が倒れたとか」


「あの冷血公爵も、人の子か」


「氷の令嬢の一家でしょう? 笑った顔を見たことがないわ」


冷血公爵。氷の令嬢。恐ろしい一家。

外から見れば、そうなのだろう。


(まあ、さすがに娘にも、夫婦仲を疑われているとは思わなかったが)


ふと、広間の中央に目をやって、私は小さく息をついた。


王太子が、ひとりでいた。


あれほど周りに群がっていた令嬢たちも、取り巻きも、誰もいない。広い床の真ん中に、ぽつんと立っている。


『殿下……』


「同情するな」


『しておりません。でも、少しだけ……なんというか……寂しそうで』


それが同情というのだ。


だが、王太子を哀れんでいる時間はなかった。


「イリーナ」


背後から声がした。王妃だった。


扇の陰から、じろりと私を見る。


「あなたの周りには、誰もいないようね」


ああ、これは王妃の悪い癖だ。獲物を前にした猫の目だ。


「殿下の周りも静かになりました。ならば、あなたの王妃教育を倍にします。殿下に逆らわぬよう、徹底的に」


『お父様……』


「待て。私に任せろ」


私が王妃を詰めようとした、その時だった。


大広間の扉が開いた。


空気が、変わった。


会場のざわめきが、波が引くように止んでいく。


入ってきたのは、セレーネだった。


銀糸の刺繍を施した、深い青のドレス。背筋はまっすぐ、歩みは静か。扇を持つ手の角度まで、完璧だった。


かつて社交界の頂点にいた、氷の令嬢の帰還。


「セレーネ様……?」


「氷の令嬢が……?」


人々が、道を開ける。


セレーネは、まっすぐにこちらへ歩いてきた。


王妃が、口元を歪めて笑った。


「あら? お一人で来たの?」


「ええ」


セレーネは、優雅に微笑んだ。


その「ええ」を聞いた瞬間、私は夫として、全てを理解した。


扇の閉じ方。口角の上がり方。視線の角度。


あれは、こう言っている。


――テメーをぶっ潰すためにな。


『お父様、お母様の心の声が聞こえるんですか』


「いや、勘だ」


『勘ですか』


「二十年近く連れ添えば、わかる」


王妃は気づかない。


セレーネは、そのまま王妃の前に進み出て、娘の腕に、そっと手を添えた。


「娘が、お世話になっております」


声は、あくまで柔らかい。


「王妃教育のこと、よく伺っておりますわ。ぜひ一度、わたくしも見学させていただきたいものです」


王妃の笑みが、固まった。


「それは……」


「見られては困ることでも?」


周囲の貴族たちが、息を呑む。


セレーネは、それ以上、何も言わなかった。言う必要がなかった。


氷の令嬢が帰ってきた。かつての社交の花が変わらぬままに。


その事実だけで、広間の空気は、もう決まってしまっていた。


『お母様、すごい……』


「ああ。さすがは私の妻だ」


『お父様、今、嬉しそうなお顔をされました』


「娘の顔でするな、とは言うな」


* * *


翌日。王宮の応接室。


王太子は、ひとりで私たちを待っていた。


向かいに座る彼は、どこか疲れているように見えた。ほんの少しだけ、痩せた気もする。


『お父様。ここからは、わたくしが言いたいことを、お父様の口で……お願いします』


「ああ」


イリーナは、自分で言いたいのだ。ただ、一人では緊張が過ぎるらしい。


内側から、静かに言葉が届く。


『「政略結婚をしなくて良くなったので、婚約解消してください」と』


私は頷き、そのまま口にした。


「政略結婚をしなくて良くなったので、婚約解消してください」


王太子は、瞬きをした。


それから、困ったように笑った。


「イリーナ、また、そんな冗談を。私のこと好きなのに?」


『?』


「?……いいえ?」


イリーナの戸惑いが、頭の中で響く。私の声にも、そのまま出た。


王太子は、まだ笑っている。


「強がらなくていい。最近、私の周りに令嬢たちが集まっていたから、妬いているんだろ?」


私の中で、何かが静かに切れた。


「はぁ?」


低い声が出た。娘の声帯を通しても、威圧感が出るものだと、あらためて思った。


王太子が、笑顔のまま凍りつく。


「イリーナ? 口調が……」


「解消で済ませてやるって言ってんだ、証拠はなんぼでもあるんだぞ」


『お父様! 言い過ぎー!』


イリーナの悲鳴が、頭の中で弾けた。


「……失礼。言い過ぎました」


私は咳払いをして、座り直した。


「殿下。あなたの周りにいた令嬢たちは、全員、同じ人物から金を受け取っていました」


「え」


「あなたに近づくよう、指示した者がいます。誰の差し金かも、すべて調べがついています」


王太子の顔から、血の気が引いていった。


私は、続けた。


「あなたはあの令嬢たちに、好かれていたと思っていたのでしょう。ですが彼女たちが見ていたのは、あなたではありません。王太子妃という立場です」


「……そんな」


「それから、うちの娘のことですが」


「は?娘?」


私は、はっきり言った。


「イリーナは、あなたに恋をしたことなど、一度もありません。最初から、一度も」


沈黙が落ちた。


王太子は長い間、何も言えなかった。やがて、小さく言った。


「……そうか」


そこで、ようやく彼は理解したらしい。


自分が好かれていると思っていたのは、自分だけだったのだと。


悪い人物ではないのだ。ただ、人を見る目がなく、思い込みが強いだけで。


その分、悪意に簡単に利用された。


「婚約解消を、受け入れよう」


彼は、静かに頭を下げた。


『お父様』


「何だ」


『ちゃんと、伝えられました。ありがとうございます』


「……君が決めたことだ」


私は言わなかった。


あの子が、心の底から安堵しているのが、全身を通して伝わってきたことは。


* * *


その夜。


王都の外れ、グランディア公爵家の裏門。


「こんなはずでは……」


馬車の扉を開けながら、そんな独り言を呟いた男がいた。


グランディア公爵だった。


計画は完全に崩れている。六人の令嬢は消え、王太子は孤立し、ヴァルディア家は社交界に返り咲いた。


思いがけず大事になってしまった。こうなれば国外へ逃げるしかない。


馬車に足を掛けたところで、中に誰かが座っているのに気づいた。


「ごきげんよう、グランディア公」


馬車の座席に座っていたのは、年若い令嬢だった。


隣には、優雅な貴婦人も座っている。


「ヴァルディア公爵家の者です」


グランディア公爵の口が、ぱくぱくと動いた。


「な、なぜヴァルディアが」


「夜分に失礼。道中、お供いたしましょうか」


私は、娘の声で、できるだけ丁寧に言った。


「六通の手紙は、すべて拝見しました。そのうち一通は、宛名の綴りを間違えておいででしたね」


「…………」


「お逃げになるなら、正門からどうぞ。裏門に続く道は、すでに封じてあります」


扉の外から、衛兵が現れた。公爵家の私兵と、王家の使者も一緒だ。


すでに、全部掴んでいた。見逃すはずないだろう。


グランディア公爵は、がっくりと膝をついた。


大悪党でもなんでもない。他人の野心を、自分の都合のいいように並べようとした、小賢しい男だった。


『お父様、少しは、お優しい言葉を』


「優しくする理由がない」


『そうですけれど』


隣のセレーネが、扇の陰でそっと微笑んだ。


「お疲れさまでした、あなた」


「ああ」


終わった。


あとは、あの日を越えるだけだ。


* * *



処刑の日の朝は、驚くほど静かだった。


食堂で、みんな揃って朝食を取った。


テーブルの上には、いつものスープとパン。セレーネは優雅に紅茶を飲んでいる。


私は、落ち着かなかった。


正午の鐘が鳴る時間が、近づく。


娘の身体で、カップを持つ手が少し震えた。


『お父様』


「何だ」


『大丈夫です。わたくしたち、ここにいます』


「……ああ」


鐘が、鳴った。


一度。二度。三度。


十二回。


何も、起こらなかった。


外では、鳥が鳴いている。窓から射し込む光は、あくまで穏やかだ。


「……生きてる」


『はい。生きてます』


セレーネが、ティーカップをそっと置いた。


何も言わず、手を伸ばして、私の手を握る。


イリーナの手のひらは、私が思っていたよりずっと小さかった。


* * *


その後、私たちは私の寝室に集まった。


ベッドの上には、まだ眠ったままの私の身体がある。首の痣は、そのままだ。


「さて。次は、こちらの問題だ」


私は、自分の身体を見下ろして言った。


「処刑の日は越えた。次は、元の身体に戻る方法を探さねば」


「文献を当たってみましょう。王宮の書庫なら、何かあるかもしれません」


セレーネが頷く。


「必要なら、わたくしが王妃様に……」


「それは最終手段にしておこう」


話しながら、私は何気なく、眠っている自分の手に触れた。


その時だった。


視界が、ふっと暗くなった。


『お父様?』


イリーナの声が、遠くなる。


次に目を開けた時、見えたのは、見慣れた寝室の天井だった。


「あれ?」


声が、低い。


慌てて起き上がると、大きな手が、自分のものとして動いた。首に触れても、痛みも違和感もない。


隣で、セレーネとイリーナが、目を丸くしていた。


イリーナが、自分の足で立っていた。


「お父様……?」


今度は、耳から聞こえた。


「イリーナ!」


「わたくしの身体、戻りましたわ!」


「私も戻った!」


セレーネが、私の首元に視線を落とした。


「痣が、消えていますわ」


役目を終えたのだろう。そう思うことにした。細かい理屈は、考えないことにした。


三人で顔を見合わせて、そして、誰からともなく、笑った。


* * *


三人揃った翌朝の食卓は、いつもよりずっと賑やかだった。


もっとも、声を出していたのは主にイリーナだ。


ふとイリーナは、私を見つめた。


「お父様が冷血公爵って、本当だったんですね」


「……え?」


私は、フォークを持ったまま固まった。


「冷静な暴走列車。怖いです」


「何?」


「証拠を集めるのが速すぎます。判断が早すぎます。やると決めたら、止まらないんです」


「私は効率的に処理しただけだ」


「それが怖いんです」


致命的な一撃だった。


私は、静かにフォークを置いた。


隣で、セレーネがティーカップを傾けながら、淡々と追撃した。


「お顔が怖くなっていますよ、あなた」


「セレーネまで」


「ええ。昨日もずっと、怖いお顔でしたわ」


私は、娘の隣で、妻の隣で、しばらく何も言えなかった。


三人の沈黙が、ひどく懐かしく思えた。


その沈黙を、イリーナが破った。


「でも」


彼女は、少しだけ笑った。


「すごく頼りになります。かっこいいです」


その一言で、私の中の何かが、ぐらりと揺れた。


「イリーナァ……」


我ながら情けない声が出た。


「お父様、泣かないでください」


「泣いてない」


「泣いていらっしゃいます」


セレーネが、扇で口元を隠している。肩が震えていた。笑っているのだ。


私は娘の頭に、そっと手を置いた。


「イリーナ」


「はい」


「今度は、何かあったら、ちゃんと言ってくれ。迷惑だなんて、思うな」


「……はい、お父様」


「私も、ちゃんと聞く。ちゃんと見る。今度こそ」


「はい」


「そして」


私は、一周目に言えなかったことを、ようやく言った。


「いつだってパパが絶対助けてやるからな」


イリーナは、少しだけ目を潤ませて、それから、まっすぐに微笑んだ。


「はい、お父様」


窓の外で、朝の鐘が鳴った。


外からは「冷血公爵」「氷の令嬢」と恐れられる、ヴァルディア公爵家。


けれどその食卓は、不器用な三人が、遅ればせながら互いに言葉を交わす、温かな場所だった。


一度は救えなかった娘を、今度は家族三人で守り抜いた。


私たちの新しい人生は、ここから始まる。


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